第140話:量子の海
わたしは、背筋の震えを抑えながら、サティヤさんの言葉を紙に書き記す。
『末法の世が始まるとき、魂たちはその器を失う』
→”あるべき教え”が忘れ去られ、終末的世界が訪れるとき、人々の身体は失われ、魂もしくは意識だけが残るだろう。
「となると、この二行目の、『そして彼らは、変質する量子の海を漂い続けるだろう』というのは、どういう意味なのでしょうか? 正直、”量子”っていう言葉さえ分かってないんですけど……」
戸惑うわたしに、サティヤさんはかみ砕いて教えてくれた。
「まず、 量子とは、原子よりもさらに小さい、『”粒”か”波”の形状をした何か』を指すんです」
「『”粒”か”波”の形状をした何か』って……、一体どっちなんですか?」
「ここが量子の不思議なところで、”誰も観察しないと波状で、誰かが観察をすると”粒になる”という性質をもっているんです。つまり、観察者がいるかどうかで、形状が変質するんです」
――観察者が存在するかどうかで、形が変わる?
ますます困惑が深まっていくわたしの顔を見て、サティヤさんは慰めるように言う。
「ここは、あのアインシュタインでさえも誤解していたところで、後世の研究で分かったところなので、すぐには納得できなくても無理はありません」
「え? アインシュタインでも?」
――それなら、わたしが分からないのも無理はない。
そのとき、ずっと静かに話を聞いていたターニャが、不意に口を開いた。
「それってもしかして、タゴールとアインシュタインの対話の話ですか?」
――え、あの詩人のタゴール?
ターニャが”独りで往け”を歌ってくれたとき以来、タゴールの名は、わたしにとってもすっかり馴染み深いものになっていた。
サティヤさんに「よくご存じですね」と褒められると、ターニャは照れたよう頬を赤らめる。
「タゴールは、私にとって、マザーテレサと並ぶ英雄ですから」
「科学者のアインシュタインと、哲学者のタゴールは、分野は違えど、お互いを認め合っていた仲でした。そのため、1930年に、アインシュタインの住居があったドイツで対談が行われたんです」
わたしは、サラに頼んで、その対話の内容をスマホに映し出してもらう。
それによれば、以下のようなやりとりがされたようだった。
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タゴール:
「この世界の真理は、人間の意識なしには存在しません。科学の法則もまた、人間の心の中にあるものです。もし人間がいなくなれば、ニュートンの法則もなくなります」
アインシュタイン:
「では、あなたは『真理は人間の意識によって決まる』と考えるのですね?しかし、もし人間が存在しなくても、月はそこにあるでしょう」
タゴール:
「はい、でも月がそこにあるということを『知る』のは人間です。科学は、人間がつくり出した知識の体系です。ですから、科学的な真理も人間の意識と切り離せません」
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「ターニャには申し訳ないけど、 アインシュタインの方が正しい気がする……。だって、わたしが見てなくても、月は満ち欠けするんだし」
サティヤさんが言う。
「実際、当時のほとんどの科学者がそう考えていました。ただ、対談後の50年以上の研究を経て、少なくてもミクロレベルの世界では、”観測者の存在の有無によって、量子の性質が変わる”ということが、決定的に証明されたのです」
「そ、そうなんですね」
今度は、わたしが恥ずかしさで頬を染める番だった。
サティヤさんが続ける。
「ヴィクラムさんは、かつて量子力学の分野で、先進的な論文を書いていた方です。ですから、こうした量子の性質を深く理解していたのは間違いないでしょう」
「じゃ、『そして彼らは、変質する量子の海を漂い続けるだろう』というのは……」
サティヤさんが言う。
「”海”という表現は、”量子が波状である状態”と仮定すると、つまり、”観察者がいない状態”ということになります。そうなると、『観察者不在のままの場合、”身体”という器を失った人の意識は、量子の海を漂い続ける』という解釈ができるかもしれません」
――うーん。やっぱりイメージが沸かない。
目に見えない量子という存在が、あまりに馴染みが薄すぎるせいだろう。
それは、ターニャも一緒だったらしい。
「その”量子の海”っていうのは、具体的に、どこなんですか?つまり、もし、身体がなくなった場合、私達の意識はどこにいくんでしょうか?」
サティヤさんが、しばし黙考する。
やがて、「あくまでも推測にすぎませんが……」と前置きした上で、サティヤさんは口を開いた。
「”量子の海”とは、量子コンピューターが生み出す”電脳の海”だと解釈できます。つまり、量子コンピューターが実現した未来では、人の意識が電脳ネットの海にアップロードされる――。そう、示唆しているのではないでしょうか」