第219話:海の向こうの除夜の鐘
「え? 今からサンパウロに!?」
すでに時計は夜の10時を回っている。
「うん、明日は“ビッグなミソカ”だからね。家族全員で集まって、オセチ料理を作るんだ」
ビッグなミソカとやらが、大晦日を指していることに、少し遅れて気づく。
「それに、朝起きたら、NHKの紅白歌合戦も見なきゃ」
「え、朝起きたら?」
星が補足してくれる。
「ブラジルと日本の時差は12時間だからね。紅白歌合戦も、ブラジルでは朝の7時半から始まるんだ」
――そ、 そっか。
ここのところ、世界中を飛び回っていたせいか、時間の概念が崩れてきていた。
間髪入れず、十萌さんが話に乗ってくる。
「ジャパンタウンの近くのホテルを抑えたわ。ジャックにも伝えておいたから、一旦ホテルに戻って着替えたら、すぐにサンパウロまで飛びましょう」
――あ、相変わらず仕事が早い。
「十萌さんも一緒に行ってくれるんですか?」
「わたしは夜に合流するわ。それにサンパウロには、今のリンちゃんにとって、会っておくべき人たちがいるから」
**********
12月31日 ブラジル・サンパウロ
「おみかん、食べる?」
日本のみかんより一回り大きいオレンジを、ミゲーラのおばあちゃんの文江さんが、わたしと星に手渡してくれる。
初対面のおばあちゃんと年越しそばを啜りながら、ブラジルのテレビで紅白歌合戦を見ている。
・・・・・・それも朝日が燦燦と照らす、大晦日の朝に。
そんな世界線が存在するとは思ってもみなかった。
今年91歳になるという文江さんは、驚くほど矍鑠としていた。強いブラジルの日差しで肌は赤黒く灼け、背筋も曲がっていたけれど、その話しぶりからは、確かな意志と知性が感じられる。
「最近の歌手はさっぱり分からないわね。やっぱり1979年が一番思い出深いわ。なんせ、美空ひばりと山口百恵の最後の共演だからね」
もう半世紀も前のことなのに、まるで昨日のことのように語る。
そんなおばあちゃんを、ミゲーラやその両親が、穏やかな目で見守っている。
文江さんとの会話は楽しかった。
文江さんのご両親は、1930年にこのブラジル・サンパウロに移住し、その8年後の1938年に、この地で生まれたという。
飢えや病気と戦いながらも、ほとんど荒野に近い土地を開墾し、コーヒー農園を作っていく。
異国・ブラジルの地で、想像を絶するはずの苦労があったはずなのに、文江さんの言葉はどこか軽やかだった。
そう伝えると、文江さんはコロコロと笑う。
「ま、この歳になると、大変な思い出もたいがい美化されるか、忘れてしまうからね」
けどね――。
そう呟くと、不意に、文江さんの瞳が悲しみの色に染まる。
「忘れたくても、どうしても忘れられない記憶が一つだけあるの」
気が付くと紅白歌合戦は終わり、地球の反対側から除夜の鐘が聞こえてきた。




