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第二話「贋恋文」  作者: 和泉和佐
13/20

贋恋文13

―――――― 13 ―――――― 


「チッ! くっそぉー、どこに消えちまったってんだっ!」

 小平太は地面を蹴り上げながら舌打ちを鳴らした。菊弥が代筆に赴いた旗本屋敷から程近く、菊弥を乗せたと思われる駕籠の目撃情報を追っていた小平太である。

 菊弥がいなくなったのはまだ日暮れ前であったこともあり、駕籠を見たという者がいたのは幸いであった。が、ここに来てそれもまったく無くなってしまった。

 小平太が歩いているここは菊弥が連れ込まれた愛宕下の旗本屋敷から程近い小道である。

 愛宕下から芝居小屋のある芝へはほぼ一直線の位置にある。ただし江戸城の御堀やらそこから水を引いた堀割やらに迂回させられることもあり、正確に一本道かと言えばそうではない。菊弥を乗せたと思われる駕籠の目撃情報、途中まではそれなりにあったもののそれが一切入らなくなったのは、おそらく途中で道を変えたのであろうと思われていた。

 だが、目撃情報はどれ程細かな道に入ろうともそれからまったくもって得られなかった。第一、駕籠が路地裏に入れるわけがないし中に乗っている(と推定される)菊弥とて黙っているわけがない。

 まるで煙のように消え去ってしまったかのようだった。

「くそっ」

 言いながら蹴った小石ががさりと草むらに飛び込みその後にコロコロと転がり、ぼちょんと音を立て堀割の中に落ちた。何気なくそれを目で追っていた小平太だったが、ハッと気づいて足を止めた。緑の草むらの向こうに見える藍色の―――

「………」

 草むらに分け入り太い木の幹に手を掛けて身体を支え川の中を覗き込む。

 小平太がそこに見たのはバラバラに打ち捨てられた駕籠の残骸と、水に沈む深藍色の半纏だった。



「雪さん!」

 大きな声を上げたおことに雪之丞はハッっと顔を上げた―――そこへ、

バシィィ!!

 と音を立てて炸裂したのはおことの手にしたお盆だった。

「イッタァ! 何をなさる!」

 思わず上がった雪之丞の悲鳴におことは負けじと睨みつける。

「化け物が居たから退治してやったのよ!」

「、ば、化け―――」

 絶句する雪之丞。菊弥の姿が見えなくなってから一睡もしていないおかげて生来の色白を通り越して青白い顔をしている。飯粒一つ口にしておらず心なしか頬の線も痩けたように見えた。髪もほつれ、まるで病人のような有り様である。もちろん、着替えることもしていないから昨日、芝居小屋から帰ってきた時のままの格好だ。

 おことや周りが何度も休むように言ったが、その余裕が雪之丞にはなかった。

―――だが、しかし、だからといってもあまりの言いように雪之丞は抗議の意味を込め、おことに視線を向けた。

 おことは昨日以来、ようやく合わせることのできた雪之丞の目線にホッと安堵し、雪之丞の肩にそっと両手を置いた。

「お着替えしてらっしゃい、そして…お髭も当たってきた方がよろしくてよ、『雪之丞さま』?」

 役者の、女形の名前である『雪之丞』の名をことさらゆっくりと口に出すおこと。思いの外近くにあるその顔にうっかりと頬を染めた雪之丞だったが、次の瞬間にはサァーッと顔を青ざめさせた。

 パッと両手で頬を包む。ざりりとした違和感。

(き、着物は―――)

 慌てて見下ろした自分の格好は―――雪之丞は絶望した。

 芝居の衣装ではないものの女装姿のままなのである。

(化けも………)

 雪之丞はバッと音がする勢いで立ち上がると、一目散に部屋を出ていった。

「―――やっと行きましたねえ。ついでに少しはお休みくださるとよろしいのですが」

 そう言ったのは、大黒屋の清太郎(贋物屋のツルである大黒屋巳之衛門の息子で大黒屋の主人)だった。ずっとここに詰めているわけではないが昨夜から何度となく出入りをしているうちの一人だ。菊弥がなんの目的で拐かされたのかがわからぬ以上、あらゆる可能性を探ってくれているのである。


 深山一座への妬み嫉みか、贋物屋に対する恨みか、はたまた旧秋山藩に関わることなのか……


 各自が各自の出来ることをするために忙しなく動いている。座頭の惣右衛門や助三、雪之丞は各所からもたらされる情報を待ち、それらを取りまとめるために待機しているところだ。菊弥の兄である雪之丞にとってその時間がたまらなく辛いであろうことは、この場にいる誰しもが理解している。なんと言っても雪之丞はつい先日、母親を亡くしたばかりなのである。菊弥が江戸へやって来たどさくさで悲しさも何も紛れてしまってはいたが、その死に目にも会えなかった後悔も、その選択を母にさせてしまったという罪悪感も、雪之丞の中ではまだ真新しい傷であり癒えてはいない。

 菊弥を心配する心はもちろん、おことも同じであった。まだ出会って間もない彼女ではあったが、まるで姉のような、すっかり心を許した友人のような―――

 その彼女が今ごろどんな状態に置かれているのか、それを考えるとジクジクとした不安が胸の奥からせり上がってくる。この時代、営利誘拐という概念はまだない。誘拐の目的のほとんどは女・子供を悪所へ売り飛ばすためだからだ。女ならば(子供であっても)岡場所へ、子供であれば労働力として。その方が身代金を要求するよりも手っ取り早く金になる、そういう時代でもあった。菊弥のように多方面から拐かしの理由が出てくる方が珍しいのである。もっとも今現在、どの方面からも有力な情報はもたらされていない、表からも裏からも。

 それに、男とはいっても菊弥のように見目の麗しい少年(助三はいまだに少年と思っている、というか誰も心の余裕がなくそのことを忘れ去られている)の場合は好事家相手に売り飛ばされるという心配も出てくる。一刻も早く菊弥を見つけねばならない。それだけは確かだ。

 不安という名の黒く冷たい怪物が深山一座の者たちにのし掛かっていた。

 だが―――

 彼らは知っていた不安という怪物が手を固め足を固めて動きを鈍らせてくることを。頭の中を真っ白に染め上げ思考を狭めようとしてくることを。それでは助けられるものも助けられなくなる。菊弥を取り戻すことなどできなくなるということを―――

「………ユキさんにも髭が生えるんだなぁ…」

 ぽそりと呟いたのが誰であったのか。その部屋に居た者は皆、その独り言に全力で乗っかった。

「バッカ、おま、バッカ、そりゃ生えるだろっての。ユキさんをなんだと思ってんだよ」

「化け物って…プッ…フフッ…あれはあまりにもお気の毒ではありませんか、おこと様」

 大黒屋の清太郎が言うと、おことは頬を染め、

「あら、だって!」

 反論を試みようとしたものの後が続かない。

 それを見た他の皆は、苦笑だったり微笑だったり…とりあえず笑顔らしきものを浮かべて見せた。無理でもいい、わざとらしくていい、口角が上がっているだけの下手くそな笑いでいい。とにかく今は手が動くこと、足が動くこと、頭が働くことが肝要なのだ。

 その中でただ一人、ぎりりと握りしめた掌から血を滲ませたまま、

「……菊弥」

 小さく呟くその声に誰も気づくことはなかった。


 そうこうするうち、着替えて(小袖ではなく着流しである)顔も当たってきた雪之丞が部屋に戻ってきた。

「? どうしかしましたか?」

 部屋の中の微妙な空気に雪之丞が首を傾げたが、

「っなっ何でもないわよ? さ…、さあ、それよりも腹が減ってはなんとやらだわ、おにぎりを握ったからユキさん、少しは口に入れてちょうだい。皆さんも」

 おことが誤魔化した。

 

 と、そこへ飛び込んできたのが探索に赴いていた小平太だった。

「わ、若さま!」

 雪之丞をそう呼んでしまうほどには慌てている。

 幸いにしてこの場には旧秋山藩に関わりのある者たちしかいない(大黒屋は秋山藩出入りの商人だった)ため、咎められることはなかったが、その慌てように雪之丞が血相を変えた。

「どうした?! 小平太!」

 こちらも普段の口調を忘れた雪之丞が小平太を迎え入れる。

 小平太はもともと雪之丞の生家・片桐家の中間だった男である。それゆえ雪之丞のことも、そして菊弥のことも赤ん坊のことから知っていて、今でも二人によく仕えてくれている。

 ()っぴて探索に駆けずり回っていた小平太のその慌てぶりに胸がざわつく。

「これを! これをご覧ください!」

 彼が雪之丞に渡したのはぐっしょりと湿った深藍色の半纏である。広げてみれば染め抜かれた『駕籠清』の文字。

「これを何処で見つけたのだっ!!」

 雪之丞は藍の半纏をぐっと握りしめ小平太に詰め寄る。

「御壕端でございます。難波橋の橋桁の下に突っ込まれておりました」

 ついでにバラバラにされた駕籠も打ち捨てられてあった。

「駕籠もと申したな?」

 雪之丞の言葉に小平太はうなずき庭の方へ視線を投げる。駕籠も半纏も一抱えにして持ってきてある。おかげで小平太の着物もぐっしょりと濡れている。まだ朝のうちで助かったものの、それでも幾人かの通行人には相当に怪しまれてしまっていた。それでも持ち帰ってきたのは、何が証拠になるものか自分には判断がつかなくても雪之丞や座頭の惣右衛門に見せれば何かわかるかもしれないという、一縷の望みを掛けてのことだった。

 雪之丞はふと言葉を止め考え込む様子。

「………」

 沈黙が流れた。

「―――逆、でございますね」

 沈黙を破ったのは大黒屋の清太郎のそんな呟きだった。いぶかしげに雪之丞がそちらを振り返る。

「逆?」

「愛宕下の例のお屋敷からここ、いえ、小屋の方へ戻るにしたとしても―――」

 半纏が捨てられていた難波橋というのは御壕にかかる橋、御壕といっても外堀のそのまた先の海へと向かう辺りのことで、現在はすでに埋め立てられ御門通りとなって頭上には高速道路も走っているような場所だ。そして、そう、愛宕下から芝神明宮へと戻るにはいささか方向が外れている。

 駕籠を担いでいた人足に意識を刈り取られた吉三の話では、駕籠が向かったのは確かに芝の方角だったというのだから、これを見つけられたのはまったくもって幸運、いや、粘りに粘った小平太の手柄であろう。

「―――と、いうことは―――」

 雪之丞のこぼす言葉にその場にいる者皆が注目しているが、本人はそれに気づかず、続けて独り言のように小さく呟いている。着流しにいつものように一つに括った髪、その髪は一筋二筋とほつれて、顔の周りに垂れ下がっていた。顔色は悪く、見た目にわかるほどにはやつれていた。昨日から一睡もしていなければ、飯粒一つ口にしていない。

 先程おことに追いたてられて着物を変え顔を洗ってきての、コレである。さすがに女姿でいられたものではない。おことに言われてやっと女姿の自分に髭が伸びてきていることに気づいたくらいだ。

 この場にいる誰しもが雪之丞の気持ちは痛いほどわかっている。なんとは言っても雪之丞は母親を亡くしたばかりなのである。二年前の事件で兄もいなくなった。その真相を探るべく自分も親・兄妹との縁を切って役者にまで身を落とした。それでも―――生きていて、元気でいてくれるだけでよかったのだ。

(老いてなお矍鑠(かくしゃく)としていた母であったのに……)

 そこへもってきての菊弥の誘拐(これ)である。雪之丞の思いたるや想像するに難くなかろう。

(―――もし―――万が一にも―――雪が菊弥(●●)までも失うことになったのなら―――)


ビシャン!!


 大きな音が響いた。助三が部屋の隅でおのれの頬を叩いた音だった。しかも、両手だ。真っ赤に腫れ上がっている。自分で殴ったというのにいったいどれだけの力を込めたのか……

 周囲がさすがにドン引いている。

 雪之丞だけは助三の方を見ることもしなかったが、その物音は確かに彼にも届いておりハッとおのれを取り戻した。

(そう…そうだ、これではいけない)

 雪之丞はプルプルと子犬のように頭を振ってから、改めて小平太に向き直った。

「駕籠も一緒にと言いましたね」

 口調も侍言葉ではなく元に戻っている。

「へい」

 と小平太。思考する主の邪魔にならぬようにと気配を殺して控える出来る中間なのだ。

「争った跡や、なにか……そう、何かを引きずったような跡がありませんでしたか?」

「いや、それはなかろう。吉三がその駕籠を見たのはまだ日も暮れぬうちだったという―――ハナから駕籠はカラだったと見るべきであろう」

 それまで黙って話を聞いていた惣右衛門である。

「……では…では、菊は…」

「まあ、待て、そう()くでない、雪之丞―――そなたもあの菊弥が大人しくされるがままに連れていかれるとは思えぬであろう? それも陽も高いうちにそのような往来でだ」

「気を失っていた、と?」

 それに対して惣右衛門は首を横にした。

 基本的に駕籠というものは乗る方にもなにがしかのコツが必要である。現代でいうところのタクシーとはそこが根本的に違う。駕籠かき人足が相当に気を遣いそれこそ忍び足で歩くのであればいいだろうが、それでは人の歩く速度よりも遅くなるだろうし、かなり目立つことになる。普通に走る(歩く)駕籠の揺れは中に座る客に対して現代人には想像もつかぬような上下運動を強いるものである。客はまず垂れ下がる紐をぎっちりと握り、上下運動によって駕籠の外へと放り出されないようにするというのが正しい乗り方なのである。早駕籠(人足が四人に増えてランニングくらいの速度)など舌を噛まぬように布を咥えなければならない。意識を失った人間を駕籠で運ぶというのは土台無理な話なのだ。

 菊弥に意識があったのならその辺りになにがしかの痕跡があってしかるべきであろう。

 ということは―――

「つまり、」

 吉三は最初からカラ駕籠に引っかけられたということだ。

 そしてそれは、菊弥を連れ込んだ大身旗本がこの拐かしに一枚噛んでいることを示唆していることになる。

「―――」

 雪之丞たちはここでハタと行き詰まった。菊弥に恋文の代筆を依頼したという旗本、どこをどう調べても表(深山一座)にも裏(贋物屋あるいは旧秋山藩)にも一切の関わりが見えてこないのである。愛宕下に屋敷を構える佐久間家。当代は佐久間(さくま)伊予守(いよのかみ)匡方(まさかた)どので、三千八百石の御大身である。裏にしろ表にしろどこをどうしたって菊弥と関わりがあるとは思えなかった。



  

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