贋恋文15
更新できました_(^^;)ゞ
―――――― 15 ――――――
「………」
菊弥は薄目を開け、慎重に己の状況を確認することに努めた。旗本屋敷に連れ込まれ、当て身を食らったところまでは覚えている。
駕籠に乗せられたまま門を潜った時点で警戒はしていたのだが、まさか駕籠を降りた瞬間に当て身を受けるとは思わずに油断していた。
意識を取り戻した菊弥はすぐには目を開けなかった。身動ぐこともせず冷静に状況を分析する。
(腹の空き具合から見て、数刻ほどしか経っていないようだ)
手も足も拘束されていない。懐中に忍ばせていた短刀はさすがに盗られているようではあるが、そこは仕方がないだろう。
(母上の形見だったのに)
「………」
怪我も―――無い―――身体中の何処にも痛みの走る箇所は―――無い―――身体中の何処にも違和感は―――無い―――
「…ッ…」
菊弥はどっと押し寄せる安堵感に全身を痺れさせた。女性が拐かされた時、あるいは自身の意図しない失心から目を覚ました時に一番に不安に思うこと―――その不安が解消されたことで菊弥はほっと胸を撫で下ろした。
気を取り直した彼女は次に全神経を気配を探ることに注力した。
「………」
ふと彼女の鋭敏な嗅覚が嗅ぎなれない匂いを感じる。
《気配》というのはけして第六感的な何かであったり神秘主義的な何かであったりするわけではない。視覚(この場合はあえて閉ざしているため除外されるが)・聴覚・嗅覚・触覚といった人間に備わる五感のうちの四感を極限まで鍛え上げ、それをもってして生体の発する違和感を感知するということなのだ。生体の発する違和感とはすなわち呼吸音であったり体温であったり、そして臭いであったり。
菊弥が強く感じ取ったのは煙草の臭いだった。
(いる…)
すぐ傍らに誰かのいる気配がする。
煙草は、種子島に火縄銃と共に伝来して以来広く浸透し日本独自の進化を遂げ、毛髪並みに細く刻んだ細刻み煙草へと進化した。そのおかげで日本では煙管の小型化軽量化が進み、元禄のこの頃には歩きタバコの禁令が発布されたというのだからその馴染み具合は驚異的であった。
が、菊弥の周りでは煙草を吸う者が一人もいなかった。当たり前である。武芸を極めようという者なら己の気配を喧伝せんとばかりのものを嗜もう筈がない。だから、正直いって鼻が曲がりそうなほど、
(臭い)
と思ってしまった菊弥はけして悪くない。これは気配を読むとかそれ以前の話だ。今回の件に相応の武士や忍が関わっているかどうかはまだわからないが、少なくとも見張りにはそういった心得がなさそうだ。だからといって油断していいものではないのだが、菊弥はここであまりの臭さにうっかり顔をしかめてしまった。
「気がついたか」
案の定、見張りに意識を取り戻したことを気づかれた。
見張り、頬傷の男は菊弥を見るとコンッと煙管をたばこ盆に叩きつけた。菊弥が臭いと思ったのも道理で、今まさに煙管を口から離し《ぷかぁ~》とやっていたところらしい。
「…う、…ここは…?」
菊弥はさもたった今意識が戻りましたという態で小さく呟いてみる。男はあまりものごとを深く考える性質ではないようで、特に気にした風ではなかったものの、さすがに場所を特定させるようなことを漏らしはしなかった。
その代わりに、
「いいか、これからここにある御人が来なさる。おまえのやることはここでその御人を、まあなんだ、楽しませてやるこったな」
と菊弥がこれからするべきことについての説明をした。
「楽しませる?とは?―――どなたかは存じませぬが接遇せよということですか?」
菊弥が相手の要求に対して正確性を期すための問いかけを発した瞬間、相手が物の見事に固まった。固まった後、チッと舌打ちが入る。
舌打ちの後で男は深いため息をもらし頭をかきつつ、
「チッ、メンドクせぇな。あのなぁ―――あー、おまえ、その、なんだ―――あー、おまえ、女は知ってっか?」
と言った。それを聞いた瞬間、今度は菊弥が固まる番であった。ぱかりと口を開け少々間の抜けた表情を晒すことになった。
菊弥とて年頃のおなごである。少なくとも男の言葉の意味がわからないほど子供ではない。男装をすることでそういった話題を振られるという弊害も経験している。具体的にはまさにこれとそっくり同じ問いかけを数日前に助三に聞かれた、という経験である。(その時は猛吹雪を背負った笑顔の雪之丞が現れたことで、回答は保留された)
と同時に菊弥は自分が女であることがバレていないことに気づいた。
バレていないのなら全力でそれに乗っからせてもらおうと、菊弥は即決した。懐中を探られた(短刀を盗られた)のに何故バレなかったのか(ナンデデショウネ)と多少モヤモヤするものもあったが、そこは一旦置いておくことにした。一度こうと決めれば肝が座るのが菊弥の強みだ。男のフリなら十八番である。
「う、と、あの…ハイ」
が、そうは言ってもあまりにも恥ずかしい内容に自然声も小さくなる。もじもじと頬を赤らめながらの受け答え。これが逆に効を奏したのであろう。色事を覚え始めたばかりの、《オトコ》になったばかりの、ソレに見えたらしい。
「―――さすがに役者の子はマセてやがる。声も変わらねえうちからよくやるぜ、これだから役者ってのは、ケッ」
再び舌打ちをする頬傷の男。呆れ返ったような視線を受けて菊弥は身の置き所なくもじもじと顔を背ける。菊弥を少年と見るならば背も低く横幅も小さく声も高い、多く見積もっても中学生程度にしか見えないわけである。
とはいえ、菊弥としては女とバレないようにとするなら、肯定する方がよかろうと思ったわけで、話の先がどうにも微妙なところに落ち着いたのは菊弥の責任とは言えないだろう。だがまあ、やくざ者に役者の不道徳について説かれても、というところだ。
「まあいいや。雄しべと雌しべの話からせにゃならんかと思ったが、それよりゃマシか」
頬傷の男が独り言ちる。実のところ性教育からしなければならないかとげんなりしていたのだ。これがもう一人の大男の方であったら喜んで菊弥にナニからナニまで指南をしようとしたかもしれないが、その危険性も含めてこの男が残っていたのである。
「御方様はもうすぐ来なさるだろう。おまえは御方様を悦ばせてやりゃあいい、わかったな―――そしたら帰してやる」
頬傷の男はそう言った。
「そ! そんな理由でこのような大それたことをっ!」
「あー? うるせえな。世の中はな、金さえありゃなんでも許されんだよ、そういう風に出来てんだ、覚えとけ。帰してやるって言っんだ、文句はねえだろ」
頭を掻きながらどこまでもダルそうな態度の男に、菊弥は口をつぐんだ。それがこの男の価値観、人生観なのだ。何をどう言ったところで相互理解は得られまい。
男は用が済めば帰すと言ったが、菊弥はそうは思わなかった。ここはおとなしくしておくべきであろう。
「………」
「わかったな?」
男の言葉にこくりと菊弥が小さく頷く。それを見て、男は部屋を出ていった。
緋色の布団に枕が二つ
残されたのは菊弥一人。助三相手の茶番と同じことが始まる、今度は命がけだった。
みんなも、自分の意図しない意識喪失(泥酔含む)には気を付けようね。特に女の子ね。