第108話:砂粒と蟻地獄
劇場の最前列で、ジャイールの歌を聴き続けているうちに不思議な感覚に囚われ始めていた。
アラビア語は全く理解できないのにもかかわらず、彼の発する言葉に精神が感応し、彼自身と一体になっていくような感覚だ。
「ジャイールは今、脳波のようなもので、楽団全体を統率しているのだと思います」
そう、アディーラさんは言う。
――確かに、この感覚には、覚えがある。
そう、おじいちゃん達との「火龍の舞」の本番でのことだ。
”自分ではない何か大きな力が、わたしに降りてきているような感覚”を、確かに体感していた
その要因を、十萌さんはこう分析していた。
『一つは、おじいちゃんが取り入れた波を、みんなへと分け与えたパターン。そして、もう一つが、悠馬君と美紀ちゃんが、脳波の増幅器としての役割を果たした可能性よ』
アディーラさんの言う通りなら、ジャミールは、自らの意思を乗せた脳波を、もう一人の歌い手によって増幅することで、楽団全体に伝播させている可能性がある。
――もしかして、ジャイールは、おじいちゃんだけが至っていた境地に、たどり着いているのかもしれない。
火龍役を演じたおじいちゃんを除けば、あの時のわたしたちが動かせたのは、あくまでも”脳を持たない”アバターだけだった。”脳を持つ個体”に対して、脳波を伝播し、その精神に干渉することは、誰一人実現できていない。
そしておじいちゃんは、の世を去ってしまった今、その方法は永遠に失われたかに見えた。
けれど、彼なら、そのヒントを持っているかもしれない。
わたしは、アディーラさんに思い切って聞いてみる。
「この後、ジャイールさんに、個別に話を聞かせてもらえませんか?」
アディーラさんが少し困った顔をする。
「……やっぱり、大スターだから難しいですかね……?」
──あの実力と容貌だ。
彼に会いたいというファンは、それこそ砂漠の砂の数ほどいるだろう。
「ファリード王子が頼めば、インタビュー自体は可能かとは思います。ただ……」
アディーラさんはそう言って神妙な顔をする。
「今まで彼に密着取材を試みた外国のジャーナリストが、精神に異常をきたしているのです。それも二人立て続けに」
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結局、ジャミールのインタビューが実現したのは、夜の10時を過ぎていた。
もともと、夜の礼拝の時間を挟んでも、リハーサルは9時までには終わる予定だった。
だが、突如二人の踊り手に対し、ジャイールが激高し、リハーサルが中断してしまったからだ。
アディーラさん曰く、その二人からは『敵と戦う意思が感じられない』ということに烈火のごとく怒っていたらしい。
「平和が訪れた今となっては、エンタメ性を重視し、リアリティーにこだわらない歌手もいます。でも、ジャイールは、”戦に勝つための剣舞”という伝統を守り続けているのでしょう」
だからなのか、ジャイールは極めて不愛想だった。
「هناك سؤال واحد فقط. لن أجيب عن أي أسئلة أخرى.」
そう言うと、わたしには目を合わせずに劇場の舞台の上に準備された椅子に座る。
堀田さんが横で通訳する。
「質問は一つだけだ。それ以上は答えるつもりはない」
ファリード王子からの頼みでなければ、決して会おうとはしてくれなかっただろう。
実際、彼にとっては、わたしなんてまさに、砂漠の砂粒くらいの存在価値のはずだ。
思えば、わたしが単独で、こんな敵地ので、大物と相対するのは、初めてかもしれない。
首相官邸やアフリカ連合会議に呼ばれたときも、もちろん緊張はしたけど、あくまでも主役は、創さんや星、そしてカイだった。わたしは、ただ、付き添いで呼ばれたにすぎない。
でも、今はわたし一人なんだ。
――小細工なしで、正面からぶつかるしかない。
覚悟を決めたわたしは、映写室で待機していたアディーラさんに向かって手を挙げる。
太鼓や笛の音がスピーカーを通して夜の劇場に響く。同時に、舞台中央の大画面に、火龍の舞の映像が映し出される。
あの時、わたしとおじいちゃんが切り結んでいるあのシーンだ。
背後には、金色と紫色の脳波の波が、立体的に映し出されている。
ジャミールの視線が上がる。
その吸い込まれそうな瞳が、わたしのことを見据え、何かを呟いた。
身体がぞわっとする。
彼の脳波が、わたしを浸食していく感触がある。
――これは……。
おじいちゃんの脳波が身体に入ってきたときとは決定的に何かが違った。
あのときの心地良い高揚感とは全く違う。
まるで、砂漠の巨大な蟻地獄になす術もなく吸い込まれていくような……。
―まずい! このままだと、完全に彼の脳波に呑まれてしまう。
そんな危機感を覚えたわたしは、精神を集中し、フローを超えてゾーンへと入る。
そして、浸食してくるジャミールの脳波を跳ね返す。
ジャイールが、少しだけ驚いたように目を見開いた。
やがて、わずかだが口の端を上げ、アラビア語で言葉を発する。
「……正直、僕にも意味が良く分からない。直訳するね」
そう堀田さんが前置きした上で、こう訳してくれた。
「あなたも、こっちの世界に踏み入れたことがあるんだね。まだまだ、自分の羽では跳べない、雛鳥のようだけど」
――確かに、どういうことか全く分からない。
けど、ここで一歩踏み込まない限り、到底信頼など勝ちえない。
再びアディーラさんに手を振り、合図する。
舞台の画面が、火龍を演じるおじいちゃんにフォーカスされる。
わたしは、ジャイールの両眼をまっすぐに見つめ返す。
「あなたには、この火龍役の男性と、同じレベルでの脳波操作が可能ですか?」