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桜人

作者: 越前


「――お出口は右側です。お足元にお気をつけてお降りください」

 到着を知らせるアナウンスが車内に響き、ふいに目を覚ました。ほんのり暖かい春の陽気と、列車の刻む心地よいリズムにあてられて、いつの間にかうとうとしていたらしい。寝ぼけまなこで車内ディスプレイの駅名表示を見る。目的の駅はまだあと二駅先であることを確認すると、瞼はずっしりと再びその重みを増した。

 やがてドアは閉ざされ、列車は次の駅へと滑り出す。視線を窓の外へやると、うっすらと漂う霞の向こうに、早咲きの桜で薄桃に染められた山裾が透けて見えた。世間では何かと温暖化の問題が叫ばれて久しいが、今年の冬は例年に輪をかけて暖かかったらしく、まだ三月初頭であるにもかかわらず、列島では桜の開花を伝えるニュースがしきりに飛び交っていた。

 ゆっくりと春へ流れゆく景色をぼんやりと眺める。

 祖母が亡くなって、今日で半年ほどになる。


 母方の祖母が亡くなった。ちょうど一年ほど前から体調の悪化で入院しており、もうずいぶんな年だったこともあって、いよいよかもしれないと覚悟はしていた。

 祖母の死後、住み手のなくなった祖母の家は、親族との協議の結果、比較的近くに住んでいて管理のしやすい私たちの家が請け負うことになった。母にしてみれば幼いころから暮らした思い出の家なので、何とか手元に残せないかといろいろ思案を巡らせた。しかし、あったところで住む人もおらず、維持・管理にかかる費用もばかにならないということで、泣く泣く手放すことに決めた。その後買い手がついて、五月ごろには売り払ってしまうというので、その前に最後に一度、見に来ておくことにした。


 祖母の家は最寄り駅から歩いて十分程度のところにある。改札を出て少し左手に進むと、見事なソメイヨシノの並木道がある。まだ花は咲いていないが、毎年春になると、満開の花びらで彩られたアーチで出迎えてくれる。それをくぐって歩くのが私は好きだった。

 桜並木を通り抜け左に折れると、右手にある建物と建物の僅かな合間に、息を潜めるようにひっそりと、路地裏への入り口が佇んでいる。この「秘密の抜け道」は、建物を挟んだ反対側の国道へ抜ける近道になっている。小さい頃はここを通るたび、幼い冒険心がむくむくと湧きたつのを感じた。一歩足を踏み入れると、幼いころの自身の幻影が、はしゃぎながら目の前を駆けていくように思えた。路地裏を吹き抜けたノスタルジックな春風に想いをはせながら、祖母の家へと続く道をゆっくりと辿っていった。


 私がまだ赤ん坊の頃、父は仕事の関係で長期の出張が多く、よく家を留守にしていた。そんなとき、母はよく幼い我が子を連れて祖母の家へ転がり込んでいたと聞く。私が生まれる少し前に祖父が亡くなっており、独り身になった祖母を心配してのことでもあったのだろう。祖母にとっても初孫に会えると大喜びで、ずいぶんかわいがって面倒を見てもらった記憶がある。そんなわけで、祖母の愛情を一身に受けて育った私は、生粋のおばあちゃんっ子に育った。

 高校を卒業するまでは、毎年のように祖母の家に遊びに行っていた。大阪の実家も祖母の家も同じ私鉄の沿線にあり、通いやすかったこともある。お盆や年末年始などの長期の休みになれば、一週間ほど祖母の家に泊まりに行くのが恒例だった。年の近かった従兄妹たちも同じ時期に遊びに来ることもあって、毎回楽しみで仕方がなかった。祖父母の家に集まって、親戚一同顔を見せ合うのが、毎年の我が家の習わしだった。

 大学進学を機に実家を離れた。慣れない土地での慣れない一人暮らし。初めてのサークル、初めての飲み会、初めてのアルバイト、初めての恋人。新しい世界で目に映る何もかもが、私にとって新鮮で刺激的だった。自然と、家族の予定よりサークルや友達との予定を優先することが増えていった。このころには、私が祖母の家に行くことも、祖母に会うこともめっきり減った。


 去年の四月の暮れごろ、母から連絡があった。

「おばあちゃん、体調悪くして入院しはったのよ。しばらく会ってなかったやろう。最後になるかもしれへんし、久しぶりに顔見せに行ったげて」

 そのころ私は働き始めて二年目の社会人であり、日々の暮らしに忙殺されていた。シフト制の職場で夜勤に入る事も多く、休日も不定期だったのでなかなか実家にも顔を出せずにいた。気づけば祖母にも、二年近く会っていなかった。

 なんとか仕事の合間に都合をつけて、見舞いに行くことにした。新幹線で京都へ向かい、駅前で市バスに乗り込んだ。観光客でにぎわう街中を抜け、バスは幅の広い河川を跨ぐ古風な橋を渡っていく。やわらかな日差しが落ちる川面は、翻った魚の鱗のように、無数の銀光をちらちらと煌めかせている。河川敷には往来の人々に覆いかぶさるようにして、桜の木々が立ち並ぶ。少し前までなら、川沿いに咲く満開の桜をここから拝むことができただろう。しかし今やほとんど花も散り、所々くすんだ薄紅色が残るだけのまばらな葉桜となっていた。

 来年こそはと毎年思っているのに、気づけばいつも見ごろを逃している。桜というものはせっかちなヤツだと思った。そんなに急がずとも、もう少しのんびり咲いていてくれてもいいんだよと言いたくなる。

 くだらない文句を頭に浮かべながら、懲りずにまた「来年こそは」とつぶやいた。


 祖母のいる病院には三十分ほどで着いた。一階で受付を済ませ、祖母のいる病室へ続く階段を上る。踊り場の窓からうっすらと差し込む光が、空気中に漂う塵に反射してきらきらと舞う。

 祖母の病室は病棟三階の北側に位置していた。「中原トモエ」と書かれたネームプレートを確認し、ドアを開けた。私が中に入ると、窓際のベッドにいた、柔和な空気をまとった老婦人がこちらを振り返った。

「あらまあ、いらっしゃい」

 母から入院の連絡をもらったとき、正直に言えば、「最後になるかもなんて大げさな」と思っていた。しかし、出迎えてくれた祖母の姿を目にしたとき、少なからぬ動揺が私の中を走った。真っ白に染まった髪、重そうに曲がった腰、一回りも二回りも小さくなったようにみえる身体。二年ぶりに会った祖母の姿が、記憶の中の祖母の姿とどうしても重ならない。それほどに祖母は年老いていた。その変貌ぶりに衝撃をうけた私は、しばらくの間、かけるべき最初の言葉を探しあぐねた。

「おばあちゃん、ずいぶんきれいな白になったね」

 そんな言葉しか出てこなかった。

「イヤやわ、はずかしい」

 そう言って祖母はおちゃめな少女のようにはにかんだ。


「そこに立ってるあの木、立派やね。桜かな」

「そうよ。ついこないだまできれいに咲いとったんやけどねえ」

 瓶にさされた花を取り換えようと窓際に寄ったとき、病棟の裏に立つ大きな桜が目に留まった。聞くところによると、病院関係者の間では名の知れた花見のスポットとなっており、毎年春になれば、見舞いに訪れた多くの患者家族たちが桜花を愛でているという。しかし、やはりこちらも、今はほとんど花が散り切ってしまっていた。

「しずちゃんは最近元気にしてるの?」

 懐かしい呼び名で祖母が語りかける。

「うん、元気。今は岡山に住んどるよ。大学卒業してそのまま岡山で就職したの」

「そう、岡山はええとこやねえ。昔一度旅行で行ったことがあってね。後楽園の桜がとてもきれいやったの。また行きたかったねえ」

『行きたかった』という言葉に胸がずきりとした。大学生のころ、祖母は私の暮らす岡山に行きたいとしきりに口にしていた。実際、父が祖母を岡山にお連れしようと計画したことも何度かあった。けれどその度、「その日はサークルの予定が」とか、「友達と出かける約束が」とかで都合が合わず、結局一度も実現することのないまま、その話はうやむやになった。祖母の言葉に他意はないことはわかっているけれど、しかしそれは確実に、じくじくと私の心に染み付いた。

「退院したら岡山に来てよ。私がおばあちゃん案内するからさ」

 ――次なんてあるのか?

 自分の言った台詞に対して、自問する声が脳内に響く。おそらく今の祖母の身体では、もう長距離の旅行などできないだろう。祖母自身も何となくそれはわかっているようにみえた。

「そうやねえ、ぜひ案内してちょうだいね」

 それでも、祖母はそう言って穏やかな微笑みを浮かべた。

 その後は、何気ない近況報告ばかり続いた。仕事が忙しくて大変だとか、大学時代の恋人とまだ続いてるだとか、そんな些細な私の話に、祖母は時折り相槌を打ちながら、やさしい表情で聞き入っていた。

 帰り際、「またくるから、元気でね」と伝えると、祖母は「おおきにね、またきてちょうだいね」と言って、うれしそうに微笑んだ。その表情を見て一時の安堵感を覚えつつ、私は病室を後にした。

 その半年後に、祖母は亡くなった。


 しばらく歩いていると、目的の場所に辿り着いた。木造モルタルの二階建て一軒家。築五十年は超えているはずだが、幾度かの改修・改装を経て、年数以上に見た目はきれいだし頑丈だ。永らく祖母たち一家の生活を見守ってきたその箱は、家主を失ってひっそりとしており、その佇まいは心なしか寂しげに映った。

 母から預かっていた鍵で玄関を開け中に入ると、いやにさっぱりとした空間が広がっていた。部屋にあった家財道具などはすでに取り払われた後のようらしい。

 玄関で靴を脱ぎ、きちんと踵をそろえて並べる。外から帰ってきたとき、祖母によく教えられたことだ。屋内に上がると、微かに残る祖母の家の匂いが鼻腔をかすめて、ふいに懐かしい気持ちに駆られた。それから私は、すっかり営みの消えた部屋の中を、記憶をなぞるようにゆっくりと見て回った。

 玄関から突き当りのドアを開けると、台所と食卓のあった部屋がある。私がやってきた最初の夕飯は、毎回決まって祖母の作るカレーライスだった。家のものとは違い水気が多くシャバシャバしたルーだったが、何とも言い難い温かみのあるやさしい味のカレーが大好きだった。

 台所の奥にある勝手口を開けて、こぢんまりとした庭を見回す。夏祭りでとってきた金魚が死んで大泣きしたときは、慰めてくれた祖母と一緒にこの庭の隅に埋めてやった。

 玄関の方に戻って、階段を伝って二階へと上がる。小学生のころ、従兄妹たちと遊んでいた最中にこの階段から転げ落ちたことがあった。すっ飛んできた祖母に連れられて大慌てで病院へ行った。幸いけがは軽くすんだが、心配でうろたえる祖母の姿がめずらしくて今でも印象に残っている。

 二階に上がると、客間のような少し広めの部屋がある。正月にはこの二階の広間に親族一同集まって、みんなでおせちを食べた。他の品には目もくれずに伊達巻ばかりを頬張る私を見て、祖母は毎年多めに伊達巻を作ってくれた。

 家を見て回るうちに、まるで部屋の隅々に眠る記憶の箱が開いていくように、なんてことのなかった過去の情景がつぶさに浮かび上がってきた。不思議だった。そこにはただ無機質な空間が広がっているだけのはずだ。なのに、祖母がいなくなった今、かえってより強く、ここで祖母と過ごした日々の息遣いまでもがありありと感じられた。そしてそのことが、私の胸を強くしめつけた。今でも鮮明に思い出せるのに、あって当たり前に感じられたあの日々は、もうここにはないのだ。


「おばあちゃん……」


 今まで押しとどめてきた感情が堰を切ったようにあふれ出し、たまらなくなってその場に座り込んだ。

 もう一度、祖母に会いたい。

 会ってもう一度話したい。

 頭では理解したつもりでいても、結局何もわかっちゃいなかった。私にとって祖母がどれほど大切な存在であったのかも、それを亡くすことの悲しみの大きさも。そして、人の一生には終わりがあることも。

 ――行こうと思えばいつでも行ける

 ――また今度でいい

 そう言っている間に、祖母に流れる時間は矢のごとく過ぎ去り、着実に終わりへと近づいていた。私が忙しさに追われて会わずにいた間に、祖母の髪は白くなり、腰は曲がり、体は小さくなった。時の流れは誰しもに平等に刻まれていく。だが、その一分一秒は同じように見えて、同じじゃなかった。私にとっての『たった二年』と、祖母にとっての『あと二年』は、その歳月が持つ意味や重みが全く違った。そして、過ぎ去った時間は二度と巡ってくることはないし、それを取り戻す術もない。

 祖母に残された時間はもう長くはないと、あのときあの病室で、私は確かに突き付けられた。それなのに、それに向き合う勇気を持てず、見ないふりをしてしまった。心のどこかで、祖母はずっとこのまま元気でいてくれると、そう思いたかった。あと何回会えるだろうかと、そんなことを考えるのは悲しかった。

 見舞いに行った去り際の、祖母の笑顔が思い浮かぶ。

 ――おばあちゃん、今までありがとう

 病室で何度も、そんな言葉を言いかけては止めた。改まって口にする気恥ずかしさもあったけれど、それ以上に、いずれ訪れる別れを早めてしまいそうに思えて怖かった。

 だが、あれが最後だった。私はあの場で伝えなくてはいけなかった。その前にも、その前にも、機会ならいくらでもあったはずだ。いつまでも時間があると思い込み、「また今度」と先延ばしにして、祖母の命が尽きるそのときまで機を逃し続けた私のなんと愚かだったことか。

 いくら悔やんでみても、もう遅い。

 もう祖母はどこにもいない。

 ――昔いろんなことがあったね

 ――あんまり会えなくてごめんね

 ――たくさん愛情を注いでくれてありがとう

 云わなければいけないことは、まだたくさんあったはずなのに。

 どうして私は――。


 後悔の念は涙となり、静かに、しかし止むことなく頬を伝う。

 僅かに開いた窓の隙間から、切なげな春の匂いが舞い込んだ。


 帰り路、再び駅前のソメイヨシノの並木を通った。行きのときは気がつかなかったが、よく見ると枝の一本一本が、今まさに芽吹かんとするたくさんの蕾をつけていた。一週間もすれば見ごろを迎えて、きっと大輪の花を咲かせていることだろう。

 ふと、そういえば来週は母の誕生日であったことを思い出した。思えばここ数年来メッセージを送るだけで、お祝いらしいお祝いもしていなかったことに気づく。そうだな、久しぶりにおいしいレストランにでも連れて行ってあげよう。そうして柄にもなく、日頃の感謝を伝えてみるのも悪くない。そうやって一つ一つ、いつまでもは続かない日常をかみしめていこう。

 そこに咲くささやかで大切な瞬間を、今度こそ見逃してしまわないように。


お読みいただきありがとうございました。


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