第134話:隠者
「え、満月の中に人が?」
――ウサギじゃあるまいし、とわたしは思う。
でも確かに目を凝らすと、白い満月の中に、フードを被った人物の影らしきものが描かれている。
「この黒いフードを被った隠者は、わたしが今まで見たどの涅槃図にも描かれていません。おそらく、ヴィクラム本人が、独自に描き込んだものなのでしょう」
――隠者って?
「世俗から離れ、修行や瞑想に専念する人々を指します。この絵の中にも、たくさんの仙人や修行者が描かれてはいるのですが……。この黒いフードの隠者だけ、明らかに不自然なのです」
フードの中の顔があるはずの部分は、月光を背負っているせいか、顔は判別できず、かろうじて輪郭が分かるだけだ。
ターニャが訊ねる。
「でも、涅槃図って、千年以上も、世界各地で描かれているんですよね。それであれば、これも、ヴィクラムさんが、過去に描かれたどこかの国の涅槃図を模写したって可能性はないんですか?」
シャルマさんは首を振る。
「確かに、涅槃図の源流は1~2世紀のインドの仏塔やペルシャワールの石像浮彫建築です。それが、中央アジアや中国に伝わるにつれ、涅槃図へと姿を変えています。ただし、こうして月の中に、”人”が描かれるのは、まずありえません。」
「どうしてですか?」
「なぜなら、月は『天界』の象徴であり、そこに誰かを描くなら、それは修行者たる“隠者”ではなく、仏さまたちでなければならないからです」
そういえば、日本アニメの新たな地平を切り拓いた高畑勲ti929871|45092>
「え、満月の中に人が?」
――ウサギじゃあるまいし、とわたしは思う。
でも確かに目を凝らすと、白い満月の中に、フードを被った人物の影らしきものが描かれている。
「この黒いフードを被った隠者は、わたしが今まで見たどの涅槃図にも描かれていません。おそらく、ヴィクラム本人が、独自に描き込んだものなのでしょう」
――隠者って?
「世俗から離れ、修行や瞑想に専念する人々を指します。この絵の中にも、たくさんの仙人や修行者が描かれてはいるのですが……。この黒いフードの隠者だけ、明らかに不自然なのです」
フードの中の顔があるはずの部分は、月光を背負っているせいか、顔は判別できず、かろうじて輪郭が分かるだけだ。
ターニャが訊ねる。
「でも、涅槃図って、千年以上も、世界各地で描かれているんですよね。それであれば、これも、ヴィクラムさんが、過去に描かれたどこかの国の涅槃図を模写したって可能性はないんですか?」
シャルマさんは首を振る。
「確かに、涅槃図の源流は1~2世紀のインドの仏塔やペルシャワールの石像浮彫建築です。それが、中央アジアや中国に伝わるにつれ、涅槃図へと姿を変えています。ただし、こうして月の中に、”人”が描かれるのは、まずありえません。」
「どうしてですか?」
「なぜなら、月は『天界』の象徴であり、そこに誰かを描くなら、それは修行者たる“隠者”ではなく、仏さまたちでなければならないからです」
そういえば、日本アニメの新たな地平を拓いた高畑監督の『かぐや姫の物語』でも、月には”人にあらざる者たち”だけが住んでいた気がする。
つまり、この場所に、”人”に過ぎない修行者を描くのは、ある種の”冒涜”にあたるのかもしれない。
「ただ、ブッダの絵が描かれている以上、他の私物のようには処分することもできません。さりとて、他の方の目に触れさせるわけにもいかないため、ここが物置部屋になった今でも、壁に架けられ続けているのです」
わたしは、おそらく15年前から架けられているだろう絵を見ながら、当時のことに想いを馳せてみる。
――彼は、なぜ全てを捨ててこの場所に来て、どういう気持ちで、この絵を描いたのだろうか。
じっと見続けていると、額縁の上の埃や、絵の微妙な傾きが気になってくる。
わたしは埃を払い、角度を正そうと、額縁を軽く浮かせた。
そのとき。
額縁を裏から、一枚の紙のようなものが舞い落ちた。
色褪せたその紙を拾い上げると、そこには、ヒンディー語らしい何かが書かれている。
ヴィクラムがこの地から姿を消す前に、書き残したメモか何かだろうか?
「これって、ヴィクラムの文字でしょうか?」
シャルマさんに手渡す。
彼は「ええ。彼自身の筆跡です」と頷き、そのたった4行の文章に目を通した。
瞬間、シャルマさんの表情が一変した。
「ヴィクラムのメモには、こう書かれています」
そう、前置きした上で、シャルマさんは明らかに躊躇しながらも、口を開く。
「想像もしなかった。私の実験が、まさかあんな亡霊を生み出してしまうとは……。彼は、やがて、全なる存在として、新たな輪廻を回す引き金となるだろう」
――え!? ヴィクラムが、亡霊を生み出した?
シャルマさんが言葉を継ぐ。
「2030年、末法の世が始まる前に、”一なる女神”の器を見つけ出さなければいけない。もし、その前年までに探し出せなければ……、満月の夜、わたしは、あのブッダと同じ地で入滅を図るだろう――」
「え、それって……?」
嫌な予感が脳裏を過る。
「はい。29年12月、つまりは今月の満月の夜までに、”一なる女神”が見つからなかった場合、彼は、ブッダが亡くなった地で、自らも死ぬと書かれてます」