第198話: 一閃
「百年前、この街に明かりを灯してくれた、一人の日本人のことをご存じですか?」
ルミの言葉に、わたしは首を振る。
「え、そんな日本人が、この地にいたの?」
「ええ、野内さんという日本人移民です。約百年前、彼がこの地に移住すると、渓流から水を引いて灌漑用水路を築き、畑を開墾してくれたんです。更に、水力発電設備を作ることで、この村で初めての電気を灯したと言われています。当時、この村が自給自足できるようになったのも、彼のお陰なんです」
……ぜんっぜん知らなかった。
サラに訊ねると、彼の名は野内与吉という名で、福島県出身の移民だったらしい。村の開拓だけでなく、わたし達が乗ってきた、クスコからの鉄道の建築にまで携わっていたという。
もしかして、ルミやバルバラがわたし達に対してこんなにも親切なのも、こうした先人たちのお陰かもしれない。
星が言葉を継ぐ。
「南米移民っていうとブラジルが有名だけど、実はペルーが南米で初めて日本移民を受け入れた国なんだよ」
そう言えば、三式島での”戦友”、ミゲーラも、ブラジルの日系移民三世だった。
今まで意識したことはなかったけど、日本と南米の繋がりは、思いのほか深いみたいだ。
星が前方を指差した。
「あの温泉も、野内さんが森を開墾しているときに湧き出てきた……って言われてるんだよ」
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「え、これが温泉なの?」
眼前に並ぶ”温泉”に、わたしは少し拍子抜けする。
なんというか、5メートル四方くらいのミニプールみたいなものが、5つほど並んでいるのだ。
星が、「日本の温泉とはちょっと違う」と言っていた意味がようやく分かった。
「海外の温泉は、基本的に水着で入るんだ」
そう言って、編み込みバッグから、わたしたちの分まで水着を取り出す。
――なんていうか、”一緒に温泉に入る”と聞いて、ドキドキしていた自分がバカみたいに思える。
……とはいえ、せっかく水着まで買ってきてくれた星の好意を無碍にするわけにもいかない。
わたしとルミは物陰で水着へと着替える。
ゆったりとした民族衣装を脱いだルミのスタイルは、抜群だった。
身長はわたしより頭一つ低いけれど、出るところは出て、締まるべきところは引き締まっているその体型に思わず見蕩れてしまう。
「あんまり、見つめないでくださいね」
ルミが恥ずかしそうに両手で身体を隠す。
「ご、ごめん」
思わずわたしは俯く。
幸いだったのは、既に夜が更けていたことだ。
淡い明かりはあれど、これならさほど目立たない。
温泉には、10名ほどの先客がいた。
人種もさまざまだったけれど、最も目立っていたのが、欧米系の天然パーマの巨漢だ。
一体何が楽しいのか、連れと思われる二人の男とともに、バシャバシャと水面を叩きながら大声で笑っている。左手にビール瓶を持っているところを見ると、完全に酔っぱらっているんだろう。
その傍らを通り抜け、奥の無人の湯船へと行こうとした瞬間。
男が、右手でルミの手を掴み、ぐっと彼の方へと引き寄せた。
「いいスタイルしてんじゃん。一緒に飲もうぜ」
ルミが、”キャッ”と短く悲鳴を上げる。
「Stop it!」
男とルミの間に、星が割って入ろうとする。
「邪魔すんな」
男はドンッと星の胸を押すと、ルミを抱き寄せた。
わたしの脳裏を、怒りが駆け巡る。
近くに立てかけてあった長い柄のブラシを掴み、男に向かって一閃すると、左手のビール瓶が宙へと撥ね上がる。
一般人には見えない速度の斬撃を受け、突如手からビールが消えた男が呆気にとられる。
次の瞬間、ビール瓶は男の頭上に落下し、無礼な男の頭にドボドボと降りかかった。
ビールが目に入ったのか男がふらつくと、やがてドボンッという派手な音を立て、湯船の中へと墜落する。その仲間が、慌てて男の方へと駆け寄っていく。
男の態度に、他のお客さんたちも耐えかねていたのだろう。
「帰れ!帰れ!」と、盛大なコールが沸き上がった。
男たちは、口惜しそうにわたし達を睨みつけながら、速足でその場を去っていった。
遠くで、”ジョダ―!!"という声が聞こえる。
多分、悪態かなんかなんだろうけど、もちろんわたしには意味さえ分からない。
わたしは、ブラシをもとあった場所に立てかけると、星とルミに言う。
「さ、久しぶりの温泉、一緒に楽しみましょ」