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第二話「贋恋文」  作者: 和泉和佐
12/20

贋恋文12

―――――― 12 ――――――


 時を遡ること半日ほど。

 とある座敷の中で気を失った菊弥がごろりと転がされている。後ろ手にされたまま縄でその身を縛られた状態の菊弥は、たとえ意識があったとしてもなんの抵抗も出来はしないであろう。

 ここは向島にある小間物問屋・中津屋の持つ寮の一つである。普段はあまり人けもなく放置されているこの家に、この一日二日で多くの人間が出入りし、特に人相のよくない男たちが集う様子には通りがかる人々は眉をひそめた。

 向島というこの界隈、現代では地名として確立しているが、この当時は隅田川の向こう側(江戸から見ての向こう)という程度のアバウトな地域を示す俗称であった。墨堤(隅田川の土手)もあり田畑も多く、のどかな、隠れ家的な風情のある別荘地であったのだ。もっとも、江戸一番の歓楽街たる吉原に程近いというのも、ここに寮を構える大店の主人たちには重要なことだったのかもしれないが。

 ともあれ、中津屋の寮でなにやら怪しげなことが始められようとしていたとしてもあまり目立たぬ場所であった。なにしろ眉をひそめる通行人の絶対数が少ないのだからして、人の口に上るまでもなかったのだ。

 さて、その中津屋の寮の中、畳に転がされた菊弥はすっかり意識を失っていた。そもそも恋文の代筆として呼ばれた武家屋敷の庭先ですでにみぞおちに一撃を受け昏倒していた。これが女物の着物で固い帯を着けていたというならばまだましだったのだろうが、あいにくと菊弥は男装姿であった。とっさに丹田(たんでん)に力を込めたものの相当に効いた。武家屋敷の門の中に駕籠ごと入っていった時点で訝しく思っていたし、油断もしていなかったつもりの菊弥だったが、それを上回るほどの早業であった。相当にこんな事に慣れていると見える。 

 目を閉じた菊弥の周囲には男が二人立っていた。転がされているのは畳の上ではあったが、襖の向こう、隣の座敷には布団が一組敷いてある。

「みょうちきりんな格好をしてやがるな」

 男の一人が呟いた。頬に傷のあるいかにもやくざといった風情の男である。手慣れた早業で菊弥に拳を突き込んできた男だ。

 転がっている菊弥の様子は、総髪を一つに束ねた髪型ポニーテール萌葱(もえぎ)色の小袖にグレーの(つむぎ)の袴、胸にはサラシを巻いている。

「役者なんだとよ」

 もう一人が言えば、

「道理で」

 頷く。さして興味があったわけでもないらしい。胸のサラシは一般庶民ならば防寒のため、ちょっとやんちゃな商売をしている者ならば防刃チョッキとして巻いていることも多い。現にこの二人の男も着流しのその胸にしっかりとサラシを巻いている。役者だというのなら、あまりマトモな商売というわけでもあるまい―――そういう認識なのである。

「にしてもよぉ、ずいぶんな上玉じゃねえか」

 頬傷の方ではない男、人並み以上に背が高くその所為か着物の裾が微妙に短い。体格がよいというよりもとにかく縦に伸びたという印象の男である。よだれが垂れそうなだらしのない顔で菊弥の姿を眺めている。

 幸いなことにこの日菊弥が身に付けていたのは普段着用の野袴(現代風にいうとサルエルパンツっぽいもの。裾が絞ってある。礼装用の平袴だとクロップドパンツ風なので裾が広い)であったことで裾も乱れていないし、サラシで胸板に厚みを出しているため、どこにも一見しては女性と見破られるところはない。

 だというのにこの大男はにへにへと不愉快な視線を菊弥に向けている。

「月代を剃ってねえとこを見ると女形、陰間(かげま)なんだろう? な、なら、い、いいんじゃねえかなぁ」

 許可の形をとってはいるが、大男のてはすでに菊弥の身体に伸びかけている。陰間というのは女形の修行をしている見習いのことで、舞台には上がらずに陰の間(照明の当たらない場所)に控えていることからそう呼ばれている。ちなみに陰間の少年たちは男性と性的関係を持つことを修行の一貫とされていた。後に男娼を置く店が陰間茶屋と呼ばれたのはそうしたことが語源とされている。陰間茶屋は独立して存在しても居たが、多くは芝居小屋に併設されていたそうだ。(深山一座では陰間茶屋も併設されていないし、そうした風習とは無縁である。念のため)

「うへへへ」

「………」

 大男の手が菊弥の薄鼠色の袴にかかる。

「………」

「―――イテッ!」

 それをびしゃりと叩いたのは頬傷の男だった。

「なにすんだよ、アニキ!?」

「やめとけ! こんな女も知らなさそうなガキがてめえみてえな()にカマ掘られて女がダメになりましたーなんてことになったらどうするよ。お方さまの役に勃たなくなんだろうが、ボケが」

 この頬傷の男、少しは良識というものを持ってはいるらしい。『こんな年端もいかねえ小僧を…』と口の中で呟いている。菊弥は年頃の女の子ではあるが、その彼女が男装をすることでずいぶんと年若く(声変わり前の中学生下手をすると小学生くらいに)見えているのだ。

 さらに言うとこの頬傷の男、LGBTには理解のないタイプで、男同士のそういったアレコレは知らないところでやってほしいと思うタイプであった。なので、今ここで自分の子分が男児をどうこうしようとか―――寒イボが立つのだ。

 ただし、その良識とやらも比較対照が隣の大男である。これがもし女児であったのならば―――

 もし菊弥の正体が知れたのであれば―――

「おら、さっさとお方さまのところにお知らせしてこいや」

 頬傷の男は不満そうな大男の尻を蹴りあげて部屋から追い出した。

「イテェってアニキ! わかったよ。行くって。何をそんなに俺を追い出してぇってんだよぉ…」

 大男は名残惜しげな視線を菊弥に残し、ぶつぶつと文句をこぼしながら去っていった。

「………」


 部屋に残されたのは頬傷の男と、そして菊弥。

 二人だけだった。




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