第128話:スパイスの魔力
結局、ヴィクラムについての何の手掛かりもつかめないまま、初日の夜は更けていった。
昼はあんなに巡礼者でにぎわっていた村も、夕刻を過ぎることから閑散とし始める。
それでも万が一を考え、夜の村を歩いてみたけど、やはり成果は全くなかった。
わたし達や一旦宿に戻り、作戦を考え直すことにした。
「できましたよ~」
宿のオーナーを口説いて、厨房と材料を使わせてもらったターニャが、お手製のカレーを持ってくる。
机に並べられたカレーを、ひとくち口に含んだ瞬間、わたしは思わず声を上げそうになった。
いくつもの香辛料が舌の上で踊り、やがてそれが混然一体となって、疲れた脳を刺激する。
「これ、めちゃめちゃ美味しい! どうやって作ったの?」
「クミン、コリアンダー、ターメリック、ガラムマサラ、それにカルダモンを混ぜているの」
そういって、色とりどりのスパイスが入った小瓶を取り出して見せてくれる。
それはまるで宝石のように輝いて見えた。
「これ、お母さんから預かってきたの。スパイスが、きっとリンさんを癒してくれるからって」
「このレシピって、お母さんが考えたの?」
「ううん、お父さんが遺してくれたレシピよ」
「……あ。ターニャのお父さんって……」
”死を待つ人々の家”での、修道院長のセリフを思い出す。
『お父さんのことは不幸だったけど、これも神様の思し召しね』
ターニャは、悲し気な目を浮かべる。
「ええ、十年以上前に亡くなったの。お父さんの妹が、”ダウリー”のトラブルに巻き込まれてね」
――”ダウリー”って?
サラに訊ねると、こんな答えが返ってきた。
「結婚するとき、新婦側の家族が新郎の家族に、お金や車を渡すという風習のことだよ。その額が少なすぎたりすると、トラブルになるんだ」
「え、新婦の側が、新郎側に?なんで?」
「もともと、インドの古代社会では、女性が財産を相続する権利が限定されていたんだ。だから、親が娘に結婚の際に財産を持たせることで、娘の経済的安定を守ろうとしたのが始まりと言われている……。けど、それが時を経て、いつのまにかそのお金目当ての結婚も増えてきてしまった」
「そ、そんなのって、不公平すぎない? 昔ならともかく、いまの社会で」
わたしは思わず声を荒げる。
「既に1961年には、ダウリーは法律で禁止されているよ。だけど、人の考え方や風習っていうのは、すぐには変わらない。いまだにインドでは、こうしたトラブルが絶えないんだ」
ターニャが重い口を開く。
「わたしのお父さんは、現代的な考え方を持った、正義感の強い人だったの。キリスト教徒の母と結婚したときも、親族から大分反対があったらしいけど、それでも自分たちの気持ちを押し通したって聞いてるわ」
ターニャの肩が小刻みに震え出す。
「……だけど、あの日はそれが裏目に出てしまった。ダウリー不足を理由に妹を虐待していた義理の夫の家族と諍いになって、頭を強く殴られたの。その夜はどうにか家まで帰ってこれたんだけど、その頭の傷が原因で、翌朝、目覚めなかった」
わたしは、あまりの理不尽さに怒りに震えた。
こうなるとAIであるはずのサラの方が、人間よりもよっぽど常識的にさえ思えてしまう。
わたしは、両手でターニャの手を握りしめる。
「こんなのって……、こんなのって」
まだ幼かったターニャの気持ちを思うと、涙が止まらなかった。
ターニャは優しくわたしの手を握り返した。
「もちろん悲しかったわ。胸が切り裂けそうなのほど。でも、わたしには歌があった。どんな理不尽なことがあろうと、タゴールの歌が、わたしに立ち向かう勇気をくれたの」
『Go Alone』
わたしは、ターニャの口から紡がれた、情感に溢れたあの曲を思い出す。
サラが、その歌詞を教えてくれる。
『もし誰もあなたの呼びかけに答えないなら、恐れることなく、独りで往け』
――ああ。
わたしは、ようやくその歌詞の意味を理解できた気がした。
『Go Alone』はまず、人との繋がりを謳っている。
ただ、それでも分かり合えない時、独りででも自らの道を往く大切さを語りかけているんだ。
わたしは、ターニャのカレーを再び口に含んだ。
少し冷めてしまったそれは、微かに涙のスパイスの味がした。