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第二話「贋恋文」  作者: 和泉和佐
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贋恋文2

―――――― 2 ――――――


「………」

 沈黙の中、和紙を繰る乾いた音だけが聞こえる。

 雪之丞は無言で早飛脚で届けられたという郷里からの手紙を読んでいた。雪之丞が手紙を読み終わる頃合いを見計らって、惣右衛門が声をかける。

「…雪や、手紙にはなんと?」

 惣右衛門の声は懐の深いその人柄に相応しく低く優しい。その労るような声に促されて、呆けたように黙っていた雪之丞が口を開いた。

「母が」

 言って、また少し口を閉ざし、

「亡くなりましたーーーいいえ。舞台の降板は致しませぬ。その必要もございませぬーーーもうすべてーーー葬儀も何もかもすべて済んだとの(しら)せでございましたゆえ」

 一息に言い切って掴んだ手紙をくしゃりと握り込んだ。

 雪之丞の母は同年代の者たちの母親よりもずっと年かさであった。雪之丞は四人兄弟で、上に姉と兄がいた。兄とでさえだいぶんに年が離れていて、その上の姉など雪之丞が物心つく頃には嫁に行ってしまっていて顔もほとんど覚えていないほどである。

 手紙はその姉からであった。

 母は年がいっている分だけ頭が堅く融通の利かぬひとだった。子供たちのしつけにも厳しかった。今、雪之丞がこうして役者をやっていることも相当な反対を受けた。なにしろ雪之丞たちの親世代にとって役者と言えば河原乞食であり無宿人であり、男娼のことであった。その常識が徐々に変わったのは本当にここ最近のことなのだ。雪之丞は二年前に母と別れたその場で家門の恥として縁を切られている。

 だからであろうか、具合が悪かったことなど、何一つ聞かされぬままだったのは。

「………」

 後悔はしていない。

「………」

 雪之丞はくるりと自分を取り囲む一座の面々の顔を見回した。

 大望を果たすその時まで、後悔などしている暇はないのだ。




 雪之丞ーーーいや、その本当の名を片桐(かたぎり)幸之進(こうのしん)という。

 片桐家はもともと二年前にお取り潰しとなった秋山藩の剣術指南役を代々務めてきたお家柄であった。ただ、幸之進が幼い頃に剣術指南役であった父親が病没し、兄も元服したばかりだったことから別のお役目に就かせていただき、剣術指南のお役目は担ってはいなかったが。

 秋山藩は山深い片田舎の小藩であった。小藩で領地は山ばかりで田畑は少なかったものの山から採れる恵みが豊富にあり炭焼き・木工細工なども盛んだった。しかも、米以外は石高に含まれない(幕府に納める税金の対象外)ため、藩財政はそれなりに潤っていた。藩主の人柄もよく善政を()いており、民にも慕われていた。問題と言えば、藩主の祖父が家康公のお側近くで槍を振るったというのが自慢で、家康公が天下人になった時に賜った黒唐津の茶碗をことあるごとに人に自慢しまくっているというのだけが玉に傷、というぐらいである。

 だが、それも二年前のその日にすべてが崩れ去った。

 参勤交代で江戸に赴いていた秋山藩主・浅川正信からの早馬が到着したあの朝、それが事件の始まりだった。江戸藩邸からの使者は藩の宝である例のアノ《黒唐津の茶碗》を江戸へ急ぎ持て、という藩主の言葉を告げた。正信のいつもの話を耳にした将軍に見せてくれるように求められたという。城代家老の黒木惣左衛門(そうざえもん)は厳重に保管されていた茶碗を自分の部下である片桐幸太郎(こうたろう)に持たせ、取り急ぎ江戸へ出立させた。

 だが―――

 茶碗は江戸へ届かなかった。

 そして―――

 将軍の勘気を被った藩主・浅川正信は身の潔白を晴らすため腹を切った。

 

 以来、片桐幸之進を始めとした深山一座の面々は浪々の身となったのだった。




「急ぎ国許へ戻るとよい」

 優しくそう声をかけてきた今は深山一座の座頭・惣右衛門である人を、元は秋山藩城代家老・黒木惣左衛門だったその人を、雪之丞は涙の膜の張った瞳でうるりと見上げた。この人だけがあの混乱の坩堝のようだった時に藩士たちをまとめあげ、すべての煩雑な物事を納めるところに納めた。

 彼はすべてが片付いた後で一部の藩士たちとともに秘密裏に江戸へ出てきたのだった。なんなら城代家老・黒木惣左衛門は今でも国許で門を閉ざし隠遁生活を送っている、ことになっている。

 黒木、いや今は座頭・惣右衛門である彼の言葉に、

「いいえ―――いいえ」

 雪之丞は女髷ががくりと崩れてしまいそうになるほど頭を横に振る。

「………」

 俯いて沈黙を続けた後でゆっくりと顔をあげると、

「本当に、大丈夫でございますゆえ」

 寂しげな顔でそう言った。

 そっとため息をつく惣右衛門。雪之丞を、本人の熱意に押されたとはいえ、江戸(こんなところ)までつれてきてしまったのは己である。

「そちらの手紙は?」

 何か、雪之丞の気持ちを慰めるような言葉のひとつもありはしないだろうかと、もう一通の手紙を示す。

 手紙は二通あった。片方は通常の、もう片方は早飛脚で。時間差で出したものであろうが、何処かの問屋場(といやば)で気を利かせて一緒に持ってきたのであろう。よほど慌てて書いたものと見え、同じ筆跡であるにも関わらずたいぶんにかすれ乱れている。

 はっと気づいたように雪之丞ももう一通を手に取りバサバサと広げ、そのまま無言で読み進めている。

「如何いたした、手紙にはなんと?」

 手紙を読み進めるうちに明らかに顔色を変えた雪之丞に周りが口々に声をかけた。手紙を持ってきた大黒屋の主人・清太郎も心配げに眉根を寄せている。

 声をかけられた雪之丞は珍しくも呆けた様子で無意識に口を開いた。

「…おきくが…」

 おきくというのは雪之丞いや片桐幸之進の妹の名である。国許では大層な美しさと強さ(片桐家の方針でおなごながらに剣術を修めている)と評判であった。雪之丞にとって、嫁に行って片桐の名を名乗っていない年離れた姉を別にすれば、今となっては唯一の肉親である。

「おきくどのが?」

 雪之丞の呟きを拾っておうむ返しに問い返す周囲。それに対して呆然と返す雪之丞。

「―――江戸へ―――向かっている、と…」




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