第214話:愛しい人よ、泣かないで
「“Ñao Chore Mais”。海外では、“No Woman, No Cry”として知られています」
ミゲーラがみんなに捧げたいという曲目を聞いて、チアゴ大統領がにわかに身を乗り出す。
「おお、ジルベルト・ジルの!あの曲を歌ってくれるのか……」
彼は感慨深げに呟いた。ブラジル側の他の閣僚たちの眼にも、郷愁のような、あるいは哀愁のような光が灯る。
一方で、日本側の大半のメンバーは、それが誰かさえも分からないようだ。
話を遮られ、不満そうな経済産業大臣が何かを言おうとする前に、創さんが口を開いた。
「ジルベルト・ジル……。軍事政権下のブラジルの民に、希望と連帯の光を与えた伝説の歌手ですよね。大統領は、青年時代をリオでお過ごしだったと伺っていますが、この曲にどんな思い出がおありでしょうか?」
―――助かった。
わたしも、歌手名も曲名もさっぱり分からなかったから。
「1980年代前半のブラジルは、まさに暗闇だった。経済は極度のインフレに見舞われ、日々の食事さえ買えず、軍事政権に反対する友人が次々と逮捕されていった……。その時、私達を支えてくれたのが、ジルベルトのこの曲だったのです」
そう言って、大統領はミゲーラに伝える。
「さっそくバックバンドを手配しよう。君はギターでいいかね?」
「ええ、ジルベルトと同じ、アコースティックギターを」
そういって、ミゲーラが微笑む。
ものの10分もしないうちに、晩餐会場に楽団のみんなが、楽器と共に入ってくる。
星が感心して言う。
「さすが、音楽の国ブラジルだね。大統領官邸に、生の楽団が待機しているなんて」
やがて楽器のセッティングが終わり、中央にアコースティックギターを握るミゲーラが立つ。
普段の親しみやすい雰囲気が一変し、まごうことなきスターのオーラを放ちだす。
ミゲーラが最初のコードを弾く。
打楽器の軽快なリズムが鳴り響き、ベースがギターのメロディーラインを重層的になぞる。晩餐会場は、一気にライブ会場の様相を呈してくる。
やがて力強く、それでいて優しいミゲーラの歌声が会場を包み込む。
ポルトガル語の歌詞の意味は分からなかったけど、その歌声に聞き惚れてしまう。
間奏を挟み、二番に入る瞬間。
ミゲーラが、日本側の参加者に対してウィンクした。
二番の歌詞は、なんと日本語だった。
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もう泣かないで、もう泣かないで
すべて、すべてきっとうまくいくから、ほら見てごらん
もう泣かないで、もう泣かないで
僕が君を慰める、君を慰めるから
あの日のことを思い出す
政府の庭での日々
あの日のことを思い出す
すべてがとても辛かったあのときのことを
あのバーに座って
冷えたビールを飲みながら
あのバーに座って
過ぎさりし過去を振り返る
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曲が終わり、会場は拍手に包まれる。
大統領は、何かを噛みしめるかのように下を向いている。
きっと、過ぎ去りし過去を想い出しているんだろう。
わたしには、もちろんあの頃のことは分からない。
でも、その歌の力に、どうしようもなく感情が揺り動かされ、思わずもらい泣きをしてしまう。
歌い終わったミゲーラが、優しくわたしに向かって言う。
「No woman, No cry」と。




