第141話:シュレーディンガーの猫たち
「で、電脳ネットの海!?」
わたしは、思わず声を上げる。
脳裏には、星とカイとわたしを結び付けた、あの『攻殻機動隊』が浮かんでいる。
あの近未来世界が、いよいよ近づいてきているということなんだろうか。
「ええ。量子コンピューターの演算速度は、通常のスパコンの数百万倍から数億倍の速度と言われていますから、理論上は可能だと思います。 もちろん、超電導ベースの量子コンピューターの場合、Qubit数を飛躍的に増やさなければなりませんが……」
――演算速度? 超電導? Qubit数?
普段使わない脳が、過熱し始める。
そんなわたしの様子を見ていたアローカさんが声をかけてくれる。
「とても興味深い話ではありますが……。続きは、ブッダゆかりの場所を見ながら続きを話されませんか?」
そう言って、薬草茶を注ぎ足してくれる。
「ブッダが涅槃に入られたマハーパリニルヴァーナ寺院、そして荼毘に付されたランバール仏塔を、サティヤに案内させます。そちらを見学されながら話した方が、イメージが沸きやすくなるかもしれません」
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白色のお堂の内部に安置されていたのは、6メートルほどの、巨大な金色のブッダ像だった。
枕元には花が添えられ、穏やかな表情で目を閉じている。
まさに、ヴィクラムの涅槃図に描かれていたのと同じ構図だ。
「この場所で、ブッダが入滅されたと言われています」
サティヤさんが解説してくれる。
「ブッダって、なぜ亡くなられたんですか?」
「いくつか説がありますが……有力なのは、信者の家で供されたキノコによる食中毒だったという説です」
「そ、そうなんですね……。なんだか、ちょっと意外です」
磔にされたキリストのような、どこか劇的な最後を想定していたので、思わずつぶやきが口に出る。
サティヤさんが頷く。
「そうですよね。世界には様々な宗教があり、多くの逸話が残されていますが、その中でも仏教は、科学的解釈が可能なものが多いんです。だからこそ、アインシュタインをはじめとする多くの科学者を惹きつけていたのかもしれませんね」
――そんなこと、日本にいたときは考えたこともなかった。
科学と宗教は、ぱっきりと二つに分かれていると思っていたからだ。
「多くの科学者、ってことは他にはどんな学者が?」
「量子力学の分野に限っても、ロジャー・ペンローズやシュレーディンガーという学者が、仏教の”縁起”という概念に近い思想を説いています」
「”縁起がいい・悪い”って言葉、日本語だとよく使われてるんですけど、正直、仏教用語だとは思っていませんでした」
「それは、日本人の中では既に、生活レベルで仏教の思想が根付いているということでしょう。人は深く根付いた思想については、意識さえしませんから」
そう言って、サティヤさんは仏像に向けて両手に合わせる。
わたしもそれに倣い、目を瞑って合掌する。
――お願いのときに手を合わせるこの動作もまた、仏教のお祈りから来ているのかもしれない。
そう考えると、思っている以上に、わたしたちの習慣に深く根付いているのだろう。
そのとき、背後から”ニャー”という鳴き声が聞こえた。
野良猫が迷い込んできたんだろうか。
野良の割にはやたらと人懐っこく、わたしの足元で立ち止まると、そこで寝ころび始めた。
その姿が、ブッダの寝姿と重なり、わたしは思わず吹き出してしまう。
それを見ていたサティヤさんが突然訪ねてきた。
「リンさんは、『シュレーディンガーの猫』の話を知っていますか?」
私を首を振ると、「これは、シュレーディンガーが考え出した思考実験なんですが……」と、言葉を継ぐ。
「中が見えない箱に、一匹の猫がいると想像してみてください。その箱には、装置が作動したら毒ガスが出てしまう仕組みが組み込まれています。ただし、この装置が作動するかどうかは、箱を開けるまで分からないものとします」
――ちょ、本物の猫の前で、その想像はキツいんですけど……。
そう抗議する前に、サティヤさんが質問を投げてきた。
「さて、リンさんがこの箱を開ける前の時点で、この猫は生きているか、死んでいるか、分かりますか?」
「え、開ける前だったら……、普通に生きてるんじゃ?」
「いえ、量子力学的には、猫が生きているか死んでいるかは、観測者が箱を開けるという『関係性』の中でのみ決まります。ですから、箱を開ける前は、猫は”生きてもいるし、死んでもいる”状態なのです」
サティヤさんは、身を屈めると、わたしの足元で寝転がる猫を撫でる。
猫が、気持ちよさそうにグルグルと喉を鳴らす。
「”この現実が固定的なものではなく、観測や関係性によって成立する”いう考えが、縁起と量子力学の共通点なのです」
……そう、なのだろうか。
わたしは不意に、現実というものが疑わしくなってきた。
――目の前にいるのは、本当に現実の猫なのだろうか。
思わず、サラの名を呼ぶ。
スマホの中に、いつものキュートなサラの姿が映る。
電脳の海にだけ存在する、この猫型AIは、果たして実在していると言えるのだろうか。
そしてこのAIとしてのサラもまた、とうの昔に亡くなった、わたしの愛猫の”サラ”をベースにデザインされている。
仮にもし、オリジナルのサラの魂が存在するのだとすれば、それは今、どこにいるのだろう。
いや、そもそも、そんなことを考えているわたしは、本当に実在して言い切れるのだろうか。
思考がぐるぐると回り、ふらつきそうになってくる。
「大丈夫ですか? なんだか顔色が悪いですけど……」
ターニャが、揺らめくわたしの手を握ってくれる。
ターニャの体温が、わたしの手を通して、身体全体に伝わってくる。
今はただ、この身体が感じている”ぬくもり”だけが、わたしが現実世界にいるという証拠のように思えた。