願いの成就
ランバート殿下と婚約したことで、わたしの生活はがらりと変わった。
まずは、王子妃教育。
ランバート殿下は王族に残らないので、第一王子第二王子の婚約者よりも緩いらしい。なので、前回少し受けたことを復習する程度。これは正直に言って、繰り返しの記憶があってよかった。流石に十歳の子供には難しい内容なの。
それはまだいい。わたしだけの話だから。問題はお茶会。
前はすでに引きこもり骸骨殿下と名高かったが、今回はまだきらきらの王子様状態である。
当然、格下の伯爵家の娘にとられた名門の令嬢たちの気が済まない。毎回、意地悪と悪口付きである。
これが本当に十歳だったら、泣いて喚いて五倍返しにしていたところだ。
わたしは見た目は子供だけども中身が大人だから、子供の戯言なんて、と笑顔で躱している。
そんな余裕ぶったところもいけなかったのか。
ばしゃりと頭の上からお茶が注がれた。子供の舌に合わせているのでやけどをするほどではないが、それでもそれなりに熱い。
ぽたぽたと前髪を伝って落ちてくるお茶を眺めた。
「あら、ごめんなさい。そこにいらしたのね。カップかと思いましたわ」
「すっかり濡れてしまって。ああ、でも。そのドレスの色、紅茶色に染まって、とっても似合うようになっていましてよ?」
おほほほほほ、と笑い声が響いた。俯けば、確かにドレスの色が変わっている。
はあ、どうしよう。怒ってもいいけれども、悲しみの方が強い。
このドレス、大騒ぎしてランバートが贈ってくれたものだ。いらないと言ったのに、婚約者に贈るのは男として当然だ! とか言い張って、恥ずかしいほど彼の色、つまり美しい紫色のドレスを贈ってきた。
それがお茶色に染まってしまっている。
ぐっと拳を握りしめた。相手は子供、わたしは何度も繰り返している大人、と言い聞かせてみたがそんなことでこの悲しみが癒えるわけがない。
このままではいけないと、立ち上がろうとしたときに。
ばしゃああん。
大量の水がばら撒かれた音がした。
「きゃああ! 冷たい!」
「濡れたわ!」
わたしをあざ笑っていた令嬢達の阿鼻叫喚が聞こえた。
驚いて顔をあげれば、ずぶ濡れの令嬢達がいる。しかも水だと思っていたけれども、どろりとしていて、なんだか気持ちの悪い粘りがあった。
「貴様ら、今回の件はこれで相殺してやる!」
大きなバケツを片手に、わたしを庇うように立ったのはランバート殿下だった。ランバート殿下は令嬢達を睨みつけている。どうやら先ほどの様子を陰で見ていたようだ。
まさかランバート殿下本人に見られているとは思っていなかった令嬢たちは茫然としている。
「今までもミシェルが大丈夫だというから、放置していただけなのに。随分と好き勝手しやがって」
ぐるぐると唸るランバート殿下は非常に頼もしかった。ぼうっとしつつ、座ったまま彼を見上げれば、にこりとほほ笑まれた。
「着替えないといけないね。さあ、帰ろう」
「ええ、では馬車を」
「伯爵家じゃないよ。僕の離宮に行くからね」
甘々にささやかれて、ぽんと顔が熱くなった。散々、前回の時に一緒にいたのになぜか恥ずかしい。俯いてしまえば、体が浮きあがった。
「ひゃあ!」
「君たち、もう二度と城に来なくていいから」
わたしを横抱きにすると、令嬢にとって恐ろしい命令を口にした。
「そんな!」
「だって、こんなにも小さな令嬢に悪意を向けて、笑っていられるような性格の悪い令嬢なんていらないだろう?」
小さい令嬢……確かに間違っていない。わたしはまだ十歳だし、相手の令嬢たちは上は十五歳から一番下でも十三歳。
「待ってください! 謝罪しますから……」
「条件付きの謝罪なんて意味ないよね」
それ以上聞くことなく、ランバート殿下はわたしを抱き上げたまま歩き出した。
「遅くなってごめん」
「ううん。わたしもお茶を掛けられるなんて思っていなくて。来てくれてありがとう」
泣くつもりなんてなかったのに、いつの間にかぽろぽろと涙がこぼれた。
わたしは何度も繰り返していて、気持ちはもう大人なのに。どうしたことか、涙が止まらなかった。我慢しようとすれば、喉の奥がツンとして余計に涙が溢れる。
「ごめんなさい。大人なのに」
「ミシェルはまだ十歳だよ。あんな恐ろしい目に遭ったんだから、泣いたっていい」
そんな優しいことを言われてしまえば、ますます涙は止まらなくなる。ランバート殿下はぎゅっと抱きしめる腕に力を入れた。
「ミシェルはこんなに小さいんだな」
しみじみと呟かれた。思わず顔をあげれば、優しい顔でこちらを見ているランバート殿下がいる。見慣れた顔なのに、急激に恥ずかしくなった。
「え、っと。もう一人で歩ける……」
「離宮まで距離があるからね。このままで」
心臓が破れそうなほど煩い。
誤魔化すように俯いて、小さくなってみた。しばらくそのまま沈黙が続いた。規則正しい足運びで、そのうち気持ちのゆるみと彼から伝わる温かさでうとうとし始めた。
「前回のやり直しのこともあるからだとミシェルは思っているかもしれないけど。僕は君がいいと思っているんだよ」
「ランバート殿下?」
何の話だろうと眠い目を上げた。
「さあ、着いた。着替えさせてもらおうね」
ランバート殿下の離宮に着けば、すぐに侍女たちによって綺麗にされた。侍女たちは令嬢達にぷりぷりと怒りながら、わたしを綺麗にしてくれる。
「まったくどんな悪魔でしょうね! こんな可愛らしいご令嬢にお茶をぶちまけるなんて!」
「本当に。ぬるめのお茶だとは言え、赤くなってしまっています」
子供の肌は弱いのに、とこれまたいつも世話を焼いてくれる侍女が丁寧に軟膏を塗ってくれる。
「あ、ありがとう」
怒ってくれたことが嬉しくて、またもや涙が溢れてきた。ついでに鼻水も出てきてしまって、鼻をすする。
「怖かったですよね。でも大丈夫です! うちの殿下はミシェル様にメロメロですから、危険物は排除してくださいますよ」
「それでもだめなら、その上、という手も」
侍女たちが恐ろしい相談を始めた気がする。よくわからなくて、スンスン泣いていれば、抱き上げられた。
「綺麗になったね」
「ランバート様」
殿下を使わずに名前を呼んでみれば、ふわりとほほ笑まれた。
「うん、いいね。やっぱり、僕はミシェルを愛している」
頬にチュッとキスをされて、真っ赤になってしまった。
◆
のんびりと、ランバート様の婚約者として王子妃教育をしながら、過ごしていたある日。
ランバート様がずいっと何かを目の前に差し出してきた。近すぎて、よくわからない。
「殿下、近すぎます。もう少し離さないと見えないですよ」
いつも冷静な侍従が注意する。彼はランバート様がわたしのところに押しかけた時に対応してくれた侍従だ。いつもわたしのことを気を配ってくれる。優しいおじいちゃんと言った感じ。
「ああ、すまない。ちょっと緊張して」
そんな言い訳と共に、少しだけ距離ができた。ぼんやりと何か大きいものがある認識程度のものが、ちゃんとした形になる。
「……ゴン?」
ランバート様の宝物であるクマのぬいぐるみ「ゴン」よりも小さめ。
そして何よりも赤いリボンが片耳と首に、そして右手にうもれるようにして何やら腕輪がついている。
「エリーだ。ゴンの恋人だ」
細かい設定に微妙な顔になったが、あえて何も言わなかった。差し出されたということは受け取っていいということだろうと、そっと両手を出す。その手に渡されて、まじまじと見つめた。
ゴンと同じフォルムに、口からはだらしなく伸びた舌。
「これ、側室様の手作り?」
「そうなんだ。ゴンと一緒にもらったことを思い出して探してみた。僕は男だから、ゴンだけを飾っていたんだ」
照れながらそんなことを言う。
可愛い、と言えたらよかったのだけども。
多分、絶対に言えない。
「エリーも……意思が強そう。すごく、りりしいわ」
「そうだろう。ゴンとよく似ている。きっとミシェルを助けてくれるよ」
それは似ているだろう。サイズを小さくして、女の子っぽくリボンや腕輪をしているだけなのだから。
それ以上何も言えなくて、必要以上にエリーを弄ってみた。リボンは可愛らしく白色で縁取りがしてあるし、腕輪も本物だ。沢山の宝石がついていて、値段は考えない方がいい。そっと目を逸らせば、首のリボンにも宝石が使われていた。毛が邪魔で埋もれているが、これも本物っぽい。
「……ランバート様。探している側室様の宝石、色は何色でしたか?」
「色は確かグレーのピンキーリングだ」
「これでは?」
エリーの首のリボンに巻き付いている宝石をよく見えるようにしてから、目の前に差し出す。
「似ているけど、違うような?」
「違うと思うのはどうして?」
「宝石の中に星が見えていて、それが特別だと母上が」
星が見えると言われれば見えない。
違ったか、とがっかりすれば、静かに控えていた侍従が声を挟んだ。
「光に当てると星が見えますよ」
「光?」
二人で侍従を見れば、彼は頷いた。
「ええ。光の加減で星が見える宝石が一時期流行りました」
ランバート様がわたしからエリーを受け取ると、首のリボンを外した。リボンに通されたリングを手に取る。そのリングを見て、侍従が目を細めた。
「ああ、懐かしいですね。殿下はそれをエリーにつけろと大騒ぎしておりましたので、よく覚えております」
「は?」
思わぬところから情報が出てきて、二人して固まった。
「覚えていらっしゃいませんか。陛下が殿下とのお約束を守れなくて、泣きわめいたのですよ。その時に、母君がゴンとエリーを殿下にプレゼントしたのです」
「……泣きわめいたのは覚えている」
ランバート様はそう言って、黙り込んでしまった。侍従はわたしにおやつを用意しましょうと言って、部屋を下がっていった。
「ランバート様、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない。こんなところにあったなんて、一度も気が付かなかった」
「前回の時、ゴンもエリーも見たことがなかったのですけど」
「流石にあの年で人形を飾るわけにはいかないだろう。この二つは大切に仕舞ってあった」
捨てたとかではなくて、単純に幼い頃を思い出さなかったということだ。今回、わたしがこの年齢で婚約者にならなければ、きっとまた忘れられていたままだと思う。
「最後の最後で見つかってよかったです」
「ああ、本当に」
ランバート様は嬉しそうに笑う。彼の笑顔が今まで見た中で一番輝いていた。
つられてわたしも笑顔を見せた。
「?」
突然、視界がぼやけた。徐々に周りの輪郭が溶けていく。ああ、もう終わるのか。今回は元の時間軸に戻るのだろう。
そのまま意識も途切れてしまうと思った最後の瞬間。
「迎えに行くから」
強く強く握られたけど、それもまたすぐにわからなくなった。