第206話:植え付けられた正義
「あと一歩のところで……」
洞窟の影から出てきたバルバラの顔が、口惜しさでゆがむ。
「な、なんで……」
わたしが呟く。
「あなた様は、太陽神が遣わしてくださった、救世主たるお人なのです」
「でも、わたし、そんなつもりじゃ……」
靄がかかっていたようだった頭が、ようやく鮮明になってきた。
洞窟であの煙を吸い、あの過去の歴史の夢を見せられた後、あたかも自分自身がインカの末裔であるような感触に囚われていた。
でもそれは、植え付けられた”偽の感情”だと、冷静になった今では分かる。
「民族の悲願は分かります。でも、こうしたやり方で、リンを洗脳して、共犯にするのは間違っています」
星が、珍しく強い言葉で言う。
「小僧に何が分かる!」
驚くほど大きく鋭い声で、バルバラが叫ぶ。
「王を謀略され、五百年経ってもなお、侵略者の子孫たちが我がもの顔でのさばる世界が、正義だと言えるのか!」
それでも星は譲らない。
「確かに、あなた達にはあなた達の正義があるでしょう。でも、”押し付けられた正義や宗教”は、本当に自分のものだとものでしょうか?それでは、500年前にスペイン人が行った所業と、同じではないのですか?」
バルバラが、ぐっと押し黙る。
確かにバルバラは言っていた。クスコの太陽神殿がそうであるように、大半のインカの遺跡が破壊され、キリスト教建築に建て替えられてしまったのだと。
正義を、そして宗教を押し付けられる屈辱は、彼女こそが誰よりも分かっているはずだ。
「”単一の正義”は、より大きなものに利用されやすいのです」
そう言って、星は、リカルドの方に視線をやる。
衝撃波で失神していたはずの彼は、いつのまにか身を起こしていた。
「バルバラは、ルミ経由でリカルド達に情報を流し、リンを襲わせることで、インカの救世主として意識を芽生えさせようとしていました」
――でも、と星は続ける。
”魂を支配する者たち”は、そんな甘い相手ではありません。あなたそんな思惑さえも利用したはずです」
バルバラが驚愕の表情を浮かべる。
「あなたがリカルドたちを利用したように、彼らもまたあなたを利用していたのです。恐らく、彼らに与えられた本当のミッションは、”リン自らに手を下させ、倫理観を崩壊させる”ということだったはずです」
「倫理観? 一体、何のために?」
わたしは問う。
「一度殺人に手を染めた人間は、宗教に救いを求めようとするのは歴史の常だから。リンをその状態に追い込むことで、自分たちの側に引き込もうとしたんだと思う」
「でも、こんなことされて、教団の宗教を信じるはずなんてないのに……」
「教団にとって最もやりづらいのは、”何も信じない”状態なんだよ。他の宗教であったとしても、何かを信じている人の方が、遥かに操りやすいんだ」
星が、促すように、両手を縛られたリカルドを見つめる。
彼は、どこか諦めに似た表情を浮かべ、肩をすくめた。
「俺の息子があの教団にいるからな。人質のようなもんさ」
つまり、ここにいる全ての人たちが、教団の手の中で踊らされていたということだろうか?
…一体、わたしは”何を信じるべき”なのだろう。 誰が被害者で、誰が加害者なのか?
そして、真の黒幕とは、一体誰なのだろうか?
わたしの精神は、混乱の極地に至っていた。
まるで、暗闇の中、切り立った崖に立たされているかのようだ。
光が見えない絶望感がわたしを襲い、わたしはその場に崩れ落ちた。




