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第二話「贋恋文」  作者: 和泉和佐
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贋恋文7

―――――― 7 ――――――


 大きな屋敷の長い廊下を二人の女中が歩いていた。武家の屋敷ではなく着ているものから商家の女中と見てとれる。

「はぁ」

 年嵩(としかさ)(年上)の女中が大きく息をついた。生真面目そうな年増女だ。

「お美禰さまがお戻りですと―――色々と大変なんですね。今度は町で見かけた男を連れてこいとわめ…おっしゃっているそうではありませんか」

 もう一人がさも同情するような声音で言ってくるのを聞いて女中はもう一度深いため息をついた。

「―――」

 何かを言おうとして女中は口を開いたが、逡巡の後で再び口を開き、

「―――お可哀想な方なんですよ」

 とまたため息をついた。

 それと重なるように響いてきた激しい怒鳴り声と物音に、二人の女中はびくりと肩を揺らした。

「早く探してこいって言ってんでしょ!!!」

 女中たちのいる廊下から数部屋先の、目的の部屋からヒステリックな絶叫が聞こえる。

 部屋の中では怒鳴り声とともに脇息(きょうそく)が飛んだ。畳に転がった脇息(和室で使う肘掛け)には小引出しがついていたらしくそこから櫛やら手鏡やらの小間物が飛び出し一面にぶちまけられていた。

 投げた女は不快そうに眉をしかめ、

「さっさと片付けなさい!」

 怒鳴り付けてくる。

「も、申し訳、ござ…」

 わらわらと女中やおはしたが集まってきた。女はその様子にさらに不快感を募らせ、もう一度なにかを投げようとしたものの、手元に投げるものもなく振り上げた手をぼすりと膝に落とした。

「お美禰さま、申し訳ございませぬ。もうしばらく、もうしばらくお待ちくださいませ」

 廊下から急いで部屋に入ってきた年嵩の女中が頭を下げるのを見やった女はふんっと鼻息を荒く押し黙った。

「大体、お前があの時にしっかりと引き留めないからじゃないの! いいから早くあの方を見つけてきなさいよ」 

「今、人をやって探させてますからもうしばらくお待ち下さい」

 女中は若い主人を宥めるように言った。

「早く!早くしてよね! もう戻らなければならないんだからっ!」

 激昂していた女は多少興奮を治めると、今度は消沈したように言った。

 女、名を『お美禰の方』と言い、この商家の娘ではあるものの大奥勤めのれっきとした武家の身分でもある。今は芝増上寺への代参(御台所(みだいどころ)の代わりに参拝すること)とお宿下がり(休暇で家に戻ること)の合わせ技で大奥から戻ってきている。お美禰の方は大奥に上がる際に大身旗本の養女となっているが、元々はこの商家の主である小間物問屋・中津屋の娘である。お宿下がりとなれば一旦は旗本屋敷に入るもののそこからすぐにこちらへやって来るのである。

 お美禰の方の大奥での肩書きは御台所(将軍の正妻)付きの側小姓だ。これは町人出身の者としては破格の出世である。なにしろお目見え以上(将軍の目に入る場所で働く女性たち)なのだから。御中﨟に次ぐ役職といってよい。大奥ではお目見え以上の者にはお宿下がりなどは滅多に許されるものではないが、彼女は特別だった。

 彼女は可愛らしい容貌をしてはいたが、若さや美貌で出世できるのはあくまでも将軍付き(側室候補)であって、御台所付きでは有り得ない。もちろん御台所付きの女性に将軍の手がつくこともないではないが、それとて元々身分の高いもので固めているので支障はないことになっている。

 だが、彼女は特別だった。

【大奥御台所付き側小姓・お美禰の方】

 町人の出でありながらお目見え以上という異例の出世。まだ少女といって差し支えのない若さだが、大奥勤めとしては大ベテランの部類に入る。驚くことに彼女の大奥勤めはすでに十四年を越した―――二歳の時から大奥勤めをしている計算になる。有り得ない、普通であれば有り得ないはずだった。だから、彼女は特別なのだ。

 お美禰の方が大奥入りを果たしたのは二歳の時。両親と共に芝居見物に行った折りだった。当時、お美禰の方ではなくおみねといった彼女は本当に可愛らしい子供であった。その年齢、ということもあったが、そこにもここにもいるようなありふれた可愛らしさではなく、本当に西洋の宗教画に描かれる神の御使いにも匹敵するような笑顔を万民に振り撒く子供であった。ぷくぷくとした手足、まろい頬、キラキラと輝く瞳。物怖じすることなく振りまかれる笑顔。少々おきゃん(お転婆)なところもあった彼女はお付きの女中の手を振りほどいて芝居小屋を駆け回り、とうとう居合わせた貴人の桟敷にまで紛れ込んでしまった。

 夜も更け、一向に見つからぬ娘の安否に胸がつぶれそうになっていた小間物問屋・中津屋の主が、一人娘の紛れ込んだ桟敷が大奥御中﨟の桟敷であったことを、おみねが旗本の養女となったのを、おみねが大奥勤めとなったことを―――聞かされたのはさらに数日が過ぎた後のことだった。

 お美禰の方は大奥以外の世界を知らなかった。それが不幸だったのか幸運だったのかは誰にもわからなかった(おみね本人にもわからなかったのだから仕方ないだろう)が、大奥御用達となった中津屋にとっては幸運であり、一人娘を連れ去られた中津屋の妻(おみねの母)にとっては不幸な出来事だった。

 おみねの母が失意の内に亡くなったことが親元から離された二歳の少女をより一層不憫に見せ、おみねを連れ去った御台所付きの御中﨟を筆頭に大奥の女たちは初めて手に入れた《キャベツ畑人形》に夢中になり、少女を舐めるように可愛がったし、中津屋はおみねのどんな我が儘もどれ程の無理難題であろうとも叶えぬことはなかった。

 そんなお美禰の方が男遊びを覚えたのは去年の代参の折りであった。以来、そういった遊びを何度か繰り返していたが、今年の代参では宿下がりとの合わせ技で思いっきり楽しむ筈であった。だというのに。

「―――ああ、桔梗(ききょう)の君…早くお会いしたい…」

 お美禰の方が小さな、しかし熱に浮かされたような声音で呟く。

 それは先日、芝増上寺への代参の際に見かけた美貌の若侍のことであった。まるで桔梗の花のように凛として麗しい若侍で、お美禰の方は一目見て夢中になった。なんとしても連れてくるのだと大奥から連れてきた者たちも養女となった旗本の家の御家来衆もすべて追い払って、中津屋の自分付きの女中に声を掛けさせた。今にして思えば失敗であった。あんな悠長なことなどしていないで、護衛たちに囲ませて連れてきてしまえばよかった……

 お美禰の方はキリキリと形のよい爪を噛んだ。桔梗の君(笑)に出会ったことで本来相手をさせる予定であった見目のよい寺小姓などすっかり色褪せて見えて、中津屋の寮に引きこもっているのだが、イライラをぶつけられる中津屋の女中たちとしてはたまったものではない。

「さあさあ、おまえたち、さっさと片付けてしまいなさい―――お美禰さま、昼餉(ひるげ)にございますよ。お腹がおすきでございましょう?」

 年嵩の女中が手にした膳を並べる。お美禰の方は大奥では要職についてはいたが、まだひどく若いのだ。クゥと小さく鳴った腹には堪えきれず、しぶしぶと箸を取る。

 食事を始めたお美禰の方を見て、年嵩の女中は若い女中を廊下へ連れ出す。

「おちよ、もうここはいいから少しお使いを頼まれておくれでないかい?」

 怒られるのではと俯かせていた顔をパッとあげる若い女中。主人の我が儘を()なすには少々若すぎる。

「芝のアノ店で豆大福を買ってきてちょうだい。御方さまがお好きだからね」

 増上寺の門前町で店を構える菓子屋のソレはちょっと塩味のきいた人気の商品だった。いつもなら代参の際に買って帰るのだが、あの時はそれどころではなく買いそびれてしまった。いつものように代参を済ませた帰り、これもいつものようにお付きの者も護衛の侍もすべて帰してしまい、さていつもの豆大福を買いに馴染みの店へと向かいかけたところで、《あの方》が現れた。

 浪人のような風体(おもに髪型)だというのにまるで垢じみてはおらず、颯爽と現れた美少年。男だというのに近くに寄ればイイ匂いまでしてくるようで、目が眩むほどの美しさだ。

 久々の外出にはしゃいでいたお美禰の方が後ろから来る少年の進路をさえぎり軽く帯をぶつけてしまった時の、

『ご無礼を』

 と短く答えたその声がまた堪らなくヨカッタ(らしい)。お美禰の方は一瞬で目をハートにさせ、この年嵩の女中に声をかけさせたのである。まあそれについては後から割り込んできた色男の所為で失敗に終わりはしたが…。この女中としては慣れない真似で失敗したことがその男の所為になり、わりと本気で感謝していたりする。

 ともあれそれ以来、お美禰の方は寝ても覚めても『桔梗の君』のことばかり。かの君を連れてこいと大暴れなのである。大奥での特別扱いを受けているとはいえ宿下がりなどよくて数日、なんとしても探しだせと大変な剣幕なのである。

 ただ、お美禰の方の世話役であるこの年嵩の女中はいっそのことあの少年が見つからなければいいと思っている。宿下がりの間にハメを外す大奥の女など珍しいことではないのかもしれないが、それでも見目のよい寺小姓あたりがせいぜいであろう。役者と…というのも聞かぬ話ではないが、トラブルのもとで誉められたことではない。それこそ、この二十年後に起こる『絵島生島事件』(歴史上有名な大奥醜聞事件、関係者1400人が処罰された、陰謀説もある)を例に見るまでもないだろう。

 だから、この後、使いに出した若い女中が芝新明宮の芝居小屋で『桔梗の君』を見つけてきた時には驚きとともに深いため息をつくことになる。




 若い女中は軽い足取りで芝増上寺の参道を抜けた。

 賑わう参道の出店の数々に心が浮き立つ。頼まれた豆大福は買えたし、後はゆるゆると帰るだけ―――もしかしたら、芝居小屋に少しばかり寄り道しても怒られないかもしれない―――

「なーんて、それはないかぁ」

 独り言をもらす。

 それでも、まあ芝居小屋の前を通って帰るくらいは許されよう。今はどんな出し物がかかっているのかも確認できるし、運が良ければ人気の役者に会えるかもしれない、まあほとんどそんなことはないだろうが。若い女中はダメもとの気持ちで芝新明宮の今流行りの芝居小屋へと足を向けた。




「―――さあさあ、よってらっしゃいみてらっしゃい! 百発百中! こちらの美剣士があの小さな的へ十本(じっぽん)の小柄を一本残らず当てて見せるよ―――」



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