第138話:宗教と科学
2029年12月19日 インド・クシナガラ
夜行バスが、ブッダ入滅の地・クシナガラに着いた頃には、ちょうど空が白み始めていた。
「お待ちしていました」
バスから降りて、あたりをきょろきょろとしているわたしとターニャに、”サティヤ”と名乗る一人の若い男性僧侶が声をかけてくれる。
事前にシャルマさんが、ブッダが入滅したと言われる大涅槃堂を管理する僧院に、連絡をしておいてくれたのだ。
明後日の夜には、満月を迎えてしまう。
もし、本当にヴィクラムがその日に入滅するのであれば、どんなコネを使おうと阻止しなければならない。
「クシナガルには、修行僧のための僧院があります。そちらに向かいましょう」
鳥のさえずりを聞きながら、朝靄の中を歩いていくと、やがて白い仏塔が見えてくる。
清廉な空気に浮かび上がったその優美なシルエットに、思わず目を奪われる。
「こちらが、大涅槃堂になります。まだ開いていないので、また後でご案内しますね」
若い僧侶は穏やかに言う。
「まずは、私たちの僧院長とお会いいただければと思います」
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「よくいらっしゃいました」
”アローカ・スバンダ”という名の高僧は、既に70歳を過ぎているようだったけど、物腰はしっかりとしていた。
「お疲れでしょう。こちら、薬草茶です。アムラ、ギルオイ、シャタバリなどを混合したものです」
彼がそういうと、サティアさんがわたしとターニャにお茶を進めてくれた。
――まるで、RPGの呪文のような名前だ……。
一方で、ターニャは興味深そうに口をつけて、「カレーに合うかも……」なんて呟いている。
「シャルマさんより、大体の経緯は伺っています」
聞けば、アローカさんはシャルマさんにとって、仏典研究における先輩筋に当たるらしい。
わたしは今までの経緯を、詳しくアローカさんにお話しした。
わたしの言葉とともに、レコーダーに録音されたジャイールの歌に、まるで噛みしめるように聞き入っている。
そうして、一時間ほどが経ったころ。
アローカさんは、こう言った。
「入滅のために、このクシナガルに来る方は決して少なくありません。以前、日本人の高僧もここで入滅されたくらいですから」
――但し、とアローカさんは続ける。
「ここ15年間の間で、ヴィクラムさんと思しき方が、寺院にいらっしゃったことはないかと思います。もし、このそういうことがあれば場合、私の耳に入るはずですから」
わたしは胸をなでおろした。
ということは、少なくても過去の15年の間は、彼は自死を選んでいないということだろう。
不慮の事故なんかで亡くなっている可能性も捨てきれない。やはり少なくても、明後日も満月の夜までは、この地で留まるべきだろう。
わたしは、話題を、ジャイールが詠った予言の歌に移す。
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末法の世が始まるとき、魂たちはその器を失う。
そして彼らは、変質する量子の海を漂い続けるだろう。
人が自らの境界を求めるとき、新たなる輪廻の環が回りだす。
その環を回すのは、全なる亡霊か、一なる女神か。
やがて人は選ばなければならない。
生み出された涅槃に留まるのか、この大地で再び生きるのか?
一なる女神は、次なる世界で運命を共にする者たちと再び出逢う。
やがて、一が全に、全が一になったとき、第三の道が拓かれよう。
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「この歌の意味って、お分かりになりますか?」
わたしは、単刀直入にアローカさんに尋ねてみる。
彼はしばらく考えた後、目を瞑っていった。
「この歌詞には、仏教思想を軸としながらも、恐らく、ヒンドゥー教、キリスト教をはじめとする、複数の宗教上の概念が混在一体となっていますね。それがゆえに、一元的な解釈はほぼ不可能です」
――やっぱり……。
ジヴィクラムについて語ったときの、ジャイールの複雑な表情が思い浮かぶ。
『あの時、あの場所で彼と会ったことで、私はこっちの世界に足を踏み入れてしまった』
「ただ、一点、どの宗教にもない思想が入っています」
「それって、二行目の『変質する量子の海を漂い続けるだろう』ってとこですか?」
「ええ。量子という概念は、近年の科学によって誕生した概念のはずです。実際、パーリ語にもその言葉がないからこそ、ここだけ、英語の”quantum”になっていますし」
――わたしも、ここには違和感を覚えていた。意味はさっぱり分からないけど、なんだか、いきなり科学的な感じになっている。
「ただ、近年の研究では、量子力学と仏教思想は、多くの共通点があるとも言われています。既に老いた私には、理解が難しいところですが……」
そう言うと、傍らに立つ、ここまで案内してくれた若い僧に声をかける。
「こちらの孫のサティヤなら、多少はお役に立てるかもしれません。かつて大学で、仏教と科学に関する研究をしていたので」
「す、すごいですね……。宗教と科学を結び付けて研究するなんて」
サティヤさんは、「いえいえ」と、手を振りながら謙遜する。
「あのアインシュタイン先生もおっしゃっています。『現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは仏教だ』と。その言葉を聞いたとき、大学で学ぼうと決意したんです」