第207話:鈍色の世界
嗅がされた薬の副作用なのか、あるいは脳波の酷使によるせいなのか……。
ワイナ・ピチュでの一件の後のことは、良く覚えていない。
星に支えてもらいながらマチュ・ピチュから下山し、クスコ行の列車に乗った。
星が気を遣って色々声をかけてくれたけど、それさえも、どこか遠いところから話されているようで、頭の中に入ってこない。
たぶん、自分の心の許容度を超えるショックを受けたせいなのだろう。
一度信じた相手、バルバラやルミから裏切られたことへのショックはもちろんある。
ただ、それ以上に、リカルド達を前にして、わたしがわたしでなくなり、無抵抗の相手に止めをさそうとした自分に失望したからだ。
それは、”剣の道”を学ぶものとして、あるまじき行為だった。
――命懸けで秘技を授けてくれたおじいちゃんに、とても顔向けができない。
わたしは涙を隠すように、窓の外に顔を向ける。
来た時と変わらないはずの緑の景色が、今はただただ鈍色に見えた。
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2029年12月29日 クスコ
マチュ・ピチュでの一件を聞いたのか、クスコの駅に到着すると、創さんと梨沙さん、そしてジャックが待っていてくれた。
そのまま病院へと向かい、脳波の影響なんかを調べたけど、確かなことは何もわからなかった。
「ただ、煙の効力は既に体内から消えてはいるはずです。ただ、精神的なショックが大きいのだと思われます」
それは、自分自分自身でも自覚していた。
小3のあの日、エリーを暴漢から守り切れず、自宅に引きこもったときの感情に似ていたから。
ただただ、「自分を許せない」という感情が、重しのようにわたしの心にのしかかる。
「ペルーに残って、もう少し休む? 僕が一緒にいるから」
12年前、家から出られなくなったわたしの傍にいてくれたのも、星だった。
首相補佐官としての梨沙さんが言う。
「明日、ブラジル大統領との晩餐会がある。もともとは、星とリンにも同席してもらおうと思ってたんだけど……」
「ブ、ブラジル?」
「ああ。あの国は、氷河期到来後、世界で最も広大な”非凍土化地域”を抱える、新覇権国家になるからな。だから、風間首相に加え、九条十萌も合流予定だ。九条家の跡取りとしてね」
「え、十萌さんも来るんですか?」
わたしは、つい数日前に、十萌さんからかけられた言葉を、まざまざと思い出していた。
『さまざまな想いに触れ、時に失望し、それでもまた、何かを信じようと希求すること。その繰り返しによってのみ、”揺るぎない心の礎”が築かれる』
その言葉は、今のわたしの状況を予言したかのようだった。
わたしは、藁にも縋る思いで懇願する。
「わたしも一緒に、ブラジルに行かせてください。十萌さんに会って、話をしたいんです」




