第104話:隣人の境界
ファリード王子の邸宅から、車でひた走ること約1時間半。
舗装された道を抜け、乾いた砂の海に迷い込んだかのような未舗装の道を進むと、不意に世界が切り立つ場所へとたどり着いた。
「ここが、”エッジ・オブ・ザ・ワールド”です」
ファリード王子が言う。
目の前に広がるのは、遥か彼方まで続く大地の波紋だった。
わたしたちが立つ断崖絶壁の先に、"無"とも"無限"とも思える空間が広がっている。
わたしは、その風景に圧倒されていた。
ここに来るまでは、”砂漠”と聞くと、まさに砂が茫漠と広がっている様子しか思い浮かばなかった。
けど、ここは違う。
無数の巨大な岩肌が屹立し、青空を染めゆく夕日が、昏い影を落とす。
まるで、これ以上の人の侵入を拒絶するかのようだ。
「まさに、不毛の大地だったのです。このサウジアラビアの地は」
そう、ファリード王子が言う。
「かつては、少ない水源を奪い合い、水が果てるたびに、新たなオアシスを求めて遊牧の旅に出る。その繰り返しだったのです」
創さんが口を開く。
「ファリード王子は、前回の訪日時、日本の屋久杉を見にいかれたんですよね。いかがでしたか?」
ファリード王子は
「ええ。あの『もののけ姫』のイメージの源泉となった場所と聞いて、いつかは行ってみたいと思っていたんです。アディーラや鷹たちを連れて」
同調するかのように、”キィー”と籠の中の鷹が鳴いた。
アディーラさんが籠からワミードを解放する。
暫くはアディーラさんの腕に泊まっていたが、やがて合図とともに、夕闇に染まる世界の果てを縦横無尽に飛び回っていく。
「まあ、あの時は、お忍びのはずが、かえって目立ってしまいましたが……」
と王子は苦笑しながら言う。
10人ものお付きの人に加え、鷹を連れて歩けば、さすがに目立たない方が無理だろう。
――そういえば、男性側の主人公は、アシタカという名前だったなと、とりとめもないこと思う。
「樹齢が5000年を超えると言われる”縄文杉”を目にした時、思わず思ってしまいました。なぜ、自然というのは、こんなにも違っているのだろう―――と」
片や不毛の大地、片や5000年以上の樹木が育つ豊穣な土壌だ。
そう思うのも無理はない。
ファリード王子は言う。
「一方で、日本は地震や台風の災害が絶えません。そして、神はこの地に、石油という名の贈り物を与えてくださっています」
そう言って、王子は創さんの方を向き合う。
「率直にお伺いしましょう。七海教授は、この石油を、誰のために、どのように使うべきだとお考えですか?」
堀田さんと梨沙さんが耳をそばだてる気配がした。
サウジアラビアの石油政策は、文字通り世界の経済に影響を与えるからだろう。
わたしは、夕日が照らす創さんの横顔を見た。
創さんは、ちょっと、困った顔をしている。
「日本国政府としては、ぜひ……」
思わずそう言いかけた梨沙さんを、創さんが手で制する。
たっぷり思考に時間をかけた挙句、創さんの発言は、答えになっていないものだった。
「……うーん。その質問は、すごく難しいなぁ。それはおそらく、”神のみぞ知る”ことかもしれませんね」
ファリード王子は、少し意外そうな表情を浮かべた。
「正直、日本への石油の供給量拡大を提言されるかと思っていたのですが……」
日本政府の立場から見れば、それが最も望ましい答えだろう。梨沙さんが言いかけたのも、それだったはずだ。
「それは、政治の領域です」
創さんはそう言い切った。
「わたしは、今、一人の地質学者として王子の前に立っているつもりです。人類共通の地質学的危機に立ち向かう、同士の一人ひとりとして」
――ああ。やっぱり創さんは創さんだ。
わたしは、どこかほっとしている自分に気づく。
正直、船上会議やアフリカ連合会議で、各国の首脳陣を前にし、臆することなく対応する創さんを見て、どこか遠い存在に思えてきていた。
でも、一人ひとりと向き合う姿勢は今なお変わらない。
「ただ、一つだけ、心に思い浮かんだ言葉をお伝えします」
創さんはそう言って、わたしが理解ができない言葉を詠唱した。
لَيْسَ الْمُؤْمِنُ الَّذِي يَشْبَعُ وَجَارُهُ جَائِعٌ إِلَى جَنْبِهِ
――アラビア語だろうか。
ファリード王子がはっとしたような表情に変わった。
同時に、堀田さんも驚いたように口を押える。
「今、何て言ったの?」
わたしは、堀田さんに訊ねる。
「コーランの一説だよ。『隣人が飢えている間に、自分だけで満腹でいる者は信仰者ではない』という意味のね」
「七海教授。あなたにとっては、文字通り、人類みな隣人なのでしょうね」
そう言って、ファリード王子は、ため息をついた。
「正直、わたしにはそこまで達観できません……」
今まで自信に満ち溢れて見えた王子が、初めて、弱気な表情を見せた瞬間だった。
どんなに理知的で、強い権力を持っていたとしても、彼もまた28歳の青年なのだ。
王族として、国を背負うことの重圧はどれほどのものだろう。
「隣人の定義は、その時々で変わってもよいかと思います。過去長らく、あなたの国は、中東の盟主としての役割を果たし続けてきました。今後、更に隣人が増えていくことを願っています」
話についていけないわたしを見た堀田さんが、解説してくれる。
「サウジアラビアの国土の大半は、凍土化を免れる”赤道2000km圏内”に入っているものの、サウジ以北の国々はその範囲外になる。つまりそれらの国から、避難民が押し寄せる可能性があるということさ」
「サウジ以北の国ってどこなんですか?」
「イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、パレスチナ、イスラエル、トルコ、イランの8カ国かな。”中東”の定義次第でもあるけどね」
――今でさえ、紛争なんかのニュースが絶えない地域だ。
さまざまな立場の違いもあるだろう。
そうした中で、「”隣人”を少しでも増やしてほしい」と創さんは訴えている。
これは、とてもとても重いメッセージだ。
ふと空を見上げると、空に夕日が溶けようとしていた。
この世界の果てに見える砂漠の先にもまた、別の世界が存在しているのだ。
――自分は、どこまで、世界を”隣人”として捉えられるのだろうか。
それはもしかして、白と黒ではなく、グラデーションのようなものなのかもしれない。
まさにこの、昼と夜の狭間の夕空のように。