第133話:涅槃図
「これって……」
わたしは、サラが訳してくれた最後の一説に目を惹かれた。
"Eka-bhūtā devī anāgatassa lokassa saha-bhāgīhi puna saṅgacchati."
一なる女神は、次なる世界で運命を共にする者たちと再び出逢う。
"Anāgate, yadā ekaṁ sabbaṁ hoti, sabbaṁ ekaṁ hoti, tadā tatiyo maggo vivarissati."
やがて、一が全に、全が一になったとき、第三の道が拓かれよう。
「この、”一が全に、全が一に”という表現は、禅の思想にもあると、知り合いの禅僧の方が言っていました。確か、”一切即一”とかいう表現だったかと思いますけど……」
「ええ。もともとは、約1800年前の高僧、龍樹が唱えた「縁起」や「空」の考え方に源流を発しているかと思います」
そう、シャルマさんは言う。
―――う……。む、むずかしい。
龍樹、縁起、空……。
自分から話題を切り出したものの、分からない単語を連発され、サラに助けを求める。
「龍樹は、2〜3世紀頃のインドの仏教僧で、今、世界に広がっている大乗仏教の礎を築いた人だよ。彼の思想は、日本や中国、チベットなどの仏教にも受け継がれているんだ」
たしかに、”仏教伝来”については、歴史の教科書にも書いてあった気がする。
”午後に仏教伝わる”って、覚えた気がする。だから、龍樹の思想が日本まで来たのは、彼の死後300年以上後だったということだろう。
「龍樹の言う、縁起とは、『すべてのものは相互に依存しながら存在する』という思想だよ。一方で、空は、『あらゆるものは固定的な実体を持たず、関係性の中でのみ存在する』とする考え方だ」
――うーん、分かるような、分からないような……。
その後も、わたしたちは、小一時間ほど、その歌の解釈について話し合ったものの、曖昧な部分が多すぎて、確信には至れなかった。
――というか、知らない言葉を、慣れない英語で理解しようとするのって、大変過ぎる。
ターニャと、サラがいなければ、とっくに頭がパンクしていたことだろう。
そんなわたしの雰囲気を察してくれたターニャが、シャルマさんにこう尋ねる。
「この寺院のどこかに、ヴィクラムさんが残していったものなどはありませんか?」
シャルマさんはしばし沈思黙考する。
やがて、思い当たったという風に、こう口を開いた。
「15年前、ヴィクラムが泊まり込んでいた部屋が、まだ残されています。当時の私物は既に処分されてしまっていますが、一緒に行ってみましょうか」
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埃にまみれたその部屋は、物置部屋のようだった。
当時彼が使っていたらしいベッドの上にも物が置かれ、そこに十五年前の面影を見出すことはできない。
わたしは尋ねる。
「当時から変わらないものはありますか?」
シャルマさんは困ったように、辺りを見渡す。
「あえて言えば、ですが……。この壁に掛にかかっている、ブッダの入滅の絵、つまり涅槃図でしょうか」
そう言って、微妙に傾いている壁の額縁を指差す。他の荷物同様、長い間触れられていなかったのだろう。額の上部にも埃がかかっている。
「”入滅”って、どういう意味でしたっけ?」
わたしの問いに、シャルマさんが答える。
「ブッダがこの世から去ったときのことを、入滅というんです」
へぇ、と思いながら、わたしは穏やかな表情で横たわるブッダの周りを、多くの弟子たちに囲まれながら横たわるブッダの絵を見る。
――いや、よく見ると、人だけではなく、白いゾウだけでなく、獅子やトラっぽい動物もいるし、中空の満月が照らす雲の上には、天女らしき人も描かれている。
「でも、なんだか割と新しい絵のように見えますけど……」
――精密な筆致だけど、紙や絵の具の様子を見る限り、明らかに数百年前の作品じゃない。
「ええ、恐らく、ヴィクラム本人が描いたものかと思います。もう処分してしまいましたけど、数少ない私物の中に、画材がありましたから……」
「え、天才的な脳外科医で、量子力学者なのに、こんな絵まで描けるんですか?」
――絵を見る限り、とても素人とは思えない。まるで、科学と芸術の分野を跨いだ、レオナルド・ダ・ヴィンチみたいな多才さだ。
「ただ、この絵には、”本来いてはいけない人”が登場しているんです……」
「え? いてはいけない人……?」
「ええ、満月の中に、ぼんやりと」