第122話:独りで往け
わたしは、廃墟の前でしばし呆然としていた。
中を覗いてみるが、宿どころか、人の気配さえ全くない。
スマホも使えないので、自分が今どこにいるかさえ分からない。
わたしは今さらながら、友人やスマホに依存しきっていた自分を再認識する。
ただ、どうやらこのコルカタという都市は、ショックに浸る時間さえ与えてくれないようだ。
次々と、別の男たちが声をかけてくる。
「お嬢ちゃん、どこか行きたいのか?安くしておくよ」
リキシャという、人力車を漕ぐおじさんが声をかけてくる。
ただ、さっきのタクシーに懲りたわたしは、そんな声には耳を傾けない。
安かろうとなんだろうと、そもそも目的地にたどり着けなければ意味がない。
――まずは、信頼のおけそうな人がいる場所にいこう。
そう決めて、バックパックを背負って歩き出す。
わたしは人の流れを読み、町の中心らしき方向に向かって歩いていく。
30分ほど歩いただろうか。中心街のバザールらしき場所に到着した。
そこは、まるで情報の洪水だった。
人。人。人。人。人。犬、犬、猫、そしてときどき牛。
雑多な建物の間をクラクションや人の声が鳴り響き、刺激的なスパイスの香りが風に乗って漂ってくる。
――そういえば、昨晩の機内食以来、何も食べていなかった。
わたしはゴクリと唾を飲み込む。
辺りを見渡すと、カレー屋さんらしき屋台が目に入る。
体格もきっぷのよさそうな、サリーをまとった女性が、次々と緑のお皿に魚とカレーのようなものを盛り付けている。
この店のおかみさんなんだろう。
彼女の足元には、6歳くらいの女の子がぴったりとくっついている。
近寄って「How much?」と訊ねると、50ルピーだという。
だいたい100円くらいだ。
わたしがうなずくいて椅子に座ると、1枚の葉っぱをテーブルの上に置いてくれた。
お皿と思っていたものは、どうやらバナナの葉っぱだったらしい。
そこに、盛り付けてくれた赤い魚とカレーは、少量だがいかにも辛そうだ。
「Spicy?」
と聞くと、彼女は、グッと親指を立てる。
なにがGoodなのか分からなかったが、とりあえずわたしは口に含む。
一瞬、辛いと思ったが、次の瞬間、複雑な芳香が鼻腔を突き抜けた。
「辛い」という一言では表現できない、奥深い味わいだ。
わたしもおかみさんに向かって親指を立てる。
すると今度は、バナナの葉いっぱいにカレーをよそってくれる。
どうやら、さっきはわたしが食べられるかの様子見だったらしい。
すきっ腹を満たすように、カレーを掻きこむと、スパイスが喉を直撃し、わたしは激しくせき込んだ。
そんなわたしに、少女が、土製のおちょこのような器に入った飲み物を手渡してくれる。
「What's this?」
と聞くと、小さな声で「チャイ」という。
たしか、ガイドブックには、”紅茶とミルクとスパイスを混ぜた飲み物”として紹介されていた気がする。
チャイを喉に流し込むと、特徴のある甘味が口の中に広がっていく。
わたしは一通り食欲を満たすと、おかみさんに尋ねた。
「この宿を知っていますか?」
おかみさんは、ガイドブックに書かれた目を細めて住所を見て、それが英語と分かると、奥に向かって叫んだ。
「ターニャ!」
どうやら、屋台の奥がおかみさんの家らしく、奥の方から高校生の女子が駆けだしてきた。
「My daughter, smart」
おかみさんが彼女に何かを言うと、ターニャと呼ばれた娘は、英語で「そのガイドブックを見せて」と言う。アクセントは強いけど、流暢な英語だ。
いかにも利発そうな彼女は、ガイドブックをパラパラとめくり、地図のページを見つけると、それは指差しながら言う。
「今いるところは、この街ね。宿のある町はここだから、タクシーだと二時間くらいかしらね」
「に、二時間?」
飛行場からここまで一時間だったはずだ。ということはつまり、全くの反対方向に連れて来られたということになる。
わたしが事情を説明すると、彼女は小さくため息をついた。
「騙されたのね。たぶん、その運転手はこっち方面にもともと用事があったのよ。そもそも空港からここまで、500ルピーなんてかからないし……」
まさか宿が違うだけでなく、街そのものが違うとは思わなかった。
「残念ながらインドにはそういう人がたくさんいるわ。同じインド人として恥ずかしいんだけど……」
そういって彼女は唇を噛む。ぱっちりとしたその瞳には怒りが宿っている。
――彼女は信頼できる。
直観的にそう感じたわたしは、今回の旅の目的を伝えた。
かつて、インドの詩人・タゴールに憧れたジャイールが、ヴィクラムを探しにインドに来たこと。そして、今度はそのヴィクラムを探しに、わたしがブッダガヤまで行くつもりであること……。
話を聞きながら、彼女は何度も深く頷いた。
その大きな目には、憧れとも、諦めともつかない不思議な色が浮かんでいる。
――もしかして、日本人と比べて、インドを喜怒哀楽を表情に出やすい文化なのかもしれない。
ホテルのバイトをしていたわたしは、ふとそう思った。
わたしももともとそうだったんだけど、ある時どうしても許せないお客がいて、殴りかからんばかりの表情をしていたら、上司から注意を受けたことがことが合う。
「プロなら、思っていても表情に出すな」……と。
やがて話を聞き終えると、家の奥から、チラシの裏紙とペンを持ってきて、いくつかのルートを書いてくれた。
「もしお金を節約したいなら、夜行バスが一番いいわ。10時間から12時間かかるけど。時間を短縮したいなら、電車ね。6~8時間で着くわ。今なら夜行便に間に合うはずよ」
わたしは迷った挙句、バスを選ぶことにした。
お金をこれ以上無駄にするわけにはいかないからだ。
それに夜行バスなら、宿代も節約できる。
わたしがその旨を伝えると、ターニャは、周りで食事をしているみんなに、現地の言葉で何かを話しかけた。
すると、周りの人が、食事の手を止め、わらわらと集まってくる。
――何が始まるのだろう。
そう思ってみていると、ターニャが大きく息を吸い、「 एकला चलो रे」と言った。
ターニャは、わたしに向かって解説してくれる。
「 एकला चलो रे」は、英語では”Go Alone”と訳されているわ」
彼女が大きく息を吸うと、始めの一小節を歌い出した。
यदि तुझे अपना मार्ग दिखाई दे, तो अकेला चलो रे।
まるで吹き抜ける一陣の風のような、爽やかで心に染みる歌声だった。
すると、その後、周りの人達も彼女の旋律に乗せて、大合唱が始まった。
यदि तुझे अपना मार्ग दिखाई दे, तो अकेला चलो रे।
हम लोग तुझे कहें, तुम अकेला चलो।
हम लोग तुझे कहें, तुम अकेला चलो।
अकेला चलो रे। अकेला चलो।
अकेला चलो रे।
まるでカレー屋さんが、瞬時に野外コンサートホールに変わったかのような迫力だった。
「すごい。誰もがこの歌を歌えるんですね」
そう、おかみさんに言うと、彼女はにっこりと微笑む。
「ああ、この曲は、タゴールの曲の中でも最も有名なうちの一つだからね。たとえ独りきりであっても、自分の信じる道を進めるように、いつでも私達を励ましてくれているのさ」
わたしは、心細さと戦いながら、何度も自分自身に言い聞かせた。
「Go Alone」と。