第238話:バイア宮殿
2030年1月4日
「マラケシュって、意外に緑が豊かなんだね」
正直、アフリカといえば、“砂漠”というイメージを持っていた。
でも、モスクの尖塔に向かって真っすぐに伸びる水路の脇の街路樹は、むしろ熱帯さえ想起させる。
「降水量自体は、アフリカ平均の三分の一程度に過ぎない。でも、アマジーク人の知恵が、至るところに張り巡らされているんだ」
「アマジーク人って?」
「紀元前3000年頃から、この地に居住している人たちのことだよ。彼らは高度な治水技術を持っていて、約千年前には、アトラス山脈の雪解け水を街へと引くための、地下水路の基礎を築き上げていたんだ」
へえ……。
わたしは思わず感嘆の声を上げる。
きっと、この清らかな水を湛える水路も、その巨大な地下水路の一画なんだろう。
「ナスカの地上絵もそうだけど……昔の人って、どうやってそんなのを作れたのかな」
「アマジーク人は、幾何学にも通じていたからね」
……幾何学?
教科書かなにかで、その名前を聞いたことがある気がする。
ただ、それが、どう水路づくりに役立つのかが分からない。
「空間や図形の性質なんかを測定を研究する、数学の一種なんだけど……多分、実物を直接見た方が早いと思う」
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「ここが、バイア宮殿だよ。19世紀の大宰相シ・ムーサの私邸だったんだけど、今ではモロッコ王室の宮廷行事にも使われているんだ」
星に連れられ、バイア宮殿の大中庭に足を踏み入れた瞬間、まるで鏡の世界に迷い込んだような錯覚に囚われた。
なんていうか、中央の噴水を起点に、あらゆるものが「線対称」だったからだ。
「そう。床に敷き詰められている緑のゼリージュタイルは、星形や六角形が縦横の対称軸で繰り返されているんだ。これが、幾何学の一例だよ」
確かに、星が、″その目で見た方がいい”と言ったのも頷ける。
「このモロッコの地には、アマジーク人の知識と、イスラム建築が融合した、無二の建築がいくつもあるんだ。いずれも、幾何学が芸術にまで昇華しているんだ」
隣で、ミゲーラが呟く。
「美しいって、調和が取れていることなのかもね。音楽をやっていても、ときどきそう思うことがあるんだ」
それを聞いた星が、均整の取れたその顔に興奮を浮かべて言う。
「そうなんだ!音楽だけじゃない。僕たちの人体や、宇宙にさえも、幾何学が存在しているんだ」




