第145話:ブッダの足取り
「たった今、アローカから連絡がありました。ヴィクラムの”最後の足取り”が掴めたそうです」
「ほ、本当ですか?」
――『最後の足取り』という言い方が気になる。もうすでに、いないということなのだろうか。
「数日前に、ここから数キロメートルほど離れた小さな医院に、急患として運びこまれていたようです。アローカが既に車を手配したので、一緒に現地に向かいましょう」
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そこは、ブッダの弟子を名を冠する、農村の中にある小さな医院だった。
その一室で、医者をはじめ、アローカさん、サティヤさん、わたし、そしてターニャが、所せましと座っている。
「彼がここに運びこまれたのは、3日前のことです。極度に衰弱しており、道で動けずに倒れていたところを、急患として運び込まれてきました」
「衰弱の原因は?」
サティヤさんの問いに、医者は渋い表情をする。
「ご高齢ということもありますが、主には栄養不足と過労によるものです。どうやら、ネパールのルンビニーから徒歩で国境を越え、このクシナガラまで、歩いてこられたようですから」
――ルンビニー……って?
疑問の表情を浮かべるわたしに、サティヤさんが補足してくれる。
「ルンビニーは、ブッダ生誕の地と言われています。かつてはインドの一部で、今はネパール領になっています。つまり彼は、ざっと200kmの距離を、歩き続けてきたことになります」
――確か、ヴィクラムは60を超えていたはずだ。
ましてや、悪天候の中、舗装もされていないような道であれば、ほとんど自殺行為に近い。
「それで、彼は、今はどこにいるのですか?」
アローカさんの問いに、医者は申し訳なさそうに首を振る。
「一昨日の晩遅く、看護師が目を離している隙に、突如姿をくらましてしまったのです。体力的には、点滴により、歩けるくらいには回復していましたから」
「行先の手がかりになるようなことは言っていましたか?」
「点滴を打ちながら、大病院での検査を勧めた私に対して、彼はこう言葉を返しました。『あと数日、満月の夜までもてばいい』……と」
わたしとアローカさんたちは顔を見合わせた。
「どうやら、満月の夜にこの地で入滅を図ろうとしていることに、間違いはなさそうですね」
サティヤさんの言葉に、アローカさんも頷く。
「満月の夜は、明後日の21日です。それまで、出来る限り周辺を探すよう、地元の警察や僧院の者たちに捜査を依頼しましょう」
そう言うと、アローカさんは携帯を片手に部屋の外に出ていった。
「それにしても、ヴィクラムは、なぜ倒れてまで、自分の足で歩こうとしていたのでしょうか……」
「ブッダが誕生した地と、入滅した地を、その足で辿ることで、その精神性に近づくことになると考えたのかもしれません。当時、ブッダやその弟子もまた、徒歩で布教していたわけでしたから」
「でも、ヴィクラムは仏教徒ではないんですよね。何でそこまで……」
「そこが、謎なんです。相当に信心深い人であっても、仏教のそれぞれの聖地を徒歩で回り、仏典を読み漁るのは、並大抵のことではありませんから」
わたしもそこは疑問だった。
脳医学と量子力学の分野で、世間から十分すぎる評価を得ていた彼が、なぜ、そこまで仏教にのめりこまなければいけなかったのか。
「いずれにせよ、徒歩なら、そう遠くに行けないかと思います。クシナガラは小さな集落ですから、上手くいけば、明日中には、行方が見つかるかもしれません」
サティヤさんが慰めるかのように言う。
どうにか見えてきた微かな希望に、わたしは胸をとりあえず胸をなでおろす。
しかし、その希望は、無惨にも打ち砕かれることになる。
翌日の12月20日、丸一日、当局や僧を動員したものの、ついにはヴィクラムの居場所は杳として知れなかったからだ。