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第二話「贋恋文」  作者: 和泉和佐
6/20

贋恋文6

―――――― 6 ――――――


「さあさあ、本日の演目は天下茶屋(大阪市西成区の地名)でほんとにあった仇討ち騒動を取り上げた話だぁな。見ていきねえな、面白いよぉ」

 深山一座の芝居小屋の木戸番の軽快な口上を聞く者は誰もいなかった。

「………」


 客が集まらなかったという意味ではない。押し寄せた客がただ一点を声もなく見つめていたからである。


スタン!


 と、きれいに(まと)に刺さった手裏剣は棒手裏剣の一種で短刀型手裏剣である。小柄(こづか)―――刀の(さや)(つば)と同じで刀の飾り部分((こしら)えという)に差してある小さなナイフで取り外してペーパーナイフ等にも用いられる―――にも見えるが、まったく別のあくまでも投擲(とうてき)のために作られた武器である。それが的にした板に5列4段、二十本ほどが整然と並んで刺さっていた。最初の一本が的の左端に当たった瞬間、見物客から揶揄(やゆ)する声が上がったものの立て続けにその隣へ、次にはその下へ段を作る辺りになって見物客から一切の声がなくなった。しかも、そのスゴ技をやって見せているのがこれまたとんでもない美少年ときているのだから、度肝を抜かれるどころの話ではない。

 その少年、いや、おきくは懐に仕込んだ手裏剣すべてを投げ終えペコリと一礼をして、つかつかと的に近づき刺さった手裏剣を引き抜きだした。

「ウワォォォ~!」

 静まり返っていた観客が一転、割れんばかりの拍手と歓声でもっておきくを迎えた。おきくが照れたように少しはにかんで、それでも姿勢を正してもう一度ペコリと頭を下げる。

「さてさて、皆さま、当一座に新たに仲間入りしましたこの者、なんと当一座の看板女形・雪之丞の弟にて菊弥と申します。舞台には上がりませぬがこうして皆さま方のお目に触れることもございましょう故、どうぞご贔屓にお願い致しまする」

 木戸番が口上を述べた途端に、

「キャー」

 という黄色い声。さっそく『菊弥ぁ~』と声をかける女たちや、『まあ、雪之丞さまの』と頬を染める女たち。菊弥の手裏剣の腕前に感心する男たち、と菊弥の初お目見えはおおむね好評のようであった。




 そう、雪之丞が出した条件とはおきくが手裏剣の技を披露する際に男の振りをすること、だった。


 しかも―――


「おいおい、すごい人気じゃないか、菊弥よ。こりゃ、おまえにはやはり雪之丞と同じ女形の修行をしてもらわねば困るぞ。この分じゃ俺の贔屓筋っをごっそり持ってかれそうだ」

「あ、助三郎どの。何をおっしゃるやら、おやめ…やめてくだされ」

 後ろからかけられた声におきく、菊弥が振り返る。深山一座の立役者。助三がもうまもなく幕が上がろうかという慌ただしさの中から、菊弥をからかってきたのだ。とはいえ、今回の公演では助三は『二枚目』(出演者を記した看板の位置、主演俳優の看板を二枚目に掲げるのが通例で、『イケメン=二枚目』の語源でもある)ではないため、暇を持て余して新しく菊弥が始めた《大道芸による客の呼び込み》という試みを興味深く見ているようだ。

「ご謙遜だな。初日早々で座敷に呼ばれたと聞いたぞ、この色男め。さすがはユキの弟だ」

 助三の言うように、実は手裏剣を放つ菊弥の姿に見初めたとかいう大店のお嬢様がいたらしくお座敷へ侍るようにと依頼が来ていた。さすがに地元でもイケメンと鳴らしたおきく(注*女の子です)である。もっともまだ年若いこと、本式の役者ではないことを理由に雪之丞がけんもほろろに断っていたが。

 どうやら、そういう、(イロ)目当ての誘いのようであったと雪之丞がひどく怒っていたのを助三は見ていたのだ。近頃では『芸は売っても色は売らぬ』という深山一座のような一座も増えてきているとはいえ、これまでの常識では役者とはそもそもそういうものだったので、あんなに怒ることもあるまいにと助三は思ったが、あれは重度のブラコン(シスコン)だと理解した。

「菊弥、助三郎ではない、助三だ。『どの』もいらぬ。ユキの弟(?)ならばこの俺にも弟のようなものさ」

 ニカリと笑う。男臭い笑顔は菊弥と違ってさすがの本物の二枚目看板(イケメン)だ。赤くなってはダメだとぐっと菊弥はおのれの頬に手を添え、全身に力を込める。

 片桐家の娘・おきくといえば国許でさんざん若い娘たちからキャーキャー言われていた男装の麗人で有名だったが、男の振りをする難しさをここに来て痛感しているところであった。

 そう、雪之丞が出した条件は手裏剣打ちを披露する時に男の振りをするということだけではなく、この助三を五日間(今興行が終わるまで)騙しきること、だった。そのため助三が菊弥の回りをうろついていても咎める者はない。

(私は男、雪之丞の弟…)

「ん?」

 助三が菊弥の顔を覗き込んで首をかしげる。

「どうかしたか?」

「いえ、なんでも、ござり…らぬ」  

 この条件を提示した雪之丞としては女好きの助三郎のこと、すぐに見破るだろうと思ってのことだった。

 もちろん、今さらおきくを国許(くにもと)に帰そうとは思っていないし、国許での事情がそうしたものなのであれば絶対に帰しはしない、絶対にだ。ただ、ちょっとお転婆が過ぎるところのある妹に《生き馬の目を抜く》といわれるお江戸での危機感を持ってもらいたいのである。そのためにも男の振りをするというのはよい案であったが、それも中途半端な覚悟では出来ぬのだと知ってほしいという気持ちから、このような条件を提示したのだったが―――それが見事に外れたのは想定外である。

 普段から余計なところでばかり女好きを発揮する助三が見事に菊弥を雪之丞の弟だと思い込んでいる。

 もっとも助三の方としても品川に程近い道端で出会った美少年(?)との再会に驚く方が先だったのだ。そして、その美少年が雪之丞の弟(暫定)だと知って大いに納得もした。兄弟揃って罪作りな見目の良さである、と。

 そうなのだ、おきくの男の振りが成功しているのは半分は雪之丞の所為であった。おきく―――いや、菊弥の時折見せる女性らしいしぐさも、はっとするような可愛らしさも、雪之丞の弟と思うと何故か皆当然のことと流してしまうのだった。

 もちろん助三もその内の一人だ。

 雪之丞の弟を助三が歓迎しない筈がなく、おきくの方も不馴れな江戸の町で道案内を乞われて困っていた(逆ナンであることには今もって気づいていない)ところを助けてくれた男だと好感度は最初から高かったこともあり、相変わらず一切の警戒心もない全開の笑顔である。

「それより! 助三どの! 手合わせしてくださる約束、忘れないで下さいね」

 おきく、いや菊弥の言葉に助三が頷いた。菊弥は国許では道場に通っていて雪之丞も手裏剣投げならば自分より上、と言うだけあってそれなりに腕は立つし、鍛練することは楽しみでもある。今回の舞台に出番がなく暇を(かこ)つ助三も乗り気だ。雪之丞の弟ということでさぞや、とも思う。助三も何だかんだと剣術バカなところがある。

 それにしてもこの二人、いつの間にかずいぶんと仲良くなっていた。これも雪之丞の計算外のことである。確かに一座の仲間として円滑な人間関係は望ましいところなのだが、兄としてはいささか複雑ではある。助三が菊弥を弟(男)と思って接している所為で距離が近いのが困るところでもあり、男と思っているから安全(助三の女性遍歴的に)でもありというところであろうか。 

 兄の複雑な心境も知らず、二人は住居へ戻った途端に敷地の隅に建てられた道場へと向かった。元は大黒屋の寮(別宅)であったものを一座で住むようになってから舞台稽古を出来るよう(表向きは)にと作った板敷きの離れはその実、剣術の鍛練のための道場としての役割も担っている。

 芝居の公演は大体明け六つ(午前6時頃)から暮れ六つ(午後5時頃)までとなっているが、出番がなければ先に帰ったりとそこまでの時間的拘束はなく、特に助三のような『他の人の舞台を見て学ぼう!』という殊勝な心掛けの一切無い人間にとっては出番の無い興行は《めっちゃホリディ♪》なのである。もっとも助三贔屓の女性客が出番はなくとも一目お姿を…という健気な心で通ってきているので、ファンサのためにも毎日芝居小屋には顔を出してはいるが。

 そういうわけで助三としては新しく一座の仲間に加わった新人の面倒も見られるし、新人との手合わせを楽しむこともできるのだ。

 そして―――




「エイヤァァァーー!」

 大層な掛け声と木刀の打ち合う音が道場から響き始めてからかれこれ半刻ほどが経とうとしている。

「………」

 呆れたように道場の窓から眺めているのは雪之丞。だが、自身も菊弥が心配でおのれの出番が終わってすぐにすっ飛んで帰ってきたのである。間違いなく重度のシスコ…ゲフンゲフン

「菊弥、そなたはスジはよいのだがな、如何せん筋力(ちから)が足りぬな。もう少し筋肉(にく)をつけねばならぬよ」

 助三が中段に構えた木刀を素早く突きだしながら言う。 

 言いながら、おのれの木刀を菊弥のそれに合わせガッキと組み合う。軽くやっているような素振りだというのに打ち合わされた瞬間に菊弥の両の手がビリリと痺れてくるのだから、助三の膂力(りょりょく)には恐ろしいものがある。恐らく彼にとっては3割ほどの力も込めてないであろうに。

 力が足りぬと言われた菊弥だが、これでも朝倉一刀流の免許皆伝の腕前だ。剣の師匠(片桐家は元々朝倉一刀流の流派を納めた家筋だが、おきくは市井の道場に通っていた)である朝倉友晋と吟味に吟味を重ね編み出した菊弥だけの戦い方があり、それを極めた彼女に奥義書が渡されたのである。

 ただ、それが対助三戦においてはまったくといっていいほど通用しなかった。

 懐から手裏剣を引き抜く隙もなく(朝倉一刀流は手裏剣も含めた流派であり反則技ではない)、力の無い菊弥が組み合う不利を避けるために相手の力を受け流す技とて何十回・何百回と鍛練してきたというのにそれもさせてもらえず、ただもう助三の剣技に翻弄されるだけであった。

 流派が違うとはいえ(同藩だからといって同じわけではない。片桐家は朝倉一刀流で、助三は念流の遣い手。ただしその念流も正統派というよりは助三の父が独自に進化させたものでどちらかというと奥山念流に近い、剣術に体術を取り入れたような流派)、その実力差は一目瞭然であった。

 試しに菊弥は組み合わせた相手の木刀を弾くように飛ばし、もう一度相手からの一撃を促すように一歩下がった。いつもならばわざとちょっとした隙も見せたりして相手の油断を誘うのだが、助三相手にそれをするのは命取りと見て万全の態勢で待つ。

 剣を弾かれた助三はじりっと半歩踏み出した。助三の動きに合わせて菊弥も半歩下がる。それに誘われて木刀を突きだしてくるのを、おのれの木刀で軽く合わせる。あくまでも軽く―――止めるためではなく切っ先の軌道を変えるための動きだ。軌道をずらしたところで相手の刀身におのれの剣をすべらせ、手首を返す。菊弥の手首の動きは驚くほど柔らかい。しなやかでいて強い。刀身の半ばでクルリと刀を返された相手は思いがけない方向からの思いがけない強さの力におのれの刀を取り落とすのが常だ。取り落とさないまでも、十の指で握っていたものを一でも二でも外すことが出来ればそれで構わない。

 クルリと返した手首をさらに返して、峰を使って相手の刀身を思いっきりぶっ叩く!

「えやぁぁぁー!」

 菊弥は気合い一閃! 助三の木刀を自分の木刀で思いっきり叩いた。

 ―――筈だった。

「えっ?!」

「あまい!」

 言ったかと思えば、助三の木刀は菊弥の胸目掛けて―――

「あ…」

 ピタリと止まった。

 菊弥は呆然とその木刀の切っ先を見つめた。実は菊弥、兄の雪之丞に『助さんは確かに強いですけど、あの体格ですからその分、牛のように遅いんです。上手くすれば一本くらいは取れますよ』などと唆されていたのだが、とてもとても―――

(これを遅いと言えるのは兄上だからですぅ~)

 荒れ狂う内心を押し隠して、

「ありがとうございました。精進致します」

 と頭を下げた菊弥が若干涙目であったのは仕方のないことだったろう。

 まあそれでも稽古は嫌いではない。達人との手合わせでよい汗をかけたのは純粋に気持ちのよいことであった。と思ったところで菊弥はハタと気づいた、気づいてしまった。

 稽古の後というのは当然汗だくで、いつもであれば井戸端で汗を流す。国許の朝倉道場では女性の門人が菊弥一人であったことから、衝立を用意してもらっており桶に水を張ったらそそくさと衝立の奥に隠れていた身仕舞いを済ませていたことを思い出した菊弥、ついでに他の門人たちが井戸端でそのままほぼ半裸になって水をかぶっていたことも思い出す。

「ん? おい、どうした? 行かぬのか」

「ア、はい」

 菊弥の動揺に気づかぬ助三は先に立って道場を出ようとしていた。

(…ど、ど、どうしよう、ど、どうすんの、え…あれ、これって井戸端へ移動する流れ? あれ、やばくない?! 四日でバレるとか、そんな―――)

 それでも行かぬわけにはいかぬ。あたふたと菊弥はその背中を追いかけていった。




「………」

(やれやれ)

 深いため息をついた雪之丞がとりついていた道場の窓から顔を離し、二人のそのまた後ろを追いかけた。

 雪之丞が二人に追いつくと案の定、二人は井戸端でごちゃごちゃと揉めているところであった。

「なんだ、この腕は!? 細いにもほどがあるぞ。今にも折れそうではないか」

 助三が菊弥の腕を取り、袖を二の腕の辺りまで捲り上げている。菊弥は頬を紅く染め、明らかに動揺している。

 さて、考えて見てほしい。

 この時代、女性が二の腕をさらすということはほぼ有り得ない。子供やあるいは忙しく働かなくてはならない御端(おはした)(下女のことを『はしため』ともいう)ならいざ知らず、七つ八つを過ぎればどんな女児も手首より上は人目にさらさぬように気を付けている。ましてやそこを触れられるなど房事(ぼうじ)(まあ、アレです。夜の営みのことです)を行う夫以外にはないことなのだ。

 幸いにも菊弥は男物の服を身にまとっていたからよいものの(女性の着物は身八つ口(みやつくち)といって脇の下が全開なのだ)、それでも有り得ないことである。

 ただし、菊弥の服装は身八つ口から素肌が覗くことはない男物だったが武芸の稽古とあっては襦袢(じゅばん)(肌着)もなにもつけておらずただ胸にサラシを巻いているだけで、身につけた小袖とてもせいぜい太ももの辺りまでしかない短さ(足裁きの邪魔にならないように袴の下に着ける小袖は丈が短いのが普通)で―――RPGなら初期も初期、《はじまりの町》のごとく紙のような装備(ヒノキの棒でも可)なのだ。とはいえ、袴で隠れてしまうのでこれまでは気にしたこともなかったのだが。

 菊弥はカァーッと耳まで赤くしている。頭のてっぺんから湯気を吹き出しそうな様子である。だというのに、助三の方はいっこうに気づかず『稽古の後はしっかりとほぐして…』などと言いつつまだ触っている。

「………ハイ……アノ………ハイ…」

「よいか? ここをこうして……おい、なんだよ、きく坊、何を赤くなっておる」

 ようやく菊弥の様子に気づいた助三。ピタリと動きを止めた。固まったまま茹で蛸のような菊弥を見て、じわりじわりとこちらも頬が熱くなってくる。

「………」

「………」

 数秒の沈黙、お互いの顔から目を逸らすことが出来ない。それでも、菊弥はなんとか口を開き、 


「…いえ、その…なんでもございませぬ故」

 応える声は今にも消え入りそうである。

「おい、バカ者―――顔を赤らめるなと言うに……うつ、移るではないか」

 どぎまぎと助三はなんとか顔の熱を逃がそうとしているようだが―――

 と、そこへ、 

「菊弥!」

 突然、声がかかった。

 女形というにはいささか憚られるほどの大股で(←めったにしない)近づきながらこの二人の砂糖を吐きそうなやり取りに雪之丞は心の内で舌を打つ。

(っていうか、まず手を離しなされ)

 突然の呼び掛けに菊弥は文字通り飛び上がった。慌てて振り返れば、兄・雪之丞がニコニコと満面の笑顔でやって来ていた。笑顔なのに、なぜか背筋がヒヤリとして、菊弥は不思議そうにキョロキョロと周囲を見回す。

「…ゆ、雪…」

 咄嗟に菊弥の二の腕をサワサワしていた手を引っ込めた助三。口の端がひきつっている。こちらも背筋をタラリと稽古以外での汗が流れた。

「ちっ、違うぞ! これは、あれだ、ほら、アレ…そうだ、稽古の後で筋肉がツルようではな、いかんと思ってだな」

 ペラペラと喋りだした助三だが、雪之丞はそれを一顧だにせず、菊弥に向けてにっこりと笑った。

「おき、く、イエ…菊弥、ずいぶんと汗をかいて。冷えてはいけない。今日も風呂を()ててくれているようだし、ともに入ろう。久しぶりに背を流してくれないか」

 雪之丞は菊弥を風呂に誘った。もちろん、妹のおきくとは子供の頃より風呂をともにしたことなどはない。助三から引き離す方便(嘘)である。

「あ、はい!」

 助かったとばかりに菊弥はホッと安堵の息を吐いた。助三の前では着物をくつろげて汗をぬぐう訳にもいかなかったからである。だが、


「あ、でも、皆さま方がまだお戻りでは―――」

 とためらう様子を見せる。

 この時代、個人宅での風呂は中々に贅沢品である。そもそも江戸の人々は大の風呂好きだ。日に四度、五度と入るほどである。そんな人々が入るのは町のあちこちにある銭湯で、料金も八文(120円くらい?)と中々にリーズナブルで一ヶ月のフリーパス券を買えばさらにお得だった。が、個人宅での風呂となると水を組む手間と薪代、使用中は風呂の外でずっと火の調節をしていなければならないとなると、贅沢品というのも頷ける。だが、雪之丞たちの住まうここは元々大黒屋の寮(お金持ちの別荘)である。ちゃんと屋内に浴室がしつらえてあった。さすがに毎日沸かすということはないが、留守番の爺や(元は城代家老・黒木家の下男)が舞台で汗だくになって帰ってくる彼らのために風呂を沸ててくれる。

 だから新参者の自分が一番風呂をもらうわけにはいかないと菊弥はためらったが、ここ数日続けざまに風呂を沸ててくれているのは、実のところ菊弥への歓迎の気持ちでもあり、いらぬ心配である。雪之丞がその菊弥の気持ちを(おもんぱか)って、

「大丈夫、なにしろ私はこの一座の立女形ですからね。皆さまも許してくださいましょう」

 冗談めかして言うと、菊弥も笑顔になり歩き出した。助三の手はとっくに振りほどいている(雪之丞が)。

 和やかにお互いの一日を労りあう兄弟がきゃらきゃらと笑いながら立ち去っていく。

 その二人の背中を助三はぼんやりと眺めていた。

 ふと雪之丞は菊弥の後ろを追いかけていた身体を反転させた。

「!…?」

 どきりと肩を跳ねあげる助三。別になにも悪いことなどしていない。うん、していない―――と、菊弥に振りほどかれたまま空中に浮き上がらせていた右手を自分の太ももにビタリとつけて、戻ってくる雪之丞を待ち構えた。

「な、なんだ、どうした」

 雪之丞は助三の傍らに戻ると、その耳元に紅い唇をつけ、ぼそりと―――

「いやらしい」

 一言。

 『わー!ぎゃー!』と助三が大慌てで弁解をしていたようだったが、さっさと踵を返した雪之丞は一切頓着しなかった。

 ただ、湯殿の戸の前で立っていた(見張り、助三が入ってこないように)雪之丞が、菊弥の警戒心の無さ(おもに助三に対しての)をのぼせ上がるまでこんこんと説教し続けたのはさすがに理不尽だったのではなかろうか。




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