第121話:東インド・コルカタの夜明け
2029年12月9日 インド・コルカタ
飛行機の窓から差し込んだ朝日で、目が覚めた。
時計を見ると、朝6時半を少し回っている。
雲海の上に煌めく日の出に、思わず目を細める。
眼下にはまだ雲しか見えないけど、その下には、インド大陸が広がっているのだろうか。
――不思議だ。
夜はあんなに不安だったのに、朝日を見ただけで、何か希望に満ちた気分になる。
思えば、鎌倉の修行で1週間の野宿をしたときも同じだった気がする。
おじいちゃんは言っていた。
「夜が怖いのは、かつてご先祖様が、闇夜に乗じて、猛獣に襲われる可能性があったからだ」と。
その意味で、朝日を見て安心するのは、ほとんど人間の習性なんだろう。
そして、おじいちゃんはこうも言っていた。
「だから、安心に寝られる場所を見つけたら、できる限り寝ておくといい。睡魔は、咄嗟の判断を狂わせるからな」
わたしは再び目を閉じる。
新たな地に独りで降り立つのだから、ここで睡眠時間を稼いでいくべきだろう。
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飛行機がコルカタに到着したのは、結局予定より2時間遅れた11時ごろだった。
「ネタージー・スバース・チャンドラ・ボース空港」という、もはや覚える気さえ失せるよう長い名前の空港につくと、まずは両替商を探す。
ガイドブックには、「空港の両替商のレートはさほど良くはないが、街の両替商と比べて信頼感はあるので、一定額は両替しておくべき」といったことが書かれていた。
1インドルピーは2円弱だから、わたしは日本円を半分にして計算をすればよいことなる。
わたしは、バイトで貯めた渋沢栄一の1万円札を渡すと、係員は丁寧にチェックをし、やがてお札とコインを渡してくれる。
どうやらインドのお札は全て、マハトマ・ガンジーらしい。
お金を見ていると、なんとなく周りの人の視線が気になって、慌ててポシェットにしまい込み、歩き出す。
世界最大の人口を誇る国だけあって、とにかく人が多い。その分、視線の数も多い。
空港のベンチを見つけると、バックパックを足元に置いて、ガイドブックを開き、丸を付けた今晩の宿の位置を確認する。
すると、そこに群がるように、5人ほどのタクシーの運転手が集まってきた。
「どこに行くんだ?安く連れて行ってやるぜ」
「いや、俺の方が安い」
「俺のタクシーは冷房が付いてる」
「お前の車はオンボロじゃねえか」
「何だと?お前のなんて、エンジンさえついてないリキシャだろう」
……などと、わたしをそっちのけで喧嘩みたいな奪い合いを始める。
わたしは半ば圧倒されながらも、ガイドブックを指しながら、何とか英語で伝えようとする。
「わたしは、地下鉄でこの宿までいきたいの。だから地下鉄の場所を教えて」
すると、運転手たちが、現地の言葉でしきりに何かを言い合っている。
話し合いが一段落すと、比較的身なりのいい男が口を開く。
「地下鉄は、一昨日テロがあって、一時的に封鎖されている。タクシーで行った方が安全だ」
――え、ほんと?
わたしは思わず、周りの運転手に訊ねると、彼らも口々に「Yes!」と言っている。
わたしはスマホを取り出して、サラに確認しようとする。
……が、全く反応しない。
見れば、電波が0本になっている。
――そ、そう言えば、現地のSIMカードを買わないと、スマホが使えないってガイドブックに書いてあった。
今までの旅行は、星が一緒にいてくれたから、そういうのも全て手配してくれていた。
でも、これからは、それも自分でやらなければいけないのだ。
きょろきょろとSIMカードショップを探すわたしの様子を見て、タクシーの運転手の一人が言う。
「空港のSIMカードは高い。街中なら半額だよ。宿のついでにタダで案内してやるよ」
そう言うと、彼はわたしのバックパックを勝手に掴んで持って行ってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ。タクシー代、いくらなの?」
「そうだな、そこまでなら、1時間くらいだから1000ルピーだな」
1000ルピー……。1ルピー2円だとすると、2000円くらいだ。
相場が良く分からないけど、インドではぼったくりも多いと聞く。
「高すぎるわ。それじゃ乗れない」
とわたしは突っぱねる。
「仕方ねえな……。じゃあ、特別だ。800ルピーでいい」
あっさりと安くするところを見ると、まだ値切れる気がする。
「まだ高いわ」「なら……」みたいなやりとりを、5回ほど繰り返し、結局500ルピーとなった。
これなら、日本円で1000円ほどだ。1時間タクシーに乗る金額としては、高くないようにも思える。
わたしが頷くと、男はどこかに電話をすると、やがて「ついてこい」という。
15分ほど歩くと、そこには、優に30年は稼働しているであろう中古車が待機していた。
案内していた男は、その車の運転手に話しかける。
やがて男は、運転手に500ルピーを払うように言う。
「え、あなたが運転手じゃないの?」
「いや、俺は案内係さ。運転手に場所は伝えてあるから問題ない」
そうして、彼は手を出す。
「ほら、案内料」
「え、そんなの必要なの?」
「当たり前だろ。チップってやつだよ」
――たしか、アメリカに行ったとき、チップは10%くらいだった。
わたしは渋々と50ルピー札を手渡す。
男はちょっと残念したような表情をしたが、やがて考え直し、運転手への500ルピーとともに受け取った。
男が運転手に、その500ルピーを運転手に渡すと、運転手はお札を太陽に透かしたり、指ではじいたりしていたが、やがてそれをサイフに入れる。
すると、運転手も男にいくばくかのお金を手渡した。
どうやら、わたしと、運転手の双方から手数料をもらっているらしい。
わたしが文句を言おうとすると、男は笑顔で ”Have a nice trip!"といって、バックを車の後部座席に押し込んだ。その満面の笑みに、わたしは毒気を抜かれ、口をつぐむ。
クッションがつぶれた車の座席で、ガタンゴトンと揺れながら、わたしはコルカタの景色を目にする。
流れる異国の景色を見ながら、はじめての一人旅行という高揚感が次第にわたしを満たしていく。
そして1時間後。
わたしの高揚感は、危機感に変わっていた。
車が止ったしたのは、ガイドブックに書かれている宿とは、似ても似つかぬ、単なる廃墟だったからだ。窓は全て割れ、野生の木が、窓から飛び出すように生えてきている。
わたしはガイドブックを指差しながら、運転手に抗議する。
運転手はめんどくさそうに言う。
「あの男から聞いたのは、この場所だ。文句があるなら、あいつに電話で言え」
そう言い放つと、わたしのバックパックを外に放り投げると、そのまま走り去っていってしまう。
電話しようにも、スマホさえ使えないのだ。
わたしは、言い知れぬ不安にかられはじめる。
――この旅、本当に大丈夫だろうか……。