第132話:予言の歌
「その歌を聴かせてくれますか?」
そうわたしがお願いすると、シャルマさんは恥ずかしそうに言う。
「すみません、わたくし、とことん音痴でして……。15年前のことですし、メロディーに自信が全くないんです」
「ヴィクラムが詠っているとこ、録音とか、してないですよね?」
シャルマさんは首を振る。
「ただ、歌詞をお伝えすることは可能です」
そういって、シャルマさんは、パーリ語だという文字を紙に書き写した上で、音読をしてくれる。
「ターニャ、分かる?」
「ご、ごめんなさい。無理です」
いくら勉強熱心なターニャとはいえ、古代のパーリ語までは分からないらしい。
「ああ、すみません。ヒンドゥー語の翻訳を書き加えますね」
わたしたちの反応を見たシャルマさんは、隣にヒンディー語を併記してくれる。
「写真を撮ってくれたら、日本語訳するよ」
それでも分からないわたしに、サラが助け舟を出してくれる。
サラによれば、大まかには以下のような歌詞だった。
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末法の世が始まるとき、魂たちはその器を失う。
そして彼らは、変質する量子の海を漂い続けるだろう。
人が自らの境界を求めるとき、新たなる輪廻の環が回りだす。
その環を回すのは、全なる亡霊か、一なる女神か。
やがて人は選ばなければならない。
生み出された涅槃に留まるのか、この大地で再び生きるのか?
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「こ、これって、どういう意味なんでしょうか……?」
全く意味が分からなかったわたしは、率直に、シャルマさんに訊ねる。
「わたしにも詳しくは分かりません。ただ、これはヴィクラムなりの予言だと思っています」
――確かに、ジャイールによれば、ヴィクラムはこう言っていたという。
『15年後、末法の世が始まる。更なる15年の後、新たなる輪廻の環が動きだすだろう』
それを踏まえると、未来について予言していると考えるのが自然かもしれない。
だけど、それぞれの言葉が何を指すのかが分からない限り、手が打ちようがない。
考えても仕方がないので、わたしは、いよいよ本題に切り込むことにした。
「それで、ヴィクラムが、今どこにいるのかご存じですか?」
シャルマさんは、残念そうに首を振る。
「いいえ。この地での経典を読み尽くしてしまったのでしょう。2015年の末ごろ、『他の聖地の経典を読みに行く』と言って、この地から去って行かれました」
ターニャが訊く。
「せめて、どこに行ったのかの手がかりはありませんか?」
シャルマさんは残念そうに答える。
「あのときは、同じビハール州の”ナーランダ僧院遺跡”に行くとおっしゃっていましたが、そこも1~2年で去ってしまい、その後の足取りは分かりません。仏教の経典が保管されている聖地は、世界中にありますから。スリランカ、ミャンマー、タイ、中国、そして日本にも……」
わたしは、失望にうなだれる。
そこまで行く先の可能性が広がってしまったら、個人の力では探しようもない。
そんなわたしを見て、暫く思案していたターニャが、
「あ、そういえば……」と言って、わたしのポシェットを指差す。
「あのレコーダー、シャルマさんに聞かせたら、何かヒントをもらえるんじゃないでしょうか?」
確かに、わたしのポシェットには、ジャイールが託してくれたレコーダーが入っていた。
『彼に会ったら聞かせるといい』
そう言われて渡された以上、勝手に聴かせるのは憚られていたけど、そもそも会える見込みがなくなった今となっては、遠慮しても意味はないだろう。
わたしは、レコーダーを机の上に乗せて、再生ボタンを押すと、何の前置きもなく、ジャイールの歌声が響きだした。
レコーダーを通してなお圧倒的な魅力を放つ、その比類なき歌声に、シャルマさんとターニャが圧倒されているようだ。
――え、これって?
"Yadā sammāparinibbāna-loko pabhavati, tadā sattā attano bhājanaṁ na labhanti."
末法の世が始まるとき、魂たちはその器を失う。
"Te ca vipariṇataṁ quantum-samuddāya sattā bhavissanti."
そして彼らは、変質する量子の海を漂い続けるだろう。
"Yadā manussa attano simāṁ gavesanti, navako saṁsāracakkaṁ pavattati."
人が自らの境界を求めるとき、新たなる輪廻の環が回りだす。
"Taṁ cakkaṁ pavatteti, kiṁ sabbaṁ saṅgahita-bhūto vā eka-bhūtā devī vā?"
その環を回すのは、あらゆるものを全なる亡霊か、一の女神か。
"Anāgate, manussaṁ vāretabbaṁ hoti."
やがて人は選ばなければならない。
"Nibbānato jātāya tiṭṭhissati, udāhu imasmiṁ mahāpathaviyā puna jīvissati?"
生み出された涅槃に留まるのか、この大地で再び生きるのか?
それはまさに、さっきシャルマさんが音読してくれた、パーリ語の歌だった。
――ということは、ジャイールは、ヴィクラムの歌を再現して、このレコーダーに吹き込んだのだろうか……。
けれど、録音されていたその歌は、そこでは終わっていなかった。
二小節ぶん、明らかに、シャルマさんが音読した原文には無かった歌詞が詠み加えられていたのだ。
"Eka-bhūtā devī anāgatassa lokassa saha-bhāgīhi puna saṅgacchati."
一なる女神は、次なる世界で運命を共にする者たちと再び出逢う。
"Anāgate, yadā ekaṁ sabbaṁ hoti, sabbaṁ ekaṁ hoti, tadā tatiyo maggo vivarissati."
やがて、一が全に、全が一になったとき、第三の道が拓かれよう。
「最後の二小節は、恐らく、この歌い手がオリジナルで加えた部分なのでしょう」
シャルマさんが言う。
――正直歌詞の意味はほとんど分からなかったけど、一つだけ、思い当たる言葉があった。
『一が全に、全が一になったとき』。
三式島の合宿のときに、禅寺の僧侶の錬司さんが、確かにこう言っていた。
「全体の中に個があり、個の中に全体がある。そして、全体と個は互いにつながり、影響し合っている。一切即一とは、そういう意味の禅用語なんだ」