第125話:死を待つ人々の家
二時間後、わたしとターニャは、マザーテレサが建てた”死を待つ人々の家”へと向かっていた。
「マザーテレサって、どこの国の出身なの?」
「かつてはユーゴスラビア、今は、北マケドニアって国になっていたかと思うわ。修道女から聞いた話だから、わたしも詳しくは分からないけど」
――北マケドニア……?
全くイメージの湧かないわたしは、サラに言う。
「北マケドニアについて教えて」
「オッケー」
サラはそう答えると、北マケドニアの写真と解説が、瞬く間にスマホの画面に出てくる。
ターニャ―のお陰で、街のショップでSIMカードを入手できたわたしは、ようやくサラにコンタクトを取れるようになっていた。
ただ、正直内心、悔しい思いもある。
もともと、自力で旅を進めようと決意したばかりなのに、初日で騙され、結局、ターニャやサラに世話になっている。
タゴールの”Go Alone"という歌を聴き、感動したばっかりにもかかわらず……だ。
だけど、旅の目的である、ヴィクラムを探し当てられなければ、何にもならない。世界に残された時間が刻一刻と少なくなっていく中で、自分探しにかまけすぎてもいられない。
そんな葛藤を口にすると、ターニャは慌てて首を振る。
「人生には、助けを求めた方がよいときもあるわ。もし生きていたら、マザーテレサも、きっとそういうに違いない」
――見えてきたわ、と言ってターニャは前方を指差す。
白くてシンプルな外観の建物にかかった小さな看板に、"Nirmal Hriday"と書かれている。建物の前には、小さな庭があり、色とりどりの花が咲いていた。
中に入ると、何人もの白衣に身を包んだ修道女とすれ違う。
ターニャが挨拶をすると、皆笑顔で返してくれる。
わたしのような、得体のしれない外国人を連れていても何も言われないのは、ターニャがこの場所で信頼されている何よりの証だろう。
「みんなと仲がいいのね」
そういうと、ターニャは照れたように言う。
「もう10年もボランティアをしているから、家族みたいなものね」
室内に入ると、思いのほか静かだった。
「死を待つ人々の家」という語感の強さから、もっと絶望的な空気を覚悟していた。
だが、その部屋の高い天井からはシーリングファンが回り、心地よい風を送っている。広間には長い通路があり、その両側に整然と並べられたベッドが目に入る。
並べられたシンプルなベッドには、病気や老齢で動けない、死を待つ人々が横たわっている。意外にも彼らの表情は穏やかで、起きていても目を閉じて静かに呼吸している。
修道女たちがかける言葉に、彼らは時折答えたり、答えなかったりする。その両眼は、もはやこの世ではないどこかを見ているようだった。
それは、水面に儚く散った桜の花のように、寂寥の念を持ってわたしの心の奥に刺さってくる。
ターニャは、わたしの方を振り返る。
「今から、修道院長様をご紹介するわね」
ターニャはそう言って、奥の部屋へと進んでいった。
ドアをノックし、「マザー、ターニャです」と言うと、「空いてるわよ」との返答がある。
ドアを開けると、小さな部屋の中央に置かれた机に、もう80歳近いであろう老修道女が座っていた。ターニャに笑顔で挨拶をすると、後ろに立つ私を見て、「おや、そちらのお客さんは?」と尋ねてくる。
ターニャが事の経緯を説明すると、マザーは本当に嬉しそうだった。
「あなたは頭もいいし、何より真心がある。この国のために、あなたみたいな人こそ、大学に行くべきよ。お父さんのことは不幸だったけど、これも神様の思し召しね」
そう言って首に架けている十字架を握りしめる。
しばらく、ターニャと話した後、不意にわたしに話しかけてきた。
「ターニャにチャンスを与えてくれて有難う。この子は、絶対にこの機会を無駄にはしないわ」
「はい、そう信じています」
そう答えたわたしを見る目が、一瞬だけ険しくなる。
「あなたは……なにか、とても重い使命をもっているようね。自分ひとりでは、到底抱えきれないような……」
――どうして分かるんだろう。
わたしは心の奥底まで見透かされたような気がした。
「話してごらんなさい」
そう優しく言われて、わたしの中で、我慢していた何かが決壊した。
わたしは、堰を切ったように話し始めた。
三式島でのこと、地球を襲う危機のこと、アフリカや中東でのこと、そしてヴィクラムを探しにインドに来たこと。
そして、未曽有の危機にもかかわらず、わたし自身の無力さに苛まれ続けていること。
初対面にもかかわらず、マザーはわたしの話に、無言で、でも真摯に耳と傾け続けてくれた。
そして、全て聞き終わると、彼女は席を立ち、わたしの傍まで歩み寄ってくる。
「あなたは、世界に”関心を持つこと”を選んだのね。それは、あらゆることの第一歩であり、手放しで褒められるべきことよ」
そう言って、わたしの手をぎゅっと握る。
「愛の反対は、憎しみでなく無関心なのだから」