第221話:二つの部屋
「どうやって……、どうやって乗り越えてきたのですか?そんな、地獄みたいな分断を」
わたしは尋ねる。
「始めはただ耐えるしかなかったわ。なんて言っても、わたしはまだ8歳の小学生だったからね。何かがおかしいと思っても、それを口に出すことはできなかった」
そう言って、文江さんは胸に着けていた開封式のペンダントを開く。
そこには、まだあどけなさの残る小学生の文江さんが、ご両親と思われる男女とともに映っていた。
「かつてお酒を酌み交わしていた私の父と、由美の父親が、敗戦のニュースを機に、互いを罵り始めたの。あまつさえ、由美の父親は、父の実家から届いた敗戦を告げる手紙を、目の前で燃やしてしまった。捏造だと決めつけてね」
「で、でも文江さんだけじゃなくて、敗戦のニュースを聞いた人は、他にもいたんですよね?」
「ええ。戦後日本に連絡が取れた人は、まだ良かった。でも、そもそも当時ブラジルに移民してきた人たちは、そのほとんどが、日本に頼れる人のいない貧しい人たちだったの。だからこそ、分断はさらに広がったわ」
わたしは、2029年の世の中について考えてみる。
――世の中の一部の大富豪が世界中の富の大半を握っていて、裏で政治や情報までもコントロールしている。そう信じている人たちは確実にいるし、実際に否定できない部分も多い。むしろ、現代社会の方が、分断は広がり続けているのかもしれない。
「親友の由美も、はじめのうちは、わたしを穏やかに窘めようとしていたわ。でも、態度を変えない私のことを、やがて『母国のことが信じられないの?』『それでも日本人なの?』と責めるようになっていった」
そういって、文江さんはペンダントを閉じる。
「小学校のクラス内でも、親の影響を受けて、勝ち組と負け組の対立が生まれ始めた。私は次第に怖くなって、学校にもいかなくなったわ。今でいう、引きこもりね」
元ひきこもりのわたしにも、その気持ちはよく分かる。
「学校に行かずに、何をしていたんですか?」
「農園の人手も不足していたからね。日が昇っている内は、農園で日がなコーヒーやオレンジを育てていたわ。そして夜になると、ひたすら聖書を読み込んでいたの」
「聖書を?」
「ええ。相手が神でも誰でも、とにかく何かにすがりたかったから」
「両親は敬虔な仏教徒だったけど、他の宗教を否定はしなかったのが幸いしたわ。だから近くの教会の神父さんに、ボロボロになったポルトガル語の聖書をもらって、夜通しそれを読んでたの」
「じゃ、文江さんはキリスト教徒なんですか?」
「うーん、半分くらいはね」
「は、半分?」
「聖書のお話やキリストの教えは、心に沁みたわ。でも、家には仏壇もあったし、先祖の霊は信じていたしね」
「てっきり、キリスト教って、他の神様とは共存できないのかと思っていました」
わたしは、インカ帝国の宗教を、根こそぎキリスト教に変えようとしたピサロのことを思い出す。
「私自身、何より、他の神さまを否定するということ自体には抵抗があったからね。何より、本来価値観を共にしているはずの日系移民が、「勝ち組」と「負け組」に分かれて相手を否定し続けているのが、まるで一神教同士の宗教戦争のように見えたから」
だからね。
そう言って、文江さんをわたしを見つめる。
「だから、私の心には、仏教徒の私と、キリスト教徒としての私が共存しているの。まるで、一つのアパートの中に、二つの部屋があるかのようにね」




