第152話:共喰い
亡霊は私にこう告げた。『電脳ネットの海で、意識が散逸し、消失する要因を分析するためには、私以外の個体の意識もアップロードし、比較検証する必要がある』と。もっともな指摘ではある。だからわたしは、次の実験から、男の意識も同時に、アップロードすることにした」
ぱらりと、ターニャがページをめくる。
「二つの意識は電脳の海を、それぞれ独立して揺蕩っているだけに見えた。だが、眼に見えてわたしの意識の縮小スピードが、単独の場合と比べて遅くなっていた。ただ気になったのは、男の意識は、私のものよりも、さらにその縮小スピードが遅かったのだ。私の意識が半分まで縮小した頃、彼の意識はまだ八割ほどの大きさを保っていた」
――意識の縮小スピードが、異なるというのはどういうことなんだろう。
「私は、その要因を探ろうとした。電脳の海に、複数の意識をアップロードすることで、意識同士が何かしらの刺激を与え合い、エネルギーの減少速度を遅らせているかもしれない……。だが、なぜ、個体差が生じるのか――。わたしは、彼の意見を聞いてみた」
「彼はこう答えた。『意識の源泉、つまりコピーする前の本人の意識の強靭さによるのかもしれない』……と。当然わたしは私は、心の中で異を唱えた。天才たる私の意識が、目の前の男よりも弱いはずがないと。だが、それはやがて、極めて残酷な形で証明されることになる」
そこまで言うと、ターニャは言葉に詰まった。
「私の意識が奴の意識の半分ほどの小ささになったときのことだった。奴の意識が、突如、私の意識を喰ったのは……」
「意識が意識を喰った、だと……?」
梨沙さんが、思わず声を上げる。
「微生物の世界でも、より大きなアメーバが、小さなアメーバを”餌”として認識し、吸収・消化することはあります。それと似た現象なのかもしれません」
サティヤさんの言葉に、わたしはぞっとした。
意識の世界でも、自然界の弱肉強食の掟が適用されるとでもいうのだろうか。
「私の意識を飲み込んだ分、男の意識はその分大きくなった。いや、むしろ、実験開始時よりもなお、大きくなったようだった。わたしは、吐き気がした。まるで、自分の現身が、巨大な何かに吞み込まれたような錯覚を覚えた」
「私は思わず、男の顔を見つめた。悪魔のような、勝ち誇った笑みを浮かべているのかと思った。だが、そうではなかった。彼は、全てを達観したような、それでいて、どこか哀しみを感じさせる表情だった。それはなぜか、かつて見た大涅槃堂のブッダ像を思い出させた」
「わたしは、生まれて初めて”他人”というもの関心を持った。悪魔のようにも、ブッダのようにも見えるこの男は、一体何者なのだろうと。そして、今更ながら訊ねてみた。この実験の真の目的は何なのかと」
「男の答えは、俄かには信じがたかった。スパコンによるシミュレーションによれば、2030年に訪れる”災厄”が訪れ、最悪、世界の人口の半分は、その肉体を失うという。そして、その時、意識をネット上にアップロードしておけば、やがて新たな器を用意できたときに、生き延びることができる――。だからこそ、この実験を進めているのだと」
「は?何で15年も前に、この男が災厄を予測できてんだよ?日本政府でさえ、知らされたのはつい数か月前だっていうのに」
梨沙さんが声を荒げる。
日本語が分からない、ターニャがビクッとして、彼女の顔色をうかがう。
「Sorry, I didn't mean to accuse Tanya. Keep reading.(すまない、ターニャを責めたわけじゃないんだ。読み進めてくれ)」
ほっとしたように、ターニャが再びページに目を落とす。
「もし、異なる状況下で言われたなら、一笑に付しただろう。だが、目の前には、スパコンによるシミュ―レーション結果が、厳然と存在している。わたしは、何度も前提条件を変え、シミュレーションを行ってみた。だが、時期の誤差はあれど、地球が氷河期に突入するという結果に変化はなかった」
わたしは、4カ月前、世界各国の首脳がはじめてこの話を聞いたときのことを思い出す。あれだけ優秀な人達が、半ばパニックを起こすように、目の前の事実から目を背けていた。
「絶望するわたしに、男はこう言ってきた。『あなたの協力さえあれば、世界に救われる道筋が残される』と。私は、一抹の意外さを覚えた。感情を感じさせない、それでいて異様に整った外見を持つアンドロイドのようなこの男にも、”人類を救う”という大義があるのだ。それなら――と、わたしは迷った挙句、研究に協力を続けることにした」
わたしは祈るような気持ちで、話の続きに耳を傾ける。
「その後の研究で分かったのは、自然界同様に、共喰いは、少なくても別の食糧があるうちは発生しない。そして、意識にとっての食糧とは、情報を意味する。だから、私たちは、過去の歴史や、偉人達の思想を、どんどん意識に喰わせていった」
「その中でも、何よりも効果的だったのは、”宗教の教義”だった。長い年月をかけ、風月にさらされ、様々な批判に耐えてきた宗教は、いずれも膨大な体系が形作られている。だが、教義そのもの以上に、どうやら意識には、何かを狂信的に信じる信念や怨念という強い感情が、意識を生きながらえ冴える刺激となり得るということだった」
「それでも、半年ほどしたころ、やはり意識は、その寿命を迎えようとしていた。この頃には、私達も気が付いていた。『身体という受け皿のない意識は、結局のところ、外部刺激が足りずに、やがて消え去ってしまうということ』に。私は、まるで存在しない我が子が、確実に死に向かっているような無力感を覚えていた」
「その時、男は言った。『わたしの身体を、実験に捧げましょう』」