第215話:シュラスコ
ミゲールのライブが終わると、どこかよそよそしかった晩餐会の雰囲気は一変していた。
それぞれが、その歌詞を噛みしめている。
あの日のことを思い出す
政府の庭での日々
あの日のことを思い出す
すべてがとても辛かったあのときのことを
――”政府の庭”というのが、かつての軍事政権下のブラジルという国全体を指していることは、わたしにでも容易に想像がつく。辛かった日々というのが、そこでの弾圧の日常を指しているということも。
ふとチアゴ大統領が、後ろで控えていたシェフに、ポルトガル語で何かの指示を出した。
シェフは頷くと、奥の部屋から、香ばしい煙を放つ移動式のグリルを運び込んできた。
そこには、串刺しにされた巨大な牛肉の塊が乗せられている。
ブラジル式バーベキューだ。
名前は確か……。
「シュラスコは、お好きですかな?」
チアゴ大統領の言葉に、風間首相が頷く。
すると、大統領はおもむろに立ち上がると、傍らに置かれていた包丁を握りった。
――そういえば、チアゴ大統領は政治家になる前、料理人もやっていたと西田さんが言っていた。
そして、風間首相に向かってこう尋ねる。
「今現在、ブラジルに貧困層がどれくらいいるかご存じですか?」
「ルーラ大統領の下で、大分減ったとは聞いていますが……」
風間首相が、質問の意図を探るように、前大統領の名前を挙げる。
「それでもまだ、貧困に苦しむ民が7000万人近くいるのです。これは、日本の人口の半分以上、ブラジルの総人口からみても四分の一にあたります。そして……」
チアゴ大統領が、肉塊の下から四分の一くらいの位置に、鋭い刃を刺しこむ。
「その中には、軍事政権下で囚われ、職を失ってスラム街に身を落とした私の友人も数多くいます」
綺麗にスライスされた肉が、どさっと、俎板の上に落とされる。
「あなた方の言う氷河期対策の重要性は分かります。ですが、貧困層が日々の食糧にも困っている中で、一部の国民のためだけの施設を作り始めたら、暴動が起きかねません。それこそ、軍事政権下で貧富の差が広がり、やがて政権打倒につながったように」
――ああ、そういうことだったのか。
わたしにもようやく理解ができた。
大統領の心はずっと、貧困層とともにあったのだ。
彼らにとっては、今日の食事にありつけるかの方が、いつ訪れるかもわからない氷河期よりも遥かに重要な問題のはずだ。
風間首相は、チアゴ首相の目を見つめ返した。
一瞬だけ考え、首相はガタンと席を立つと、スーツの上着を脱ぐ。
そのままチアゴ大統領の傍まで歩いていくと、こう言った。
「私にも、そのシュラスコを切らせていただけませんか?」
大統領は少し驚いた表情を浮かべながらも、包丁を風間首相に手渡す。
風間首相は、包丁を握り、その刃を残りの肉に突き立てる。
元料理人の大統領のようにはいかず、ぎこちない手つきでギコギコと刃を動かす。
真っ白だった首相のシャツには、肉汁が飛び跳ね、煤がつき、あっという間に汚れてしまう。
炎の熱で額に汗を浮かべながら、それでも何とか、会議の人数分の肉を切り分ける。
気が付くと、橘大臣もスーツを脱ぎ、首相が切り分けた肉を各テーブルへと運び始める。
全員に肉が行きわたったのを見て、風間首相が言う。
「10年後、氷に包まれる世界において、どうやって熱々の肉を国民たちに届けていくことができるか―――それを、これから共に考えていきませんか?」




