死の行軍
アビーリーンのパラドックス
1996年に経営学者ジェリー・B・ハーヴェイが、著書「アビリーンのパラドックスと経営に関する省察」で提示した集団思考のパラドックスで、「集団内のコミュニケーション不全によって個々人が「自分の嗜好は集団の嗜好と異なっている」と思い込み、集団決定に対して異を唱えないために集団が誤った結論を導きだしてしまう。」という物騒なものだ。
たとえば、集団の輪を崩すのはよくないからと我慢していたのに、後でみんなの話を聞いてみれば、本当は誰も旅行になんて行きたくなかった。行ってみたけど楽しくなかった。なんてことは意外とある。
どんなに正しそうな前提があったとしても、そこから導き出される答えが最悪なら、そんなことはしない方がマシなのに。
誰だってそんなことくらいわかっているはずなのに、止まれない。止まることができない。時には問題に気づいていながら、気づけないフリすらしてしまう。
そういうことは、どこにでもある。
あれは夏休みも半ばのことだった。
大学二回生のわたしは、遊びに行くほど金もなく、家にいるのも嫌で、いつも近所の公園のうだるような暑さに耐えながら本を読み、暇を潰していた。
わたしが下宿先にいる時間は極端に少なく、むしろほとんどいないと言っていい。
こんなことになったのも、下宿先を決めるにあたって、同級生で同じ大学に進学するIと同棲することにしたからだ。
幼なじみの I とは昔から家族ぐるみのつきあいで、仲が良かったし、仲が悪くなる未来なんて考えることもなかった。
今思えば、あの考えは甘かった。
I は大学に進学すると性に奔放になり。男をとっかえひっかえするようになった。
そうなれば必然、男を家にあげて行為に及ぶことになる。そんな場所で落ち着いて暮らせるわけもない。
I に注意しても「何、羨ましいの?」と淫猥に笑うばかりで、しまいには「前のカレ、もういらないから貸してあげようか?」なんて言い出す。
奥手だった I が男に求められることでつけた過剰な自信は、彼女の精神を大きく歪めてしまったらしい。
I が連れてくる男から、身の危険を感じることもある。
あの家はもう I のものだ。
これで教育学部だというのだから、鬱陶しい。
将来、どんな顔をして教壇に立つつもりなのか。
炎天下の中、汗を拭くと。小学生高学年くらいの子が目に入った。
近所の子なのか、ずっと砂場の横に座って何かを観察している。
最近よく見る、暗くなって本が読めなくなっても残っていることがある子だ。
夏休みも半ばだ。
アリの観察でもしているのかもしれない。
その子が帰ってから、砂場の横を覗き込むと、悲鳴をあげそうになった。
それは確かにアリで、珍しい現象に違いはなかった。
アリたちはひたすらにぐるぐると同じ場所を回り続け、円を作っている。
家に帰ろうとか、獲物を探しに行こうとかではなく、ただ同じ場所をぐるぐる回り続けるのだ。
これは死の行軍と呼ばれる集団自殺現象で、アリの蟻酸を追う習性によるものだ。
一度こうなってしまうと、アリたちは死ぬまで先頭のアリを追い続けることになる。先頭のアリが死んでも、今度は後続のアリが先頭になるのでそう簡単には終わらない。
人間ならば途中で「これはおかしい」と思って止めるのに、やっぱりアリは愚かだな。と思う反面、あの子はこんな悪趣味なものを一日中見続けていたのか、とぞっとした。
一体どういう気持ちなのだろう。単に興味深かったのだろうか。
わたしは一息にアリを皆殺しにしてやりたくなったけど、わたしもまた教育学部なのでやめた。残酷なことはするものじゃない。
家に帰るとリビングには淫臭が漂い、I がけだるげにタバコを吸っていた。こいつまた男連れ込んでいたな。
わたしが「換気くらいしてよ。」と言うと、面倒くさかったのか「はいはい」と言って I の方が出て行った。
いつもこんな感じだ。
翌日、公園に行くとまたあの子がアリを見ていた。幼い小学生がアリの集団自殺を眺め続けているのに耐えきれなくなったわたしが、声をかける。
しゃがみこんで、目線を合わせ。
お姉さんと何か別のことをしようと誘導すると、少し驚いた顔をして従った。
そういえば、行動を止めるより、別のことをしようと意識を逸らした方がうまくいくのだと、児童心理学の授業で教授が言っていたっけ。
話してみると、その子はKと言う女の子だった。
薄汚れたTシャツ短パンという男子みたいな格好をしていて、帽子を脱ぐと、ろくに手入れされていない長い髪が落ちる。毛先の赤みがかった長い茶色を黒い地毛が押し上げていた。
笑うことがなく、ぼそぼそとしゃべる子だった。話かけるとフリーズするので、見ていると不安になる。
色々と問題を抱えていることに想像がついた反面、Kは自分のことを話さなかった。誰だって根掘り葉掘り聞かれたくはないだろう。
たとえば、服装が男子的なのは、心の問題かもしれない。
こういうことは、とやかく言わず。そっとしておいた方がいいはずだ。
このKとわたしの関係はそれから半月ほど続いた。
夏休みを利用してうまくお互いのヒマ潰しができれば御の字だろうと思って始めたこの関係は、想定以上の広がりを見せることになる。
公園に二人といっても限界がある。Kは活発な方ではなかったので、男子小学生のように走り回るというわけにもいかない。
Kもわたしと同じように、居場所がないから仕方なく公園にいるだけだったのだろう。
そこでわたしは草花の本を借りてきて植物の名前を教えたり、公園の植物を調べ尽くすと、道端や水路を歩いたり。昆虫の本を借りてきたり。
それでもKが笑うことはなかったけれど、新しい知識を得る度に、少しだけ輝くその瞳は宝石のように美しかったのを覚えている。
そんなことをしてあちこち歩き回るうちに、わたしとKは夏休みで暇をしている大学の連中に鉢合うようになる。
わたしが少女を連れ回しているという噂は一斉に広まり、普段あまり話したことがなかった教育学部、二回生の連中がわらわらと集まってきた。
こうして集まってくる教育学部生はみんな子供好きだ。みんなKを猫かわいがりし、ファミレスでしこたま食事を与えて、大学の図書館に連れて行った。
この炎天下に外にいるなんてあり得ないと言われたっけ。
かわいい服を買ってやろうぜ。なんて思い立った連中がカンパを募り、白いワンピースを着せたりしたこともある。
Kがそのワンピースを着たのは一度きりだったけれど。それもKの意思だからということで、みんな納得した。
宿題を手伝おうという話になっても、Kは学校のことを一切話さない、というか一度話さないと決めると、その日はずっとだんまりを決め込むので、誰も学校について聞かなくなった。
夏休みも4分の3を過ぎた頃だ。
わたしは「これ、もうわたしいらないよな。」と思い、その集団から去った。
Kには何か問題がある。
だとしても、わたしごときがいなくたって結果に何も変わりはないはずだ。やるべきことはすべて、わたしでない誰かがやってくれるだろう。
みんな優しいし、行動力があるし。
何より、その行動の一つ一つを精査してみて、何も間違っていない。
これだけ正しい前提ばかりが積み上がれば、きっと正しい結果になるだろうと、そう思っていた。
わたしがあの集団から去った日。
ふと、Kと出会った公園に入ると。アリはまだ集団自殺を繰り返していた。
規模を増し、多くのアリを巻き込んで進む死の行軍は止まる様子がない。
ぐるぐる、ぐるぐると。
同じ場所を死ぬまで回り続ける。
それでも皆、正しいことをしていると思っているのだろう。
正しいと思っているから止まらないのかもしれない。
いや、人間はアリとは違う。
人間には知性がある。知性があるのだから、どこかで「これはおかしいぞ」と考えを改めることができるはずだ。
そう思い直して家路につく。
家からは I のあえぎ声がした。
嫌悪と寂しさが、身体を内から焼いている。
これは嫉妬なのだろうか。
I にも、あの集団にも、関わりたくない。
人を欲しているのに、まるで人を好きになれないのが不思議だった。
何か、あのアリの群れを遠巻きに眺めているような気持ちになるのだ。
わたしだけでなく、みんな気づいていながら、気づかないフリをしているような気がするのだ。
思い至りそうになると、思考が引っかかって止まってしまう。
ただ、漠然と危険は感じる、震源地から距離をとって何かを回避しようという気持ちがある。
これは一体、どういうことなのか。
そんなことを考えながら、わたしは夕暮れに沈む街を徘徊する。
ただ、何かとても卑怯なことをしているという自覚だけがあった。
それからしばらくして、夏休みも終わりを迎える頃。
あの集団に教授が介入した。
「あなたたちは、なぜこんなになるまで放っておいたのですか!!」
結構な高齢で、いつも優しく頷いていた教授が烈火の如く怒鳴り散らしたらしい。
あの集団にいた教育学部生たちは、なぜ怒られているのかまるでわからなかったそうだ。わたしも、何かヤバイとまではわかっていたけれど、理由までは思いつかなかった。
それでも、集団が作られた時にできたグループチャットを見れば、何が起こったかわかる。というか、少し考えれば誰でもわかることだった。
Kは学校に通っていない。
確かに今、うちの大学は夏休みだけれど。小学校の夏休みはもうとっくに終わっている。
そう、大学生の夏休みはおよそ8月から9月末までだけど、小学生の夏休みは7月21日から8月31日まで、期間が違うのだ。
わたしがKと夏休み半ばに出会った頃には小学生の夏休みは終わる頃だから、みんなでのんきにKを連れ回している間、Kはずっと学校に通っていなかったことになる。
これは流石に誰か気づいていたはずだ。
気づいていながら誰も口に出さなかった。
内心ではやばいと思いながらも気づかず、もしくは気づいていないフリをして責任を回避し続けた結果がこれだった。
事に気づいた教授の動きは早かった。
Kと面談し、虐待の疑いがあると判断した教授は即刻児童相談所に連絡し、Kの自宅にはケースワーカーが派遣された。
見えてきた全貌は想定以上に悪かった。
Kはそもそも学校に通っていなかったし、Kの父親は女のところに転がり込んだ入れ墨持ちで、元ヤクザ。なぜ元かと言えば、あまりにも粗暴すぎてヤクザを破門されたから、らしい。
その上、Kは住所どころか、戸籍すら判然としない。
どこからか拉致された可能性もある。詳細は不明だ。
明日にはKを元ヤクザから引き離し保護する方向で話が動いているらしい。
明らかに一介の学生が対応できる限界を超えていた。
もっと早く児童相談所、というか警察に連絡するべきだった。
そうしなかったのは、わたしたちに他人の気持ちを推し量ろうというきもち、配慮があったからだ。
きっとKは触れられたくないのだろう。
間違いだったら恥ずかしい。
そこまで大きな問題ではないかもしれない。
騒いで迷惑をかけたくない。
そして、真実を語らせて幼い子供を傷つけるのは、何も自分である必要は無い。きっと他の誰かがやってくれるはずだ。
自分が責任を持ちたくない。
そんな考えが思考のもやとなって、判断を鈍らせ、気づくべきことに気づかなかった。もっと言えば、気づけていながら気づかないフリをした。
これは教授も怒るだろう。
一番怒られるべきはわたしだと思う。
わたしがスマホを抱えて家でうなだれていると、強い酒を片手にあざとい服を着た I が話しかけてくる。
甘ったるいチェリーのような香りがするのは、そういうタバコを吸っているからだろう。
「ん? Kの話?」
「また、スマホ盗み見たでしょ。」
「あ、ばれた?」
I は悪びれずに言う。
性格が悪くなった上に元が噂好きなので、タチが悪い。
「私もあの話は調べたけど。Kって子、終わってるよね。」
こいつ本当に教員免許とるつもりなの?
「いや、だって。無理じゃん。」
そう言って、I は酒をあおり、細い葉巻のようなものに火を付けた。例のチェリーの香りがするやつだ。
「無理って何が?」
「私がその父親だったら、耐えられない。Kを連れてどっかに逃げるもの。」
「だから、Kに学校教育の機会は与えられないし。字もろくにわからないまま大人になる。」
は?
どういうこと?
I が覚えの悪い子供を見るような目でわたしを見て、目頭を指でつまみ、煙を吐く。わたしはイライラしながら突っかかった。
逃げる?
逃げるって何から?
「そりゃ、児童相談所とか。教授とか。警察とかでしょ。」
なんでそんなことするの?
「え、なんでって。恥ずかしいから。」
「まともに子供に教育を受けさせていないと批難されるのは恥ずかしい。」
恥ずかしい。
は? そんな理由で?
「そんな理由? 立派な理由だよ。頭のいい学者先生とか、児童相談所の職員とか、偉そうな警察とか、よってたかってやってきてぐうの音も出ない理由で、プライドをボコボコにされる。それも、頭を下げて、今まではダメでしたが、これから心を入れ替えてがんばります。と言わなきゃいけない。それも、言うだけでなく、行動も求められる。大の男がこれをやられたら、たまらないでしょ。」
「あ、正しいとか、間違ってるとか。そういう話じゃないから。傷つきたくない、嫌な思いをしたくない、そう思えば人は逃げるよ。嘘だってつく。当たり前じゃん。どっかの誰かが押しつけてくる正しさより、自分のプライドでしょ?」
ぐうの音も出ないのはわたしの方だった。
なぜわたしはこれに気づけなかったのだろう。
「んー。心が綺麗すぎたんじゃない? 大人がそんなにひどいことをするわけないと無邪気に信じていたとか。そこらへんじゃないの?」
I の笑みに、気圧される。
これまで見ないようにしてきた内面をえぐり出されるようだ。
「図星か、傲慢だね。あんた昔はそんなじゃなかったのに。変わっちゃったよね。」
I は残念そうに笑うと、蕩々と歌うように語り出した。
「過ちは正されなければならない。間違いを認めるのは当然。悪事を成したら悔い改めて、正しく生きる為に努力する必要がある。まぁ確かにそうだけどさ。みんながみんな、そんな風に正しく生きられるわけないよね? 面倒くさいし。」
「そういう、正しく生きられない人を想定していないからそんなことになるんだよ。あんたの中じゃ、そういう人間はこの世に存在しなかったってだけでしょ。うわー、傷つくわー。ちゃんと生きられない人間だって、いるのにねー。私みたいに。」
I が酒をあおる。
「少し考えればわかることよ。女のところに転がり込んだ男が次に何をするかって、別の女のところに転がり込むしかない。素性はどうあれ、ここまで育てるのに金も時間もかかっているわけだから、子供を手放そうとは思わない。だから連れて行く。自堕落な人間はサンクコスト効果からは逃れられない。」
「ただ、Kとその父親からすれば、これまでと同じ事を繰り返すだけなんだよね。それにさ。そもそも、ケースワーカーに伝えた名前、本名なわけないじゃん。どうやって追うの?」
I はすっかり堕落したものだと思っていたけど、そんなことはなかった。むしろ、わたしよりも遙かに人の弱さを理解している。
勝手に人をバカにして、距離をとっていたのはわたしの方だ。
人に頼ることを恥じて、自分でなんとかしようとして、何もできなくて。結局逃げてしまうのは、Kの父親もわたしも同じなのだろう。
こんなことはもう、終わりにしなければ。
「え、最後にKに会いたい? 普通に会ったらいいじゃん? ただ、会いたいなら急いだ方がいいと思うよ。明日にはいなくなってるだろうし。」
I は何の気なしにそう言った。
わたしが息を切らして夜の公園に辿り着くと、シューと。殺虫剤の音がした。
半袖短パンに汚れた帽子、Kがアリを皆殺しにしている。
こちらの様子に気づいても、Kはアリを殺すのをやめなかった。
なぜ殺すのと聞くと、Kは「かわいそうだったから?」と言った。わたしの胸中に道徳的なあれこれが渦巻いて、それでも口から出てきたのは「そう」なんて二文字だけ。
そうこうしているうちに、アリはすべて死に絶えた。
アリの死の行軍は最初に見た時より随分大きくなっていて、早い段階で皆殺しにしていれば、ここまで大きな被害にはならなかったことが容易に想像できた。
Kは帽子を脱いで、髪をかきあげると、月明かりの下でこう言った。
「私、もう出て行くから。何でも聞いていいよ。」
ジュースを買って、二人で公園のベンチに座る。
「服? ああ、父さんが恥ずかしがって女のを買わないだけだよ。ワンピースは捨てられた。ていうか、あの日すごいお腹殴られたんだよね。人から物を貰うなって。お姉さんたちは良いことしたつもりだったかもしれないけど。こっちは良い迷惑だよ。」
これまでのKとは思えないほどの饒舌さに、まず驚いた。
Kはしゃべることが苦手だと思っていたけれど、実際には不都合なことを言わないだけだった。
「そもそもさ。お姉さんたちが通報したから、私出てかなきゃいけなくなったんだけど。どうしてくれんの? ねえ、どうするの?」
……すみません。
そんな言葉しか出てこない。情けない限りだ。
最初はKをどうにか説き伏せて、児童相談所に保護してもらおうと思っていたものの、すぐにそんなことは無理だとわかった。
「これまで勉強とか全然してこなかったのに、今更じゃん。みんなが何年もかけて学んだことを、一気に勉強しなきゃいけないんでしょ? ヤダ。それに私のせいじゃないし。面倒くさい。」
Kは学ぶ気がないのだ。
Kの父親も学ばせる気がない。
勉強嫌いな子供はいくらでもいるけど、それでも学校に通うことで学びの機会を得る。本来あるべき機会が与えられないと、こうなるのか。
学校に行っていないと将来大変だよ。なんて言葉はKに通じなかった。将来なんて遠い先のことはわからない、そんなことより今の方がずっと大事なのだそうだ。
「あんまりしつこいと、帰るよ。」
そう言われると、強く出られなくなってしまう。
Kを変えてやろうと思うこと自体が間違いなのかもしれない。
「もう、質問はいいから。黙って聞いて。」
「はい。」
そう言ってKが語り出したのは、とある男の子の話だった。
近所の小学生の男子らしく、夏休み初日から一週間ほど一緒に遊んでいたのだそうだ。
遊びの内容は他愛もないことだ。公園の蛇口をつかって水をひっかけ合ったり、マヨネーズの容器に水を入れで水鉄砲にしたり、コーラの空き缶でサッカーをして破裂させたり。
Kは彼のことを本当に楽しそうに話した。
これまで笑うことのなかったKが始めて笑っていた。
どうやら自覚していないようだけど、きっとこれは恋なのだろう。
でも、その恋には終わりが来る。
「あの、ごめんね。わたしのせいで。」
「いや、これは違うやつ。もう二度と会うなって、私が父さんに殴られてそれっきりだから。お姉さんに会う前に終わってるんだよ。なんなの? 私の人生ずっとこんなんかよ。」
「セミがすごいうるさくてさ。で、あの子がうちのピンポン押しまくるわけ。Kちゃんあそびましょーって。何度も何度も言うの。でも、私は父さんに殴られるから出られないでしょ。すぐ近くにいるのにごめんねも言えないんだよ。そんで、すごくセミがうるさいんだ。」
うなだれるKは泣いていた。
なんてことはない。この子にとっては学校に行くことよりも、字を覚えることよりも、計算ができるようになることよりも、たった数日一緒に遊んだ友達との別れの方が、失われた恋の方が、ずっとずっと一大事だったのだ。
今回だって、誰かに聞いて欲しかっただけなのだ。
わたしは何もわかっていなかった。
今思えば、出会った当初元気がなかったのも当然だ。Kはその時、ちょうど失恋直後だったのだから。
その話をきっかけに、わたしとKは仲良くなった。
あまりにも遅い進展だけれど、何もないよりマシだ。
わたしはKを騙して警察に引き渡すつもりでいたのだけれど、そんな気はもうなくなってしまった。
わたしはKと間違えることに決めた。
本当に行きたい場所がそこでなくても、この先にある未来がロクなものでないとわかっていても、今この時を共に過ごすことに決めた。
きっと未来のKは後悔するだろう。
わたしも後悔するだろう。
問題に気づきながら、気づかないフリをしている。
教師を目指す者としても最低だ。
でも、それでもいいと思った。
わたしのとっておきの恋の話や、どうしようもなかった失恋の話をした。Kは興味津々になって、互いの苦しみを共有した。
それは甘い棘となって、わたしたちの心を傷つけ。傷口からは黒いタールのようなものが流れた。醜くも愛おしいその時間は何にも代えがたいもののように思えた。
でも、これは二人だけの秘密だ。
Kの抱える事情についても話してくれたけど、どこまでが真実でどこまでが嘘なのか、判然としない。
言葉のままに捉えるなら、今の「父さん」の前に何人も父親がいることになるし、最初の両親は何らかの事件に巻き込まれて死亡している上に、犯人が捕まっていないことになる。
しばらくどこかの大学生と同棲していたり、高齢のタクシードライバーと生活していたようだけど。それって普通に拉致だ。
よく今まで生きてこれたね。
「なんだよ。さわ、さわんな。」
なでようとしたら、払いのけられた。
捨て猫のように警戒されて、少し笑ってしまった。
気がつくと。空が白んで朝になっていた。
夜通し話をしていたらしい。
「まぁ、そんなわけだから。私は大丈夫。」
一体何が大丈夫なのか。
そんなことを思いながら、でも口には出さずに。わたしは手を振った。
Kとはそれきり会っていない。
二度と会うことはなかった。