第一章 「ヴァルキュリアの愛するもの」の世界の中に
第一章 「ヴァルキュリアの愛するもの」の世界の中に
『彼には許嫁がいたが、十八歳で挙式を迎える直前に亡くなってしまっていた。』
それが《アリアドネ・エイルノルン》を現した一行だった。
そんな短い。たった一行の人生。
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無の世界から意識が僅かに覚醒し始めて。でも。
頭が重くて。
身体が重くて。
苦しみから逃れるように。無意識で身動ぎしたんだと思う。
近くで聞こえた小さな物音に。
やっぱり無意識に重たい瞼を微かに開いた。
ぼやけた視界の中に。知らない女性の姿が映った。しかもメイド服のような恰好をしている。
「お嬢様。目を覚まされましたか?」
...何を言っているのだろう。
意味が分からなかったし、喉も詰まった感じで声も出なかったのでそのままでいると。その女性は視界から消えて。離れた方から、
「お目覚めになったから医師をお呼びして」
「分かったわ」
そんな会話が微かに聞こえた。
暫くしてやってきた白衣を着た女性を見て「...この人知ってる。小さい頃から診てくれてる医師」ぼやけた思考の中でそう思った。
白衣を着ていたからじゃなくて。本当に顔を見てそう思った。不思議なんだけど。
女性医師が身体をあちこち診たり。「苦しいですか?」「痛い所は無いですか?」など訊ねてきたけど。身体は痛いし、声はでないし、訳が分からないし。ボーっとしているしかなかった。
「ゆっくりお休みになって下さい」
最後にそう言って。女性医師が視界から消えた。
え...これは一体何? どういう事...?
ボウッとはしていたが。動かせる範囲で視界を巡らせてみる。
...ここは...『私』の部屋だ。
さっきのメイド服の女性も、ハッキリ分からなかったけど。彼女は『私』の世話をしてくれているメイドじゃなかったかしら?
覚えてない。でも。覚えてる。
そんな可笑しな感覚で。
...まだ眠りたい。
自然と瞼が落ちて。再び意識が閉じられていった...。
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次に目を覚ました時。
身体の痛みは無くなっていた。水を飲んだら喉の貼り付く感じも取れて声も出せるようになった。
でも私は黙ったままで何も答えなかった。正確には『答えられなかった』かな。
部屋に現れた中世のような恰好をした中年の男女。『私』の『両親』だ。見覚えは無いけど見覚えはある。
その後に現れた、こちらも中世のような恰好の若い男性二人。『私』の『兄達』。見覚えはないけど見覚えはある。
彼等はベットで横たわる『私』に訊ねてくる。
「アリアドネ。一体何があったんだ?」
《アリアドネ》。
それが『私』の名前である事。分かっているけど。分かっていない。
『両親』や『兄達』の質問から。
毒物接種によって倒れたらしい事。
五日間生死を彷徨っていた事。
その情報は得る事が出来たが。さっぱり何の事か分からなった。
女性医師の「毒物による影響でまだ記憶が混濁しているのかもしれない」との言葉に納得したのか、『両親』と『兄達』は訊ねるのを止めて部屋を出て行った。
女性医師も、処方した薬を飲んで安静にしているよう言って出て行く。
その後少しだけメイド達が何やら動いていたようだったが、
「また様子を窺いに参りますのでお休み下さい」
と言い残して居なくなった。
シンと静まり返った部屋で。目を瞑ってゆっくり頭を巡らせる。少しずつだが、ボンヤリ頭の中に思い浮かんでくる。
『私』の名前は《アリアドネ・エイルノルン》。
『ダジボーグ王国』エイルノルン子爵家の第三子で長女。十六歳。
家族は先程の両親と兄が二人。
...なんだけど。...何か違う気がする。
それに...毒を飲んだとかって...全く覚えがないんだけど。
少し身体を起こして部屋の中を見回して見る。
...うん。『私』の部屋だ。それは間違いない。間違いないんだけど。...やっぱり何か違う気がする。
でもそれが何か分からない。分からないから、変な事を口にして心配を掛けたくない...。
...心配? 心配を...掛けるだろうか...。というよりも...。
よく分からない感情が胸に湧いて。よく分からないんだけど、何だか嫌な感情で。
本能的に。
...暫く黙っていよう。そう思って。
そしてその通り何も言わないまま。その感情や、何かが違うと感じる感覚を探る為、このまま様子を見てみる事にした。
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数日様子を窺ってみて。嫌だと思った感情の理由は分かった。
あれから『両親』も『兄達』も。一度もここに訪れていない。
定期的にメイド達がやってきて世話をするのと。一日に一度女性医師が訪れて診察していく。それだけだった。
メイド達にしても、親身になって世話をしているというよりも。「仕事だからやっている」そんな感じで。彼女達から機械的なものしか見て取れないし。
女性医師も、心配する理由はただ「患者だから死なれては困る」という医師としての役目を果たしているだけ、と感じざるを得なかった。とは言え、「責務は果たす」という意志は分かったので。もう身体は何ともなかったが「毒物を中和させる薬と栄養剤」と処方された薬は飲んでいた。
『私』...《アリアドネ》を本気で心配している人はいない。
それが「変な事を口にして心配を掛けたくない」と思った事を。自分自身が否定した理由で間違いがないだろう。
《アリアドネ》は邪魔者にされている訳ではない。
寧ろ『お嬢様』としての扱いはきちんと受けている。
かと言って愛されている訳ではない。
そう結論付けて問題は無さそうだった。
そしてもう一つの「何かが違う」の思いについては。更に数日後に判明する。
「来月、王城で行われる国王陛下の『生誕会』の招待状と、ワルキューレ公爵家からの手紙が届いております」
メイドが封筒を二通手にして部屋に入って来た。
「...ワルキューレ公爵家?」
まだ許可が下りていないのでベットに横になったままではあるが。
流石に差し障りのない会話については、少しするようになっていた。
「はい。ご自分でご覧になりますか?」
「...いいえ。...内容は?」
この時も、基本的に手紙類は家令が確認してから渡されるのを本能的に悟っていて。このメイドも手紙の内容を知っている事は分かっていた。
「はい。この度の『生誕会』については、小公爵様も出席なさるそうです」
「小公爵様...ワルキューレ小公爵...」
その呼名に何かが引っ掛かった。
「ワルキューレ小公爵...ワルキューレ副団長...?」
「はい。お嬢様のご婚約者様の」
「...婚約者...?」
...ワルキューレ...。婚約者...。
《セラフィム・ヴァン・ワルキューレ》...!!
突如としてその名前が頭に思い浮かぶ。
「...セラフィム・ヴァン・ワルキューレ...騎士団副団長...」
「ですので、お嬢様もそれまでに体調を整えなくては...」
「...そんな...馬鹿な...」
...その名前は...。
「お嬢様? 如何なさいましたか?」
恐らく『私』の顔色は真っ青になっていただろう。
メイドがベットに近付いて来る。
「...そんな事...ありえないっ...!!」
そう口にした後。
頭の中がうねるように捩れて。
意識が暗闇に飲み込まれていった...。
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セラフィム・ヴァン・ワルキューレ。
ワルキューレ公爵家次期当主。
若干十六歳にして、ダジボーグ王国騎士団副団長。
アイスシルバーの髪に濃い紫の瞳を持つ美丈夫。
しかし、百九十センチを超える身長と。無口・鋭い眼光・冷徹な性格。
人を寄せ付けない、寧ろ近寄るな、そんな外見と中身の冷血な人物。
おまけに、仕事で魔物討伐に明け暮れている為、通称『イカレた戦闘狂』。
父親は現公爵、そして騎士団団長のゼルク・アース・ワルキューレ。
『将軍閣下』や『大公閣下』などと呼ばれている、こちらも無類の戦闘狂。
茶髪紫眼で上背もあるが、セラフィムと違ってかなり厳つい。
そしてセラフィムと違って快活で豪快な指揮官。
二つ年下の弟、アナト・キリム・ワルキューレは更に兄とは違い。
十四歳で騎士団には所属しているが、優しい性格で、いつも兄と父親に振り回されている。
体格も二人と違い、普通の貴族男子とそう変わらない。だが茶髪紫眼は父親と同じ。
この濃い色の紫眼はワルキューレ公爵家の特徴だ。
ダジボーグ王国騎士団は『タルタロスの樹海』と言われる、巨大な密林地帯から発生している魔物を狩る事が主な仕事だが。
近衛騎士団が管轄する防衛が有事の際にはそちらにも参戦する。
そんな騎士団、そしてセラフィム・ヴァン・ワルキューレの戦いの日々を綴ったのが。
セラフィム・ヴァン・ワルキューレを主人公とした物語。
『ヴァルキュリアの愛するもの』というネット小説だ。
『私』...《成子真理菜》はそれを日本という国で呼んでいた。
移動の電車の中で見ていたスマホに表示された広告が、ふと目について。
ちょっとした暇潰しに。タイトルからして恋愛小説の類だと思って。
何となく読み始めて。電車を降りる頃に「...うん?」とは思ったものの。教職を目指していた『私』《成子真理菜》は。
「いやいや、まだ序盤だし。簡単に判断してしまうのは如何なものか」
そう思い直して。
翌日。再び電車の中で続きを読み進めていた。
話は中世っぽい世界観の、貴族・王室・宗教などの勢力争いも出てくる、そして『魔物』が出現するようなファンタジーな話だったのだが。
...とにかく、主人公が魔物退治ばかりしている。恋愛の「れ」の字も出てこない。というか、女性キャラが殆ど登場しない。
その中で唯一主人公に出て来た女性の影が。
『彼には許嫁がいたが、十八歳で挙式を迎える直前に亡くなってしまっていた。』の一文だった。
なるほど。どうやら主人公は女性に興味がないらしい...。
そして読み進めても読み進めても、ひたすら戦い戦い、三度戦い...。
途中だったが『終了』のボタンを押した。
勿論、戦う理由があるのは分かる。主人公達は『魔物』から国を守っているのだし。
別にそういった事を批判する気はない。寧ろその心意気は素晴らしいと思う。
...しかし。それにしたって、如何せん主人公が『戦う事』にばかり没頭し過ぎなのではないか。
たった一行だけ説明された「許嫁が亡くなった」にしたって。主人公の女嫌いや冷酷さを説明する為の一文かもしれないけど。きっと政略結婚とかで愛情は無かったとは思うけど。
それにしたって...もう少しその事に対する感情とか。人間味を感じさせる思いとか。あっても良かったのではなかろうか。
まあ簡単に言えば...主人公が好きになれなかった。ていうかムカついてすらいた。
そんな感じで。途中ではあったが読むのを止めてしまった。
これはこれで、こういったジャンルが好きな人が読めばいいんだし。私が求めていたのはこういう物語ではなかったし。うん。中途半端で投げ出すのはイヤだけど。仕方ないと諦めよう。そう自分に言い聞かせて。
その頃の私は彼氏との恋愛で、ウキウキハッピールンルンモードでお花が咲きまくっていた。要するに浮かれていたのだ。
出来ればそんな幸せ気分を、わざわざ天サゲする気にはならなかった。
教職への夢を胸に。そして幸せな恋愛を心に。毎日楽しく過ごしていた。
私が教職を目指したのは、小学三年生のクラス替えの後にイジメられていたのを救ってくれた女性教師がいたからだ。
割とボンヤリして、変な所がヌケていた私は。クラス替えを機に男女共から弄られる対象になってしまったらしく。とは言ってもそこまで陰湿ではなかったけれど。
それを察知した担任の女性教師が、上手い事取り成すよう流れを持って行ってくれて。徐々にイジメられるような事も無くなり。更にはクラスはアットホームで一致団結した楽しいクラスになって。次のクラス替え前は皆で名残惜しんだ位だった。
そんな風にクラスをまとめ上げたその女性教師に憧れて。教職の道に進む事を目指したのだ。
教師というか、その女性教師の人柄に憧れたんだけど。
だけど、バラバラだった私達生徒が仲間になっていく高揚感・充足感。
あんな幸せな体験を皆にもして欲しい! そう思い教職に就く事に決めたのだ。
私の性格は大して改善出来なかったけど。
周りと無駄に争わないようやっていく、そこから周りの人達を繋げていく。そんな上手い事も、...若干計算する事も覚えて。
友達百人とは言わないけど。居心地のいい友人達。
優しく見守ってくれる温かい家族。
何処かヌケてる私をフォローしながら愛情をくれる彼氏。
...そんな幸せな時間が崩れていったのは二十二歳、大学四年生の時。
少子化で教師の職に就くのが厳しい事は分かっていたけど。もうとにかく、やる事成す事全滅で。他の...カウンセラーとか別の公共機関への就職の道も考えてみたけど。
やっぱり何かに仕切られたりせず、色々な子供たちと接したかったので。どうしても教師が諦め切れず。そしてそれも現実はかなり厳しくて。
そんな中...彼氏の浮気が発覚...。...うん。よくあるパターン。典型的な王道の展開。
そしてやはり当然のように。心が荒み、ヤケ酒を煽り。つい。ついフラリと。もう疲れたなー、どうでもいいかなー、なんて。千鳥足で深夜の道路に佇んで。
静かな幹線道路に大きな車の音が聞こえてきて。
目を開けていられない程の眩しい光に目を瞑って。
身体を襲った衝撃と。痛いのか苦しいのかも分からなくなった意識が。最後に思ったのは。
『まだまだ人生幾らでも何とかなったハズなのに。こんな下らない一時の感情の為に終わってしまうなんて。もっと生きたかったのに』
そんな後悔の念だった...。
そうして。《成子真理菜》の二十二年の人生が終わって。
今。こうして。
《アリアドネ・エイルノルン》としての生を受けている...。
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...あれか。『異世界転生』とか『異世界憑依』とか。
どういうカテゴライズかは詳しく分からないけど。うん。アレだな。流行ってるヤツ。多少はそういった本も読んだし。
ネット小説『ヴァルキュリアの愛するもの』の中の世界に入り込んでしまったらしい事については。分かってしまえばそれ程驚く事もなく。不思議とストンと受け入れられた。
...上手く生きていくには『適応力』が大事だからね。
どんな事でも理解したら早目に受け止めて。そこでどんなパフォーマンスをする事が出来るか。それを考えていく事が大事。...それが出来ないまま前世(っていう言い方でいいのかな?)《成子真理菜》は終了してしまったんだから。
これは言わば『人生の二時限目』。次の授業の準備をしなくては!
どうやら意識を失ったけど、大丈夫そうだ、とメイド達は出て行ったみたいだ。
一人きりで。ベットに横になりながら。色々考えてみる事にする。
これで「覚えてるけど覚えてない」みたいな感覚の意味が分かった。
前世の事を思い出したら...まあ理由は理解出来た。
ここはネット小説『ヴァルキュリアの愛するもの』の世界。
主人公は『イカレた戦闘狂』の《セラフィム・ヴァン・ワルキューレ》。
そしてそれは『今の私』、《アリアドネ・エイルノルン》の婚約者。
そしてそしてそれは一文にあった『彼には許嫁がいたが、十八歳で挙式を迎える直前に亡くなってしまっていた。』の許嫁は《アリアドネ・エイルノルン》って事で。
いやでも、まだ十六歳だし、この後新たに別のご令嬢と婚約し直すのかも...。
...いや...多分それはないか。
一つを思い出したら次々と記憶が埋まっていく。
《セラフィム・ヴァン・ワルキューレ》と《アリアドネ・エイルノルン》は生まれた時からの許嫁だった。
公爵家と子爵家という家格違いの、しかも出生時からの婚約が成立した訳は。
これが五代前の当時のワルキューレ公爵とエイルノルン子爵との間で交わされた約束だからだ。
ワルキューレ公爵家は代々騎士団を率いる武闘派の家系で。当時団長だったワルキューレ公爵閣下のピンチを、当時のエイルノルン子爵が助けた為、そのような恩返し的な約束を交わす事になった。らしい。
しかし...。ワルキューレ公爵家もエイルノルン子爵家も、とにかく男家系で。
両家とも遡っても数百年は女児が誕生した記録が無い...。
だからどちらかの家系で女児が生まれたら必ず婚姻を結ばせよう! とかいう話になったらしいのだが。
どう考えても当時のワルキューレ公爵閣下は本気だったとは思えないけど...。まあ、それ以外にも色々報償は頂いたようなので。ちょっとしたオマケ程度の話だったと思うけどね。
そしてそこから五代後。
エイルノルン子爵家の第三子としてまさかの女児が誕生してしまったのだ!
更に。その二か月前にワルキューレ公爵家でも第一子・嫡男が誕生していたので。
それはもう両家共大騒ぎだったらしく。二人は直ぐに婚約者となったのだった。
まあ、エイルノルン子爵家が絶対に縁付きになりたい気持ちは分かるけど。何故にワルキューレ公爵家がそんなノリでしちゃったみたいな約束をアッサリ受け入れたかと言うと。
現公爵のセラフィムの父親、ゼルク・アース・ワルキューレ閣下が「これは運命的だ!」とか豪快に笑い飛ばしながら、逆にノリノリで。
当時ご存命だったセラフィムの母親の公爵夫人も喜んでくれたとかで。
二人は本人の意思は関係なく婚約をする事になってしまったのである。
とはいえ。そんな婚約だった訳だし。ヤツは幼い頃から『イカレた戦闘狂』だったから。
婚約して十六年。会った事は両手の指の数程もない。
何やら、時節の挨拶の手紙や誕生日の贈り物などは届けられるが。どう見たって公爵閣下に言われて、更にそれを家令辺りに丸投げしている事はバレバレだし。
本人達、それにエイルノルン子爵家の面々も。別にそれを問題とも思ってないし。エイルノルン子爵家としては、きちんと婚姻が結ばれれば他はどうでもいいらしいし。
ワルキューレ公爵閣下が乗り気なので。恐らく、この婚約が破棄される事はない。
だから。あの一文で書かれている『許嫁』は《アリアドネ・エイルノルン》で間違いないだろな...。
二人はアリアドネが十八歳になったら結婚する事になっているし。
何故十八歳なのかといえば。その理由は、セラフィムの弟のアナト・キリム・ワルキューレが十六歳を迎え、成人となるからだ。
優しい性格で、凡そワルキューレ公爵家の血筋とは思えない性格の次男坊を心配しているのだろう。
その彼が成人を迎えれば一応一安心、といった所か。
という事は、だ。アリアドネが十八歳になって婚姻するまで後二年...正確に言ったら二年ないけど。その頃には。
《アリアドネ・エイルノルン》は死ぬ。
...そういう事になってしまう...。
......嘘でしょ...。
今さっき前世の事を思い出して。
さあ、第二の人生頑張るぞ! そう思ったばかりなのに...。
後二年もしないで死んじゃう運命だなんて...。神様。それは余りにも残酷過ぎやしませんか...。泣きそうですよ...。
もそもそとベットから這い出し。姿見の前にゆっくり立つ。
ミルキーブルーのウェーブがかかった腰までの髪。タンザナイトの様に輝く深い青の瞳。柔らかい線で描かれた整った顔立ち。割と小柄な体型。どこからどう見ても美少女だ。
これが《アリアドネ・エイルノルン》。
こんな可憐な美少女が後二年もしないで死んじゃうなんて...。
はああああああああああっ...。
大きく大きく溜息を吐く。
......いや。まだ諦めるのは早い...。
よくあるじゃない。それこそよくあるじゃない!
元の話を変えちゃうヤツ! それこそ王道!
そうよ! きっとストーリーは変えられる! 死なない方法があるはず!!
私なら出来る!!
だって。
魔法が使えるんだもん!
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この『ヴァルキュリアの愛するもの』の世界には魔法が存在する。
ただ...非常に残念な事に、一部の人間しか使えない。
この魔法使用能力は『血統』によるもの。
そして。「必ず能力が受け継がれる家系」と。「時折能力を受け継ぐ子が生まれる家系」があって。『必ず』受け継がれる程優秀な血統は僅か...。ワルキューレ公爵家はこの『必ず』受け継がれる家系である。
多数の血統は『時々』受け継がれた子が誕生する程度。
そして血統とは。それは貴族の家系だけが当て嵌まる。稀に平民から魔法能力のある子も生まれるが。そういった場合は、大概誰かしら貴族の落とし種で。そして必ず貴族に養子などで引き取られる。
だから魔法を使えるのは貴族の証明と言ってもいい。
あと。魔法は使用者が何でも好きに使える訳ではない。
まず。魔法には二種類がある。
一つ目が『天恵魔法』という、自然物の火・水・雷・風などを操る魔法。
使える種類や威力は使用者のレベル次第になる。
この『天恵魔法』使用の血筋を受け継いでいるワルキューレ公爵家は。この攻撃に適した魔法を使い、歴代騎士団を率いてきた。
もう一つは『護身魔法』。身体に纏わる事を魔法で扱える。体力回復だったり、怪我を治療したり。自分・他人に関わらず、身体に関係する事は可能。これも使用者のレベルによって使用種類・効力は異なる。
魔法能力者はこの『天恵魔法』か『護身魔法』のどちらかしか扱えない。そしてそれは血統に大きく左右され、生まれながらに決まっている。
どちらの魔法が使えるにしても。男子は騎士団への入団が義務付けられている。
理由は『魔物』を討伐する為に大変役立つ能力だから。
王族も例外ではないが、公務を優先する事は暗黙の了解事項らしい。
女子に関しては義務付けはされていない。やはり肉体能力的に向いていない事、本人達も望まない事が殆どである事。そして、その能力を武器に何れ高い地位の貴族に嫁がせようとする親の思惑が大きい。
男子を騎士団へ持っていかれてしまうなら、せめて女子だけは家の為に利用したい。そんな思惑を抱えた貴族達だが、その訴えを国も呑まない訳にはいかない。
実は五代前のワルキューレ公爵のピンチを救ったとういうのは。魔物討伐中に瀕死の重傷を負ったワルキューレ公爵を、『護身魔法』使いとして騎士団にいたエイルノルン子爵が魔法で治療した事だったのだ。
そしてアリアドネは『護身魔法』が使える。
エイルノルン子爵家では五代前の当主様以来じゃないかしら? つくづくこのご先祖様とは御縁があるみたいね。
これをどんな風に利用出来るか分からないけど...でも、使えれば役に立つだろうしね!
そう...。この事は誰も知らないし。
...アリアドネはこの事を秘密にしていたから。
色々思い出してるうちに。色々な事が分かってきた。
きっとこうして生きてるのは無意識で魔法を使っていたのかも。断定は出来ないけど。
魔法を使える事を秘密にしていた。それは一体...。
色々思い出して。色々分かってきた。
それでも。
...《アリアドネ》の『感情』だけが思い出せない。
たった一行の《アリアドネ・エイルノルン》の人生...。
『私』はどんな思いで生きてきたんだろう...。
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翌週になって。やっと動いていいとの女性医師からのお許しが出た。
アリアドネが何故どの様に毒物を接種したかについては。
本人の覚えてないという主張と。その毒物が他に発見出来なかった事などから。有耶無耶のまま話は終わってしまった。大して興味も無かったのかも。生きているからまあよし、と考えたのかな。
ゆっくりと屋敷内を歩いてみる。きちんと覚えているのを確認する。
屋敷内はとても静かで。そしてこれが日常だった。
日中、父と兄二人は仕事へ。母はお茶会や買い物へ。
私...アリアドネは大体いつも一人だった。
その日、昼食の際にメイドから。
「明日は仕立て屋が来るそうです」
そう聞いた。来月の『生誕会』のドレスを作るのだろう。
王城で開催の国王陛下の生誕会。しかも珍しくワルキューレ小公爵も来る。
エイルノルン子爵家は比較的裕福な暮らしをしている。
だから特別な催しの際などにはアリアドネを着飾らせる事を惜しまない。
もちろん...可愛い娘を綺麗にしてあげたい、という思いからではないけど。
それから暫くは。前世の記憶が戻った事の弊害か。
少しボンヤリする事も多かったし。
『記憶』を照らし合わせながらのゆったり目な生活をしていたけど。
段々と『生誕会』が近付くにつれて。憂鬱な気持ちになってくる事が増えた。
まあ...何となく理解出来たので。なるべく考えないように過ごしていた。
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そして。『生誕会』当日。
新しいドレスに身を包んで、家族と一緒に王城へ向かって。
この目出度い日に、誰も彼も笑顔で。雰囲気も明るく賑やかだったが。
私は...息は苦しいわ、お腹は痛いわ、吐き気はするわ...散々な気分だった。大っ嫌いな運動会を迎えた小学生の気持ち...。
「ほら、アリアドネ。行って来なさい」
嫌な汗ダクダクな私を、母が押しやる。
その先には。体格のいい男性が数名固まって談笑していた。その中に。
頭が一つ分抜け出そうな長身。
瑠璃色のカッチリした礼服に身を包んだ細身ではあるが、しっかりした体躯。
アイスシルバーのキラキラ輝く髪に。濃い目だけれど透明感のあるアメジストの瞳。
見た目だけなら間違いなくイケメンなその男は。
特に面白くもなさそうに、両腕を胸の下で組んでいる。
サアアアアアッ...。
...一気に身体中の体温が無くなったように寒くなり。ゾクゾクと何かが背を走る。
バクバクと心拍数が上がって。無意識で身体は機能停止したように固まる。
...トンッ!
中々動き出さない私の背中を。母が肘で小突いてきた。
「...っ!」
はああ...。呼吸も止まっていたらしい。家族にバレないようにそっと息を吐く。
そして...。
グッと拳を握って。前をキッと見据えて。お腹にギュッと力を入れて。
足を踏み出す。
一歩、一歩...ゆっくりその集団に近付いて行く。
後三メートル程の距離になった時。鋭い紫眼が私を捉える。漫画とかなら「ギロッ!」と効果音が入る事間違いなし!
その、完全に人を殺しそうな視線に足が止まる。
セラフィム・ヴァン・ワルキューレとの『私』としての初対面。
こうして見ると。彼は小説の扉絵通りの姿だった...。
暫し睨み合う...いや、一方的に睨まれてたんだけど。私はビビって固まってただけ。
「...お久しぶりです」
何とか立ち直って。何とか笑顔(当然引き攣ってる)を作って。声を掛ける。
彼は。はあああっ...如何にも「メンドくせえ...」と言わんばかりに溜息を吐き。輪の中から抜けて、顎でクイッと指示を出して歩き出す。
はいはい、付いて来いって事ですよね?
ムカッとはしたが。諦めて。彼と話していた皆さんに笑顔で会釈をして。後を追い掛ける。
全くコチラを見向きもせず。全くコチラの歩幅も考えず。彼はズンズンと廊下を進んで行く。
その迫力に押されて。人々が廊下の端に避けて。人が犇めき合っていたはずなのに、道は綺麗に出来上がっていく。モーゼの如く。理由は全く違うけど。
見っとも無くない程度ギリギリの早足で。何とか左斜め後ろに追い付く。
「...お元気でしたでしょうか?」
恐る恐る声を掛けてみる。
「...ああ」
彼は振り向きもせず。感情のこもっていない声で短く答える。
「...変わらずお忙しくしていらっしゃるんですよね?」
「...ああ」
「...お身体は大丈夫ですか?」
「...ああ」
「...どうぞご慈愛下さい」
「...ああ」
......「ああ」しか言葉を知らんのだろうか?
そうこうしている間に。陛下へのご挨拶の列に並ぶ。前に並んでいた貴族達が「どうぞどうぞ」と譲っていってくれるので。あっという間に陛下の前に辿り着いてしまった。...流石ワルキューレ公爵家次期当主...。
「おお、これは二人揃って! よく来てくれたな!」
陛下が、ガハハッと豪快に笑って声を掛けて下さる。陛下とワルキューレ公爵閣下は義兄弟だ。陛下の一番下の妹...王女様がワルキューレ公爵閣下の奥様だった。つまり陛下からみてセラフィムは甥に当たる。
「陛下、本日はおめでとうございます」
礼をとる私達に、陛下はニカニカ笑う。
陛下とワルキューレ公爵閣下は気が合うらしく、とても仲がいい。だからこそ大事な妹を『戦闘狂』なんて言われるワルキューレ公爵家に嫁に出したのだろう。
「成人の祝い以来か。二人共元気にしておったか?」
「はい。相変わらずです」
「...お心遣いありがとうございます。恙無く過ごしております」
...死にかけてた事は内緒だ。
陛下は楽し気に話し掛けて下さるが。...セラフィムはニコリともしない。不敬なヤツめ。
ご挨拶を終えて陛下の前を失礼する。
その人垣から離れた所で。
「...それでは、これで失礼します。お身体大事になさって下さいませ」
「...ああ」
セラフィムと別れる。彼はさっさと人波の中を去って行く。
その目立つ姿を見送って。ふう、と息を吐く。
...何とか無事『私』としての初対面終了。
え? 婚約者なのにアッサリし過ぎ? いやいやいや! これでも今日はマシな方だから! 私頑張ったから! いつもはもっとヒドイのよ! 挨拶の言葉だけの時もあったから!
こういった集まりでも一緒にいないのは当たり前の事なんですよ!
「アリアドネ様」
後ろから声が掛けられた。その声に。無意識に身体がビクリと反応する。
「ごきげんよう、アリアドネ様」
三人の煌びやかなご令嬢が笑っていた。
ブリキッド・ネクベド伯爵令嬢とリサ・シャムハザ伯爵令嬢に。中央にいる一際華々しいのがラウェルナ・マスティマ公爵令嬢だ。
「...ごきげんよう、皆様」
私も何とか笑顔で挨拶する。
...来たか。来るの早過ぎませんか?
そして三人は一斉に捲し立ててくる。
「あら! ご婚約者のセラフィム様はもう行ってしまわれたの?」
「仕方ありませんわよ! お忙しいお方ですから」
「それにしたって...婚約者にお会いになれる機会だって殆どないでしょうから。もう少し一緒に居たいと思うのが普通ではありません?」
「それは...ねえ。誰でもそう思う訳ではありませんわよ」
「そうですわねえ。一部の殿方はそういった事が不得手な方もいらっしゃいますし。特にあの方は婚約者だからといって特別扱いをされる方ではありませんしねえ?」
「ご本人には預かり知らない約束事でご婚約させられて...あら、失礼。まあ、御父上のご判断ですしね」
「お家の為にですから、それは已むを得ない事だと思われてるでしょう。お可哀そうですけど」
「ねえ本当に! せめてもっといいお相手だったらセラフィム様もご納得されたのではなくて?」
「そうですわね! ちゃんと釣り合いの取れた方でしたら...例えば」
ブリキッド嬢がラウェルナ嬢の顔を窺う。
「あら、私なんてとても! そんな厚かましい事考えられませんわ」
「ラウェルナ様でしたら何も問題ございませんでしたわよ!」
「家格もお美しさもラウェルナ様が一番相応しいですわ!」
「まあ、嫌だわ! そんな事仰っては...アリアドネ様に失礼よ?」
ラウェルナ嬢が私の顔を睨め付けてくる。それはそれは厭らしい笑みを浮かべて。
内心溜息を吐き、沸々と怒りも湧いてくる。
セラフィム・ヴァン・ワルキューレはあの性格とはいえ。容姿も、次期公爵の身分も、婚姻相手として申し分ない。だから当然ご令嬢方も彼に愁派を送るのだが。
彼はあの通りの暴君だし。大きな体躯に、殺られそうな眼光で上から睨みつけられたら...そりゃあ近寄れない訳で。
そうなれば婚約者である私に、その怒りや妬みが向けられるのは自然の流れで。
特にこのラウェルナ・マスティマ公爵令嬢は相当セラフィムに傾倒していたから。私への当たりが特に強い。ブリキッド嬢とリサ嬢と三人でいつも突っ掛かって来ていた。
...そう。
《アリアドネ》は誤って毒物を口にしてしまったのではない。
《アリアドネ》本人が自ら毒を煽ったのだ...。