第2話 父と母
「お嬢様。起きていらしたんですね」
後ろから声をかけられ、私は我に返った。
いつの間にか部屋に入ってきていたのは、使用人のコーネルだ。私よりも2つ年上の12歳。
物静かだがよく気の付く少女で、普段から主に私の世話をやってくれている。
「呼んでも返事がなかったので、まだ眠っていらしたのかと思いました」
「ごめんなさい。少しぼーっとしていました」
「そうですね…。大丈夫ですか?」
気遣わしげに言われて、私は昨日ずっと盛大に泣いていた事を思い出した。
その間コーネルはずっと私の傍についていてくれたのだが…。
「…ああああああっ!!!」
突然叫んだ私に、コーネルがびくりとする。
「で、殿下は!?殿下はどうした!?」
そうだ、私は殿下の前で泣き出してしまったのだ。よりによって殿下の前で!
「数時間ほど滞在されたあと、予定通りお帰りになりました。お嬢様の事を心配なさっていたそうです」
「…あああああああ~~~~~…」
がっくりと床に崩れ落ちる。
私は…私は何ということを…!
「穴があったら入りたいっ…!!」
いっそ床に頭を打ち付けてしまいたかったが、さすがに自重した。だが全身から火を噴きそうなくらい恥ずかしい。
少し泣くくらいならともかく号泣だった。生きてきてちょっと見た事ないくらいの号泣だった。
「あの…お嬢様、元気を出してください。体調が悪いのでなければ朝食に行きましょう。旦那様方がお呼びです」
ああ…当然だ。
父上と母上もきっと、一体なぜ私があんな無様を晒したのか尋ねたがっているだろう。
「……、わかりました…」
私はよろよろと立ち上がり、コーネルに手伝ってもらいながら着替えを始めた。
「本っ当に!!申し訳ありませんでした…!!!」
食堂に行った私は開口一番、そう言って頭を下げた。
何しろ昨日はエスメラルド殿下がうちの屋敷を訪れるという、我が家にとってとてもめでたい日だったのだ。
それを私はぶち壊してしまった。
…我がデクロワゾー侯爵家は、王国内では新参に当たる魔術師系の貴族家だ。
元は領地や屋敷を持たない爵位だけの貴族だったが、百年ほど前の魔獣災害の際に手柄を立てて陞爵し、領地をもらった。
この国では魔術師を先祖に持つ貴族は騎士系貴族に比べて数が少なく、権力が弱い。
家格や歴史が大事な貴族界において、我が家のような新参の魔術師系貴族は爵位の割に扱いが低く、まだ10歳の第一王子がわざわざ屋敷を訪れることなどそうある事ではない。
では何故今回、そんな機会がやって来たのか。
領地を持つ貴族たちの多くは、夏の社交シーズンだけ王都で過ごし、冬は領地で過ごすという生活をしている。そのため、王都にも自分の屋敷…タウンハウスを持つのが通例だ。
この屋敷は古い貴族家から順に王城に近い場所に建てられていった。
つまり新参になるほど城からは遠くなるのだが、その代わりに少しだけ広い場所を割り当ててもらえる事になっている。
新参の我が家も、そこそこ広い土地をもらえた。しかし広いからと言って、そのまま大きい屋敷を建てられる訳ではない。
新参魔術師系貴族なんぞが広くて豪奢な屋敷を建てたりしたら、古参貴族たちから「あれ?ちょっと侯爵位をもらったからって、新参が調子乗ってます?」みたいな事を遠回しに言われ、目をつけられてしまうからだ。
それはあんまりよろしくない。
そこで頭を捻った当時のデクロワゾー侯爵は、屋敷は小ぢんまりと建て、代わりにちょっと変わった庭を作ろうと思った。
デクロワゾー侯爵領は広く温泉が分布しており、この国の他の土地に比べて温暖だ。そのため、植物や生き物も他では見かけない種類のものが多い。それを活かそうと考えたのだ。
侯爵はわざわざ遠い領地から草木を運んできて植え、池を掘って水を引くと、同じく運んできた魚やカエルなどの小さな生き物をそこに放った。運搬には物凄く苦労したとかなんとか。
結果できあがったのが、貴族の屋敷らしくない野趣あふれる庭なのだ。
…前置きが長くなってしまったが、要するに殿下の訪問のお目当ては、その王都ではあまり見かけない生物が棲んでいる庭なのである。
父はリナーリアに「殿下は生き物が随分とお好きらしくて、我が家の庭に興味を持たれたのだ」と言っていたが、リナライトの記憶がある私には分かる。
殿下が見たいのは、我が領地に棲む固有種のカエル、ミナミアカシアガエルなのだと!
そう、殿下は無類のカエル好きなのだ。
理由はわからない。とにかくあのフォルム、あの跳ねる動き、鳴き声、全てに心惹かれるらしい。
文武両道で容姿端麗、少々寡黙だが寛大で優しい性格と、非の打ち所がない完璧な王子であるエスメラルド殿下の趣味としてはいささか不思議な感じだが、私…リナライトが初めて会った時も殿下はじっとカエルを観察していたのだ。
私がそのミナミアカシアガエルという珍しいカエルのことを知っているのも、前世で殿下が教えてくれたからに他ならない。
…その殿下のささやかな趣味のお時間を、私は台無しにしてしまったのではないだろうか。
しかも父上と母上には大恥をかかせてしまった。
父はあまり野心のあるタイプではないが、せっかく訪れた機会なのだ。未来の王である第一王子と親しくなっておいて損はない。
それなのに…。
恥ずかしさと罪悪感とで消えてしまいたくなりながら大きく頭を下げた私に、父が苦笑する気配が伝わる。
「もういいよ、リナーリア。座りなさい。食事にしよう」
「そうよ。ほら、せっかくの朝食が冷めてしまうわ」
母も、すでに落ち着いた様子の私にほっと安心したようだった。
昨日泣いていた時はかなり私を心配していて、殿下ご一行への応対のために私の傍を離れる事をずいぶん気にしていたので、申し訳なく思う。
テーブルの上にはスープにパン、スクランブルエッグにちょっとした付け合せの野菜。
デクロワゾー侯爵家は特に貧乏ではないが、無駄な贅沢は母が禁じているので質素な朝食だ。
「あの…殿下のご様子は…。気を悪くされていませんでしたか?」
パンをちぎりながら、私はどうしても気になっていたことを口にする。
父は少し笑うと、「大丈夫だよ」とうなずいた。
「少しお話をした後、熱心に庭を見てから帰られた。…殿下はお優しい方だな。お前のことを心配していたよ」
思わずほっと息をつく。良かった…。
コーネルからも同じことを言われていたが、どうしても不安だったのだ。
殿下がお優しい方なのは私もよく知っているが、あれほどの失礼を働いてはさすがに気を悪くしたのではないかと。
しかし、屋敷の主人としてずっと殿下に応対していた父が言うならば間違いないだろう。
「…それにしても、お前は一体どうしてあんなに泣いてしまったんだい?」
父が怪訝そうに言う。母も心配そうな顔だ。
「それは…、その…」
「言ってごらん。怒らないから」
「つ、つまり…その」
「うん」
「か、感極まってしまったのです…!!」
父と母が揃ってぽかんと口を開けた。
羞恥で顔が真っ赤に染まるのが分かる。
くっ、恥ずかしい…!!
でもまさか「前世の記憶が蘇って懐かしさのあまり泣きました」とは言えない。あまりに突拍子がなさすぎる。
私自身、今の自分の境遇がまだ飲み込みきれていないのだ。
ならば「あれは感涙でした」と言うしかない。それであんな泣く子供がいるか?という話だが。
「うーん…それって、殿下にお会いできて嬉しすぎて泣いてしまった、ということかしら?」
母がよく分からないというように首をかしげる。
「お前は、そんなに殿下のことが好きだったのか?」
父も不思議そうだ。
当然だろう、あの時記憶が蘇るまで、リナーリアは第一王子にそれほど興味を持っていなかった。
まあ10歳の少女としてごく当たり前に、ほんの少しの憧れを持っていた程度である。
明らかに不自然な話だが、でもここはもう、この設定で押し通すしかない。
恥ずかしさをこらえて断言する。
「そうです…!私はずっと殿下に憧れていたのです!だから!嬉しくてつい泣いてしまったのです!!」
「……」
食卓に沈黙が落ちた。
…だめだ。消えてしまいたい。
するとなぜか、母の顔がみるみると明るくなっていった。
「まあ…!まあまあまあ!そうなのね!そうだったのね…!!」
え、なんでそんな嬉しそうなんですか…?
戸惑う私をよそに、母はうきうきと横の父に話しかける。
「あなた、早速殿下に手紙を送りましょう。先日のお詫びをしたいって。またいらして頂くのは難しいだろうから、お城に伺ってお会いできないか尋ねましょう」
「え?いや…詫びの手紙はもちろん送るつもりだが、お会いするのはもう少しほとぼりが冷めてからの方が良くないか…?」
「ああ、それもそうね…じゃあまず手紙でリナーリアの事を…」
なぜだかやる気に満ちている様子の母を止めるべきか少し迷ったが、結局私は口をつぐんだ。
殿下に直接お詫びをしたいのも確かだし、何より少しでも殿下に近付けるならどんな口実でも利用しなければならない。
私にはやるべき事がある。殿下を救うのだ。そのためならば何だってする。
「…リナーリアも、それでいいかい?」
物思いにふけっているところに急に呼ばれ、私は顔を上げた。
半分も話を聞いていなかったが、とりあえず手紙を送り、娘も詫びたがっているのでそのうち会っていただけないかと頼むという事で話がまとまったらしい。
否やもなく、私はうなずいた。
「はい!よろしくお願いします、父上、母上…!」
力を込めてそう言うと、二人はきょとんとした。
…あれ?
「…リナーリア。どこで覚えたのか分からないけれど、おかしな言葉遣いをしてはいけないよ。いつも通り、お父様やお母様と呼んでくれ」
「あっ!!」
しまった!つい、前世のような呼び方になってしまっていた。殿下のことばかり考えていたからだろうか。
「す、すみません…お父様、お母様…」
肩を縮こまらせた私に、二人は「わかればいい」と笑ってくれた。