第151話:悪魔の誘い
「私は、自らの欲望と引き換えに、この世界を亡霊に売り渡してしまったのではないか……」
ベンガル語で書かれた、ヴィクラムの手記の一文を、ターニャが読み上げる。
ヴィクラムの出身都市のコルカタは、公用語であるヒンドゥー語よりも、方言としてのベンガル語が普及している。この中で読めるのは、ターニャだけだ。
「あれは、ナヴァラートリの最中の10月10日のことだった。深夜、私だけが残った研究所を訪れたあの男は、私にこう告げた。『あなたの真なる欲望を叶えられます……』と。そいつの顔は、ひどく整ってはいたが、蒼白く、まるで亡霊のようだった」
ターニャが恐る恐る、今にも破れそうなページをめくる。
「当然、わたしは一笑に付した。凡人に、わたしの真の欲望など分かるはずはないと……。だが、奴は当然のごとく言い当てたのだ。『この白く呪われた肉体を捨て、不死に至りたい』いうわたしの欲望を。そして、それを叶えるための方法さえも」
――「白く呪われた肉体」というのは、アルビノとしての肉体ってことだろうか。
「『自身の意識を、電脳の海にアップロードする』という方法論は、かつてさんざん語り尽くされたものだ。だが、世界の誰しものが、二つの壁を突破できなかった。『意識を取り出し、移植する』という第一の壁を超えたこの私でさえ、二つ目の壁の前にはなす術がなかった」
サティヤさんが思わず息を呑む。
「ヴィクラムは、15年以上前に、意識を取り出す脳外科手術に成功していたというのか……」
ターニャが続ける。
「だがあの男は、二つ目の壁、すなわち”電脳上で、意識を保ち続ける”ための、『プログラムとスーパーコンピューターの双方を提供できる』と言い放ったのだ」
「むろん私は問うた。『国家レベルの研究機関でさえも入手困難なものを、なぜ、お前が提供できるのだと。男は、わたしの耳元でそっと囁いた。その正体、XXXXXXXXXXの名を」
「なんで、肝心の部分が滲んでんだよ」
梨沙さんが腹立たしそうに言う。
――いやむしろ、後になって、敢えてそこだけ擦って、読めなくしたように見える。
「私は、ある島に招待された。そこには、ありとあらゆるものが揃っていた。完全自給自足が可能な食糧プラントや電力設備に加え、最新のオートメーション手術の機械から、スパコンまで……。あまつさえ、彼は量子コンピューターの開発まで進めていたのだ。これには私も、さすがに彼の力を認めざるを得なかった」
「はじめの内は、あの島での研究は、純粋な快楽だった。金銭的な制限も、倫理的なしがらみもない中で、100%の能力を注ぎ込める喜びを、生まれて初めて感じていた。電脳上に、初めて意識らしきものを発生させられたときは、感動で打ち震えたものだ……」
ここまで読んで、ターニャは息を吸った。
その表情が険しくなる。
「だが、夢のような時間が悪夢に変わるまで、さほど時間はかからなかった。はじめは、意識が徐々に微弱化していっただけに思えた。だが、それは、ある地点で急激に微小化し、やがて、電脳上の意識は完全に消失した」
「わたしは、二度、三度、四度と自らの意識を電脳の海にアップロードした。だが、結果は変わらなかった。一定期間を過ぎると、決まって意識は消失に向かってしまう。結局、”熱力学の第二法則”からは逃れられないのかと、失意に打ちひしがれた……」
「サラ、ごめん、”熱力学第二法則”って、何?」
「全ての生命のエネルギーは、秩序から無秩序に向かい、やがて減衰するという法則だよ。例えば、氷が溶けて水になって散逸するように、ヴィクラムの意識は、ネットの海に散らばり、元の性質を保てなかったんだと思う」
――味噌の塊を海に流したら、すぐに海に溶け込んでしまうようなものだろうか。
「そんなある日、やつは、ある提案をしてきた。焦りが極限に達していた私は、あろうことかそれを受け入れてしまったのだ。それが、悪魔の誘いとも知らずに」