第233話:ポルトガルの涙
深紅の美女が謡うファドが、バーの空気を満たす。
歌詞は全く分からなかったけれど、切なく、懐かしく、それでいて微かな希望を感じさせるような不思議な音楽だった。
その歌手は、曲の最中、ずっとわたしたちの方を見続けていた。
その視線の先には、シルバがいた。
歌そのものが、彼への何かのメッセージであるかのように。
わたしはサラに頼んで「Mar Português」という曲を探してもらう。
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ああ、塩に満ちたこの海よ。あなたの塩のどれほどがポルトガルの涙なのか!
あなたを渡るため、多くの母が泣き、幾人もの子が空しく祈った。
幾多の花嫁が嫁がず残された。
ただ、あなたが我々のものとなるために。おお海よ!
それだけの価値はあったのか?
ああ、全てにその価値がある。
魂さえ小さくはないのなら。
ボジャドール岬を越えんと欲する者は、痛みをも越えねばならない。
神は海に危険と深淵を与えた。
だが、そこにこそ天を映したのだ。
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曲が終わると、バーの中で拍手が沸き起こる。
わたしも同じく、大きく手をたたく。
それくらいその曲には、人を動かす何かがあった。
すると、彼女が、きっとした視線を、わたしに向かって投げかけてくる。
その瞳には、怒りに似た感情が込められていた。
――え、わたし、あの人に何かした?
わたしが戸惑いの表情を浮かべると、彼女はわたしたちの方に向かってすたすたと歩いてくる。
赤いドレスの裾がひらりと舞う。
彼女はまず、シルバの前に立つと、いきなりその頬を平手で打った。
――え、何?
わたしが呆気に取られていると、彼女はテーブルの上のワイングラスを取ると、わたしに向かって、赤ワインをぶちまけた――かに見えた。
実際は、すんでのところで、アレクが彼女の手からワイングラスを奪い取ったからだ。
「良いワインは、美女と味わうものさ。浴びるものじゃない」
相変わらず、真顔で気障なセリフを言う。
つい三か月前も、夢華に対し、あらゆる麗句を使って口説いていた。
あの時の夢華の塩対応を思い出し、わたしの口元が少し緩む。
それが彼女の癇に障ったのかもしれない。
彼女は、怒りを肩に震わせながら、こう言った。
「宇宙に奪られるなら、まだ耐えられる。けれど、他の女に盗られるくらいなら、今すぐ殺してやる」




