第130話:真名
「ヴィクラムさんが現れたのは、2014年の春のことでした」
シャルマさんが、当時のことを振り返る。
――ジャイールが、ヴィクラムに会ったのは確か2015年だったという。ということは、その1年前には、既にブッダガヤにいたということだろうか?
「当時、私は、ブッダガヤの仏教図書館の管理者をしていたのです」
「”仏教図書館”っていうものがあるんですね」
「ええ、そこではパーリ語、サンスクリット語、中国語、チベット語、日本語などで記された仏教経典を所蔵しているのです」
「パーリ語って……?」
「当時、ブッダが生きていたころ、インド北部で使われていた言葉の一つです。ブッダの教えの多くは、もともとこのパーリ語で記されているんです。今では、文献以外ではお目にかかることのない言語ですが……」
――ああ、そうか。
同じ場所であっても、2500年も経てば、言語も変わってしまうのが普通だろう。
「パーリ語を解するわたしは、当時、仏教図書館で、仏典の管理を任されていました。そんなある春の大雨の日、かなり焦った様子の奇妙な来客がいらっしゃったのです」
「それがヴィクラムさんだったんですね」
わたしが、赤い瞳のヴィクラムの写真を見せると、彼は頷く。
「はい、当時の外見は全く違いましたけどね。ずぶぬれでしたが、高そうなジャケットを着て、帽子の下の髪はまだ短かく切りそろえられていました。それに、目の色はインドで一般的な茶色でした」
「え?赤色じゃなくて?」
わたしの聞いていた外見と違いすぎる。
それって、本当に本人なんだろうか?
「はい。わたしが、彼の本来の瞳の色に気づいたのは、数カ月後のことです。初対面のときは、カラーコンタクトレンズをされていたのでしょう。ただ、肌の色は、まるで雪のように白い肌のことは、一目で気が付きました」
――そうか。
アルビノの赤い瞳は、このインド社会では相当目立つ。人目を避けるために、茶色のカラコンをしていたということかもしれない。
「そもそも、彼はどうして、この地を訪れてきたんでしょうか?」
「この地にある、あらゆる仏教経典を読ませてほしい――とのことでした。原典である、パーリ語の経典を含めて、です」
「それで、シャルマさんは何て……?」
「残念ながら、貴重なものもありますし、初見の方にすぐにはお見せすることはできないとお伝えしました。そもそも、パーリ語の経典はさすがに理解できないでしょう……とも
まあ、そうだろう。
日本のお寺だって、見知らぬ人がいきなり突撃して昔の貴重な文献を見せてくれといっても、断られるのがオチだ。
「それを聞いた彼は、湿ったバッグの中から、無造作に、一通の手紙を取り出しました」
――手紙?
「ええ。それは、仏教研究で著名な教授の推薦状でした。それだけではありません。インドで最も権威ある脳医学、そして量子力学分野の教授も連名でサインをされていたのです」
――脳医学、量子力学、そして仏教研究。
正直、全く関連性が分からない。
「その三名の著名教授の推薦状には、こう書かれていたのです。『彼は天才ゆえに、凡人には理解できない。だから、ただ彼の望むように、あらゆる仏教経典を見せてあげてほしい』と」
「ただ、ここまでしっかりした推薦状を出されたら、無下に断ることはできません。わたしは、寺院の上層部に相談した上で、規定通りに身分証を確認し、パーリ語経典のある部屋にご案内しました」
「身分証?」
わたしは思わず喰いつく。
「そこに、フルネームは書かれていましたか?」
シャルマさんは頷く。
「ええ。彼の真の名は、Vishnu Deshpande。本人は、あくまでもVikramと呼んでほしいと言っていましたけどね」