第224話:サンパウロの心
「あれが、サンパウロ大聖堂。”サンパウロの心”って呼ばれているんだ」
ミゲーラが、ヤシの木の向こうに立つ、二本の尖塔とエメラルドグリーンの屋根が目を惹く壮麗な教会を指さす。
「もしかして、あの“抵抗の枢機卿“の?」
星の言葉に、ミゲーラが少し驚いたように問い返す。
「さすが星。ドン・パウロを知ってるんだ」
その聞き覚えの全くない人の名を、サラに尋ねてみる。
「ドン・パウロは、ブラジルの軍事政権下で、枢機卿という最高位の司祭を務めた人物だよ。政権に抗って、ブラジルの民の人権や貧困層を守り続けていたから、”抵抗の枢機卿”と呼ばれているんだ」
「具体的にはどんなことをしたの?」
「一番有名なのは、「ブラジル:二度とない(Brasil: Nunca Mais)」プロジェクトかな。軍事法廷の100万ページ以上の文書をコピー・マイクロフィルム化し、拷問や人権侵害の記録を後世に残したんだよ」
「え、そんなことして、軍事政権に目を付けられなかったの?」
わたしは、ミゲーラに聞いてみる。
いざとなれば、政治は宗教を蹂躙しうることは、ペルーの歴史を見て骨身にしみていた。
「もちろん、危険と常に隣りあわせだったと思う。ただ、ブラジルの9割はキリスト信者だから、民衆からは強い支持を受けていた彼を解任したら、暴動につながる恐れがあったんだ。それに、彼自身、バチカンや国際社会を巧みに味方につけた上で、軍との対話も続けていたんだ」
そう言って、ミゲーラは大聖堂の重い扉を開く。
扉の向こうは別世界だった。
百メートルもの空間が広がり、天井は石のアーチで編まれた星空のようだった。
わたしたちのスニーカーの音が、冷たい大理石の床に小さく響く。昼の光がステンドグラスを貫き、赤、青、緑の光の粒が床に踊る。
わたしたちは、熱心に祈りを支える老女の隣に腰掛ける。
ミゲーラもまた、両の掌を組み、キリスト教の聖人らしき像に向けて長い祈りを捧げていた。
帰り際、わたしはミゲーラに尋ねる。
「そういえば、ミゲーラってキリスト教を信じてるんだっけ?」
「いや、僕は違う。でも、ドンパウロのことは尊敬している。だから、彼に祈ったんだ。リンの心が、少しでも休まりますようにって」
わたしは、思わずミゲーラの方を見る。
彼は、わたしに軽くウィンクした。
思えば、彼はいつでも変わらなかった。
三式島の合宿のときも、夢華やソジュンみたいな、感情を全面に出してくるメンバーと違って、いつも穏やかに笑っていた。
無知なわたしは、それがブラジル人の性格なんだと思っていた。
悩みなんてなさそうでいいな……なんて、呑気に考えていた。
でも今なら分かる。
彼は、悲しいことも、しんどい過去も、そして自分とは異なる他者の考えも、全てを受け入れてなお、笑うことを選んでいたんだ。
音楽に乗せて、その想いを伝え続けてくれていたんだ。
わたしは、自分の心のアパートに、新しい部屋が出来上がっていくのを感じていた。
そこに住むミゲーラは、再び激情に囚われそうになったときに、そっと笑ってなだめてくれるだろう。




