第144話:ひれ伏す象
「この場所で、ブッダが火葬されたんです」
わたしは、無数のレンガが組み上げられた、まるで古墳のような、仏塔を見上げる。
「仏塔って、なんとなく尖った縦長の建物かと思っていました」
「これは、まさにブッダが亡くなった後に建てられた、初期の仏塔ですからね。当時は、レンガや土を盛り上げて作った”塚”のようなものが多かったのです」
「ここに、ブッダの遺骨が残されているのですか?」
「仏塔の中には入れないので、正直わたしもこの目で見たことはないのですが……。ブッダがこの地で火葬された後、その遺骨が八つの王族・部族に分骨されたと言われています。その後、インド全土に仏教を広めたアショーカ王が、更に細かく分骨し、8万4千もの仏塔を立てたそうです」
――8万4千って……。
わたしは絶句する。そんなに細かく分骨できるものなのだろうか。
「その後、遺骨は世界に広がっていきます。日本には、鑑真という方が遺骨を持って帰っていわれ、日本にも仏舎利が建てられたと言われています」
――鑑真なら、歴史の教科書を見たことがある。確か、唐から日本に来ようとして、5回船が難破して、失明しながらも6回目にようやくたどり着いた高僧だった気がする。
「先人のそんな苦労があったからこそ、仏教は世界に広がっていったんですね……」
「ええ、キリスト教も、イスラム教も、世界宗教と呼ばれる宗教は、いずれも当時の信徒が、血のにじむ努力で広げていった結果なんです。飛行機も、ましてやネットもない時代ですから、まさに命がけでした」
そう聞いた後で、再び仏塔を見ると、レンガの塊に見えていた建物が、急に荘厳さを帯びてきたように思えてきた。
「でも、なんとなく、宗教の開祖は復活するもんだと思っていました。食中毒で亡くなったことといい、ブッダって、結構人間的なんですね」
「確かに、キリストは、ゴルゴダの丘で磔にされたのち、復活したと言われています。ただ、それは彼が『神が人間の姿をとってこの世に現れた存在』とされていたからです。ただ、ブッダはあくまでも、悟りを開いた”一人の人間”ですから」
――確かに、アインシュタインが、『仏教は科学と共存できる』的なことを言ったというのも頷ける。
「もちろん、まだまだ解明できていない逸話も残されています。暴れるゾウが、ブッダがその眼差しを向けただけで、大人しくなってひれ伏した――なんて話もありますから」
――え、それって……。
わたしは、サウジの“鷹の祭典”での、テロリストによる襲撃を思い出す。
切りかかろうとしてきた刺客を、ジャイールが両眼で射竦め、跪かせた時のことにそっくりだった。彼は、あのとき、強烈な脳波操作を行っていたはずだ。
……ということは、ブッダもまた、脳波操作に長けていたという解釈はできないだろうか?
その話をサティヤさんに話すと、ものすごい勢いで喰いついてきた。
「ほ、本当に? それって、リンさんもできるんですか?」
「わたしは、まだ、なんとかアバターを脳波で動かせるくらいですけど……。ジャイールは、ヴィクラムさんに会ったことで、他の生物にも脳波を送れるようになったといっていました」
「そ、そんなことが……。でももし、そうなら……」
そう呟きながら、彼は再び、あたりをうろちょろと歩き始めた。
また、理系男子モードに入ったようだ。
わたしは、ターニャと目を合わせて、苦笑する。
「ちょっと、ここで休もうか」
わたしは、草の上に座って座禅をはじめる。
インドに来てから、毎日が必死で、脳波操作の練習ができていなかった。
眼を閉じて、フロー、そしてゾーンに入ると、意識の範囲が一気に広がっていく。
今まで聞こえなかった鳥の鳴き声が、風のささやきが聞こえてくる。
やがて、風に乗って、ターニャの歌声がわたしを優しく包む。
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末法の世が始まるとき、魂たちはその器を失う。
そして彼らは、変質する量子の海を漂い続けるだろう。
人が自らの境界を求めるとき、新たなる輪廻の環が回りだす。
その環を回すのは、全なる亡霊か、一なる女神か。
やがて人は選ばなければならない。
生み出された涅槃に留まるのか、この大地で再び生きるのか?
一なる女神は、次なる世界で運命を共にする者たちと再び出逢う。
やがて、一が全に、全が一になったとき、第三の道が拓かれよう。
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歌詞は全く一緒のはずなのに、ターニャが歌うと全く違う響きになる。
ジャイールの歌が人を圧倒する竜巻だとすると、ターニャを歌は、頬を優しく撫でるそよ風のようだ。
――あれ?
そのとき、一瞬の違和感を覚えた。
どこかから誰かに見つめられているような、あの感触だ。しかも、異なる二方向から。
まさか、このインドまで来てなお、他国の誰かに見張られているのだろうか?
「ターニャ、何か感じる?」
そう訊ねると、彼女は不思議そうにわたしを見つめ返す。
――気のせいならいいのだけど……。
更に神経を研ぎ澄ませ、その視線の先を探そうとしたその時。
サティヤさんが、息を切らしながら戻ってきた。
「たった今、アローカから連絡がありました。ヴィクラムの”最後の足取り”が掴めたそうです」