第213話:桜の森の中の蝶
「Nossa, você é bela como uma flor de cerejeira!」
チアゴ大統領は、着物をまとったわたしと十萌さんを見ると、両手を広げて感嘆の声を上げる。
「まるで、桜の森で舞う蝶のように美しいって」
隣でミゲーラが訳してくれる。
「あ、ありがとうございます」
そんなにストレートに褒められたことがほとんどないわたしは、むしろ恐縮してしまう。
でも十萌さんは慣れたものだった。
彼女は、大統領の目をじっと見て、こう返す。
「光栄ですわ、大統領。でも、あなたという太陽がいらっしゃるからこそ、輝けるのです」
正直、わたしにとっての十萌さんは、優しいけど、研究スイッチが入ったら止まらない、典型的な理系女子のお姉さんだった。
でも、今夜の彼女は、完全に別人だ。
外交の場において、自分が何を求められているかを完全に理解している立ち振る舞いに、隣にいても圧倒されてしまう。
十萌さんとの会話の後、チアゴ大統領が、わたしに手を差し伸べてくる。
――あ。
握手を求めらていることに気づいて、わたしはおずおずと手を出す。
がっしりとしたその手からは、熱いほどの体温が伝わってきた。
チアゴ大統領がわたしの目を見て、何かを呟き、それをミゲーラが訳してくれる
「いい手ですね。戦ってきた者の手だ」
わたしは、驚いた。それは、むしろわたしの感想だったからだ。
チアゴ大統領の手は、まごうことなき”労働者”のものだった。
手のマメがつぶれては固まり、固まってはつぶれると言うことを繰り返し、やがてごつごつとした隆起ができる。
わたしも剣道で何度も経験したからよく分かった。
労働者階級からの努力してこの地位まで上り詰めた――というのは決して誇張などではないことがこの掌から伝わってくる。
大統領はぐっと手に力を籠める。
わたしが握り返すと、彼は「あとでまた」と言って、閣僚たちの下へと歩いていった。
*************
晩餐会は、つつがなく進んでいる――ように表面上は見えた。
ビシッとしたスーツで全身を包んだ経済産業大臣が、氷河期を見据えた経済政策について語りだす。
「……ブラジルが世界に誇る食糧生産、資源開発、そして土地資源開発において、日本の最新技術は、必ずやお役に立てます。だからこそ次の世界におけるパートナーとして……」
昼間の会談でも話されたであろうその話題に対し、通訳を通して、チアゴ大統領は頷いてはいる。
けれど、どこか上滑りしている感はぬぐえない。
何ていうか、日本側の語る未来のビジョンに対し、大統領が心から納得しているようには、どうしても見えないのだ。
新参者のわたしでさえそう感じている以上、この場の全員がその空気を感じ取っているだろう。
――でも、それをどうしたらいいのか分からない。
そんな膠着ムードが漂ったまま、晩餐会が半ばに差し掛かろうとしたころ。
不意に、わたしの隣の席のミゲーラが立ち上がった。
「大統領。ここにいる皆さんに捧げたい曲があるんのですが、よろしいですか?」
大統領やその閣僚たちが驚いたような表情を浮かべる。
日本側の参加者の顔も同様で、これが決して予定されていたイベントではないことが伺える。
「今や国を代表するレゲエ歌手になりつつある、君の歌が聴けるのは嬉しいのだが……。一体、何を歌うつもりだね?」
大統領の問いに、ミゲーラは迷わずこう答えた。
「“Ñao Chore Mais”。海外では、“No Woman, No Cry”として知られています」




