第142話:脳と心臓
大涅槃堂の外に出ると、暖かな日差しがわたしの身体を包み込んだ。
抜けるような蒼天の下、白亜の大涅槃堂が陽光に反射し、鮮やかに映えている。
一陣の爽やかな風が、吹き抜け、わたしの髪をたなびかせる。
黄色に色づいた木の葉が、さらさらと音を立てて揺れている。
――そういえば、今って、12月なんだっけ。
「この季節なのに、ずいぶんと暖かいんですね」
「ええ、今は冬ですからね。お昼でも20度程度なので、大分快適です」
ああ。そうか。
そもそも考えてみれば、普段わたし達がもっている「冬が寒いもの」という意識も、日本にいるからこそもっているものなんだ。
サティヤさんが、ポットに入れた薬草茶を手渡してくれる。
苦みのあるその味が、今は美味しく感じられた。
日光の暖かさが、色づく木の葉が揺れる音が、たなびく前髪が、そして薬草茶の仄かな苦みが、ようやくわたしが、この現実世界にいるという実感を与えてくれる。
「意識って、もしかして、脳だけでなく、身体が感じることで、得られるものなんでしょうか?」
わたしはふと、尋ねてみる。
サティヤさんは、眼を見開いて、暫く考え込む。
「とてもよい質問ですね。ここは、科学者の間でも見解が分かれているところなんです」
「学会でも、『意識はあくまでも脳の神経細胞の活動 によって生まれる』という説と、『身体全体の感覚や環境との相互作用が意識を生んでいる』という説で、真っ二つに分かれています」
そう言って、サティヤさんは薬草茶を一口飲んだ。
「へえ、まだ解明されていないんですね」
「心は脳に宿るのか、心臓に宿るのかという議論は、少なくても紀元前3000年前のエジプト時代から行われてきたそうですよ」
「え、じゃ、人類は、5000年間もずっとこの議論をしているってことですか?」
「はい。当時のエジプトでは、心は『心臓に宿る』と考えられていて、ミイラを作る際には脳を捨てて、心臓は残したと言われています。人の死後、オシリスという神が、死者の心臓を天秤にかけ、善悪を測ると信じられていたようです」
――オシリス。
そういえば、ナイルの川辺で、梨沙さんに、壁画の写真を見せてもらった気がする。
確か、ジャッカルの頭を持つ「アヌビス」の隣に座っていた、冠を被った神様だ。
「一方、紀元前4世紀ごろ、ギリシャのヒポクラテスは、『知性、感情、意識などの”心の働き”は脳にある』と主張していたようです」
「それにしても、人類が5000年間もずっと議論してるなんて、よっぽど興味深いテーマなんでしょうね……」
「ええ。実は近年、AIの誕生によって、さらに議論が過熱しています。なぜなら、仮に脳だけで意識が成立するのであれば、”電脳の海の中の存在であるはずのAIが、それ単体意識を持ちうる”ことになりますから」
――まさに、初代アニメ版の『攻殻機動隊』の主なテーマは、そこだった。
「一方で、もし、身体が意識の誕生に不可欠な要素だった場合、受信機としての物理的な脳に加え、身体そのものが必要になります」
わたしは、不意に何かが繋がった気がした。
カイや十萌さんたちは、”人工知能”にとどまらず、”人工頭脳”、そして人工身体である”リアルアバター”を開発していた。
――もし意識を、人工頭脳、そしてリアルアバターに宿そうとしているのであれば、全ての辻褄があう。
そう言えば、十萌さんも、サウジから連絡したときに、こう発言してた。
『ここらへんは、また今後、対面でゆっくり説明してあげるわ。オンラインだと誰が聞いているか分からないから』……と。
逆に言えば、これは、盗聴を恐れる必要があるほどの重要なテーマなのだろう。
「ちなみに、仏教の場合は、”身体派”と”脳だけ派”の、どっち派なんですか?」
「それこそが、先ほどの”縁起” の考え方なのです。仏教では、”意識は独立して存在するのではなく、身体、環境、経験、記憶などの相互作用 から生じる”と述べています。つまり、エジプトの”心臓説”でも、ギリシャの”脳だけ説”でもない、”第三の道”だといえるでしょう」