第216話:記憶の継承
「旨い!」
風間首相が切り分けた肉を、チアゴ大統領が頬張った。
たしかに、焼き立てのブラジル産牛肉は絶品だった。
噛むごとに肉汁が口の中で溢れ、食欲を刺激していく。
やがて大統領は、「失礼な物言いになったら申し訳ないが……」と切り出した。
「どうやら私は、あなた方のことを少しばかり誤解していたようだ。富を独占する先進国側の経済論理を、貧困層を抱える途上国に押し付けてくる――。正直、そういう印象を持っていたんだ」
そう言って、風間首相と橘長官を交互に見る。
「ただ、少なくてもあなた達は、”相手に寄り添い、共に手を動かせる人”だと分かりました。今後、より踏み込んだ討議に移りましょう」
風間首相も力強く頷く。
「ぜひとも」
――ただ、その前に……とチアゴ大統領が笑みを浮かべて言う。
「その、黒い涙を拭かなくては……ですな」
見ると、風間首相の目の下に、シュラスコを切っている際についたであろう煤が、涙のように張り付いていた。
鏡を渡された風間首相が苦笑しながら、
「|No man, No cry……ってことですな」
と言うと、場がどっと沸きあがる。
会場は、はじめとは打って変わった親密な空気感に包まれている。
その後は、フードテックがどうとか、アマゾンの伐採がどうのとか、わたしにはついていけない話題が飛び交い始める。
きっと、もう大丈夫だろう。
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「ミゲーラ、今日は本当にありがとう。おかげで助かったわ」
ホテルへと戻る車の中で、十萌さんがお礼を言う。
「当たり前だよ。十萌やリンは、もうファミリーみたいなものだからね」
と笑顔で、答えてくれる。
確かに、ミゲーラがあの歌を歌ってくれていなかったら、会食は空転し続けていただろう。
「歌の力ってすごいんだね」
わたしの呟きに、ミゲーラも頷く。
「歌は、時に何よりも強く、過去の記憶を呼び覚ますからね」
――記憶。
わたしの脳裏に、インカ帝国復活の妄執に囚われていたバルバラのことが思い浮かぶ。
彼女の言動は、先祖たちの記憶と、自身の記憶が混在していたかのうようだった。
そして、あの怪しい煙を吸ったとき、わたしにもその記憶が流れ込んできたようだった。
わたしは、十萌さんとミゲーラに、月の神殿での出来事を伝えた。
そして、「自分が自分だと思えなくなってしまう」ことに対する、底知れぬ恐怖も。
「ルカみたいに、記憶を流し込むような脳外科手術を受けたならともなく、煙を吸うだけで、他人の記憶が入り込むなんてこと、科学的にあり得るんでしょうか?」
十萌さんは、僅かに考え、そしてこう言い切った。
「まだ科学では証明できていない。けれども、”聖域”や”神域”と呼ばれる場所での”記憶の継承”についての言い伝えは、世界中に転がっているわ。それこそ日本にもね」
十萌さんの瞳に、理系女子の炎が再び灯りだした。




