第150話:遺されしもの
2029年12月22日 インド・ゴーラクプル
結局、わたしが検査から解放されたころには、とうに日が暮れていた。
脳だけでなく、身体の、ありとあらゆる部分を調べ尽くされた気がする。
「ま、脳ってのは、身体の全てに繋がっているからな。きちんと調べるに越したことはないさ」
梨沙さんはそう言って、個室のベッドに寝かせられたわたしに、リンゴを切ってくれようとする。
アーミーナイフみたいなもので、ダイナミックに4分割すると、皮つきのまま机の上に置いた。
ターニャがそれを手に取ると、綺麗に皮をむき、わたしに手渡してくれる。
リンゴを齧って、お茶で流し込む。
針を刺された直後の、あの”脳が熱くなる感覚”は、既に消え去っていた。
わたしはほっと一息つくと、ずっと気になっていた質問に切り込んだ。
「ヴィクラムは、どうなりましたか?」
一瞬、梨沙さん、ターニャ、サティヤさんがお互いを見つめ合った。
気まずそうな雰囲気の中、梨沙さんが口を開く。
「搬送されてすぐ亡くなったよ。元医者だけあって、きちんと致死量になるように、キノコ毒を自ら調合したらしい」
「そう……ですか」
正直、覚悟はしていた。
わたしに倒れかかってきた彼の身体は、この世のものとは思えないほど、軽かったから。
「医者も頑張ってくれたんだがな。身体が極度に衰弱していたから、どうにもならなかったらしい」
――ただ……、と梨沙さんが続ける。
「担当医が言うには、意識が薄れゆく中で、意外にも晴れやかな表情を見せていたらしい。まるで、人生の最後の最後で、真理にでもたどり着いたかのように、な」
――真理。
「せめてもう少し話す時間があれば、予言の歌の謎も解けたのかもしれないのですが……」
サティヤさんが無念そうに言う。
「確かに、訳わかんないよな、あの歌は」
どうやら、梨沙さんは、黒革のブックカバーに仕込まれた通信機で、わたしたちのほとんどの会話を聞いていたらしい。
どう考えても盗聴だけど、今回はそれに助けられたので、何だか責めづらい。
「あ、あの……」
ターニャが、言いにくそうに切り出す。
「仏塔の中で、リンさんがバッグの中身をぶちまけた時のことなんですけど……」
「ああ、ありがとね。荷物、拾っておいてくれたみたいで」
わたしはぺこりと頭を下げる。
あの時は、完全に頭がヒートアップしていて、後のことなんて全く考えられなかった。
「あの時、わたしも一緒にパニックになってしまって、地面に散らばっていたものを、とりあえずバッグに入れて持ち帰ったんです。そしたら、こんなものが…」
そう言って彼女が取り出したのは、ボロボロになったノートだった。
「え、これって、もしかして……」
そのノートには見覚えがあった。
確か、座禅するヴィクラムの傍らに、銀の針とお茶碗と一緒に置かれてたものだ。
「はじめは、リンさんのだと思ったんです。中、暗かったし……。でも病院で開いてみたら、全部ベンガル語だったので、ヴィクラムさんの私物だと分かったんです」
一目で、長きにわたって使っているものだと分かる。
パラパラと開くと、破れていたり、くっついているページがあって、めくるのにも神経を使うありさまだった。かろうじて読めるページにも、土や草の汁、挙句の果てには血痕らしきものまで染みついていて、判読が難しい状態だ。
「これって、そもそも何のノートなの?」
そもそもベンガル語が読めないわたしにとっては、何についての記録なのかさえ分からない。
「手記のようなものだと思います。ページの上に、日付が記されているので」
ターニャはノートを手に取ると、あるページを開いてくれる。
「২০১৩ সালের ১০ অক্টোবর」
――1行目に書かれているこの文字が、日付なんだろうか。数字さえ使ってないので、一文字たりとも読めない。
ターニャが言う。
「この2013年10月10日と記載されているページに、ヴィクラムさんが、初めて”亡霊”と出会った日のことが書かれているのです」