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空虚な視線

 少し籠もったような独特の匂いと冷たい空気に包まれた静かな空間。周囲に視線を向けると来館者は多い。日曜だからだろうか。それとも試験期間中のせいか。落ち着いた雰囲気の図書館の学習室で、一花はソワソワしながら視線を巡らせていた。


「如月、挙動不審。怪しい」


 小さな声に視線を向けると、隣の席に座った水無月が頬杖をついてつまらなさそうにノートへ視線を落としていた。


「なんか落ち着かなくて」

「図書館が? 勉強が?」

「どっちもプラス水無月が隣にいることが」


 すると水無月は頬杖をついたままクッと笑った。


「なんでよ。学校でも隣にいるでしょ」

「誰もいないところではね」


 水無月は視線を一花に向けると「デートだってしてるじゃん」と頬杖をやめて椅子の背にもたれた。


「なんで二人でいるときはそうでもなくて、こういう場所ではソワソワしてんのか理解できないんだけど」


 言いながら彼女は首を傾げる。一花は深くため息を吐いた。


「知り合いに見られる可能性が高いでしょ、ここ」


 図書館の学習室。普段ならば高校生が集まるような場所ではないこの場所も試験期間中は別である。今のところ見覚えのある顔はいないが、それでも館内のどこかに知り合いがいる可能性は高い。


「それの何がダメなの。いいじゃん、別に見られても」


 水無月は言いながら一花のすぐ近くに顔を寄せて「別にイチャついてるわけでもないし」と小声で囁いた。一花が驚いて身を逸らすと、その反動で机からバサッと音を立てて教科書が落ちた。学習室中の視線が二人へと向けられる。

 一花は慌てて教科書を拾い上げると首を竦ませて「水無月……」と彼女を睨みつけた。水無月は面白そうに笑いながら「さ、続き続き」と再びノートに視線を向けた。一花は深くため息を吐いて彼女の横顔を見つめる。

 付き合おう。そう言った彼女の言葉の真意が未だにわからない。実際、今の状態が付き合っていると言えるのかと問われれば違うと答えるだろう。ただ以前より一緒にいる時間が増え、以前よりも水無月の隣にいることに居心地の良さを感じていることは確かだ。彼女と一緒にいると安心する。彼女と一緒にいると不思議と嬉しくなる。

 しかし、それだけだ。

 この関係は友人関係とは違う。恋愛関係かと問われるとそういうわけでもない。水無月との距離は縮まったようで縮まっていない。


 ――この関係は何なんだろう。


 そのとき水無月が小さく息を吐いて「やめた」とノートと教科書を片付け始めた。


「え、いきなり? てか、まだ来てから三十分くらいだよ?」


 驚いて訊ねると彼女は「如月、まったく勉強する気がないみたいだから」と呆れた表情を浮かべる。


「如月が勉強教えてくれって言うから来てるのにさ」

「それは……。すみません」


 返す言葉もなく謝る。そうなのだ。水無月はどういうわけか成績が良い。元々の頭の出来が違うのかもしれない。だからおそらくはわざわざ図書館で勉強する必要はない。必要があるのは一花の方である。中間試験の成績は散々だった。そこで水無月に泣きついて勉強を教えてもらおうと思ったのだが、この有様である。


「ま、成績悪くて困るのはわたしじゃないから別にいいけど」


 彼女は言いながら鞄を手に立ち上がると「じゃ、お先」と学習室を出て行ってしまった。


「え、ちょっ……」


 慌てて一花も荷物を片付けて水無月の後を追う。しかし水無月は図書館を出てからも歩調を緩めることなく歩き続けた。


「待ってよ、ねえ。水無月」


 一花が呼びかけても彼女は止まってくれない。


「水無月ってば! 何か怒ってるの?」


 彼女の後を追いかけながら訊ねる。図書館で冷やされていた身体は湿気を帯びた夏の空気によって一気に温められ、汗が噴き出してくる。一花は手の甲で汗を拭いながら「いや、怒ってるのかもしれないけどさ! ごめんって!」と答えない彼女の背中にさらに声をかけた。

 水無月は図書館の裏手の道を歩き続け、やがて小さな公園に入ったところで足を止めた。そこは緑に覆われた小さな児童公園。

 手入れはされているが生い茂った木々たちのせいで薄暗く、普段から遊ぶ者は少ない公園だった。しかし、その木々たちのおかげだろうか。公園内の空気はほんの少し冷たくて緑の香りが心地良い。


「別に怒ってないって」


 ようやく口を開いた彼女は振り向いて微笑むとベンチに腰を下ろした。一花はその前に立って彼女を見つめる。


「怒ってないのにわたしを無視して歩いて行っちゃうんだ?」

「ちょっと考え事してた」

「……何を?」

「もう一ヶ月くらい過ぎたのに、振られてないなって」


 彼女は真面目な表情でそう言った。一花は彼女を見つめ、ため息を吐いて隣に腰を下ろす。


「どっちが? わたしが? それとも水無月?」

「どっちも」


 水無月は一花を見ると「なんでだろう?」と首を傾げた。その表情は冗談を言っているわけでも一花をからかおうとしているわけでもなさそうだ。彼女は時々こんな表情でよくわからない疑問を口にする。心から不思議そうに。

 一花は子供のような表情を浮かべる水無月を見つめながら「そもそも、付き合ってるかどうか怪しいからじゃない?」と答えた。


「怪しい?」

「デートって言ってもさ、別にいつも友達と遊びに行くのと何も変わらなかったじゃん。学校でも今までと変わりないし。振る、振られるの要素がないんだよ。多分」

「……つまり、如月はわたしのことを好きでも嫌いでもない?」

「友達と一緒」

「ふうん」


 彼女は呟くと視線を上向かせ、少し眩しそうに目を細めた。


「……水無月はそうじゃないの?」

「さあ。よくわかんない」

「なにそれ。水無月の方から言ったのに。付き合おうって」

「まあ、言ったけど」

「なんで?」

「面白そうだったから」

「からかう気しかなかった、と」


 一花が言うと水無月は乾いた声で笑った。そうだとも、違うとも言わない。代わりに「でもさー」と言った。


「女同士で付き合うって何したらいいのかよくわかんないね」


 そのときふいに脳裏に浮かんだのは、彼女が男子と並んで歩いている光景だった。見たことはない。ただの想像だ。それでも水無月が付き合っている相手が一花ではなく男子であるのならばしっくりくる。だってそれが普通だ。しかし、それがなんだか無性に腹立たしい。

 一花は彼女の横顔を見つめながら「彼氏とは?」と聞いていた。水無月は不思議そうに一花へ視線を向ける。


「二週間で別れた元彼とはどんなことしてたの?」

「どれのこと?」

「……どれでもいいよ。水無月が誰と付き合ってたかなんて知らないし」


 ――知りたいとも思わない。


 よく分からない苛立ちを胸に抱えたまま、そんなことを思う。できれば彼女がその誰かとどんなことをしていたのかなんて知りたくはない。そう思うと同時に、知りたいと思う自分もいる。そんな矛盾した自分の気持ちに苛立ちは増していく。


「如月、なんか怒ってんの? 顔怖いんだけど」

「いいから。どんなことしてたの?」

「知ってどうす――」


 言いかけてから彼女は「なるほど」と頷いた。


「同じようなことをすれば付き合ってるってことになるかもしれないってことか。で、振られるかも」

「なんで振られる前提で……」


 一花は左手に感じた温もりに思わず口を閉じた。視線を向けると水無月の右手が触れている。


「……水無月?」

「ん?」

「なにしてんの」

「だから、同じようなこと?」


 水無月の細い指が絡んでくる。温かくて柔らかく、そして少しくすぐったい感覚に一花は戸惑いながら水無月に視線を向ける。

 彼女は薄く笑みを浮かべて一花のことを見ていた。その笑みはいつも一花をからかってくるときと同じような笑み。しかし、その瞳の奥に込められた感情はどこかいつもと違うように思える。

 そこにあるのは仄かに強い、何かの感情。


「――水無月?」


 なんとなく不安になって彼女の名を呼ぶ。しかし彼女は答えない。ふわりと湿気を帯びた風が吹き抜けていく。それに乗って香ってきたのは彼女が使っているシャンプーの香りだ。そうわかったのは、すぐ目の前に水無月の強い瞳が迫ってきたからだった。そして次の瞬間、唇には柔らかな感触があった。


「え――」


 ほんの一瞬だけ触れたものが何だったのかわからず、一花は思わず声を漏らす。その唇を、今度はぺろりと温かな何かが舐めた。


「変な顔」


 すぐ目の前で水無月が微かに息を吐いて笑う。近づきすぎた二人の体温によって、このベンチの周りだけ気温が急上昇しているような気がする。その熱を感じながら一花はいつもと変わらぬ笑みを浮かべる水無月を呆然と見つめていた。彼女は自分の唇を舐めながら身体を離すと「どう?」と首を傾げた。


「……今、何したの」

「ん、キスだけど?」


 何でもないことのように彼女は言う。


「なんで?」

「だから、同じようなことだってば。付き合ってるとこういうことするでしょ?」

「――したの?」


 呆然としたまま一花は問う。


「元彼と、こういうこと」

「向こうはしたがってたんだよね。まあ、それで別れたんだけど」


 したがっていた、ということはしたのだろうか。それともしなかったのだろうか。だから別れたということは、そういうことを水無月はしたくなかったのか。だったらなぜ今、自分にそんなことをしてきたのだ。

 彼女の返答に、驚きで忘れていた苛立ちが蘇ってくる。そんな一花の気持ちを逆撫でするかのように彼女はニヤリと笑った。


「で、どう? わたしと別れたくなった?」


 指を絡めて繋いだ手を放そうともせず、彼女は笑いながらそんなことを聞いてくる。


「……なんで?」


 一花はまっすぐに彼女を見つめながら聞いた。すると水無月は「え、なんでって」と困ったように眉を寄せる。


「嫌じゃなかったの?」


 ――わからない。


 水無月の気持ちがわからない。初めてのキスに何も感じなかった自分の気持ちもよくわからない。そして、水無月に対する苛立ちの理由もよくわからない。ただ水無月が自分以外の誰かとこういうことをしていたのだとしたら、それが堪らなく嫌で仕方がない。


「如月? 怒った?」


 不安そうな表情で繋いだ手に力を込める水無月は一体何を求めているのだろう。


「わからない」


 ――やっぱり何もわからない。だから。


「もう一回、して?」


 まっすぐに彼女を見つめたまま言う。水無月は驚いたように目を見開いたが、すぐに「いいよ」と表情を和らげて身体を近づけてくる。

 ゆっくりと瞼を閉じる彼女を見て一花も同じように目を閉じた。そして唇に優しく押し当てられる、微かに湿った彼女の唇。

 さっきより少し長いキスからは今までよりも近く彼女の存在を感じることができた。学校で一緒にいるときよりも、二人で出掛けているときよりも強く。そしてそれは彼女の吐息と共にあっけなく離れていった。

 一花は瞼を開ける。水無月はさっきと変わらぬ笑みで一花のことを見ていた。


「どう? もっかいする?」


 ニヤリと笑った彼女は視線を一花の肩越しに向けた瞬間、その表情をスッと消した。不思議に思って振り返る。するとそこには見覚えのある少女が立っていた。


「……美守」


 水無月が呟く。そこにいたのはクラスメイトの秋山美守。彼女は驚いた様子もなく、ただ無表情に一花たちを見つめると「なにやってんの」と呆れたように水無月へと視線を向けた。


「今度は女相手? 見境無しにも程がある。気持ち悪いよ、叶向」


 淡々とした口調で彼女はそう言うと、公園を横切って去って行った。生ぬるい風が彼女を追いかけるように吹き抜けていく。


「水無月、追いかけないと!」


 我に返って慌てて立ち上がった一花だったが、水無月は「いいよ、別に」と繋いだ手を引っ張って一花を再びベンチに座らせた。


「よくない! 今の見られたんだよ? それに水無月にあんなひどいこと……。ちゃんと説明しないと!」


 何をどう説明すれば理解してもらえるのかわからない。それでもこのまま放っておくときっと変な噂が広まってしまう。しかし水無月は穏やかな笑みを浮かべて「いいってば。もうちょっと、まったりしていこうよ」と一花の肩に寄りかかってきた。

 まったく慌てた様子もない。むしろ、どこか安心しているようにすら見える。一花は困惑しながら自分に寄りかかる水無月の横顔を見つめた。


「大丈夫。もうキスしないから」


 ――わからない。


 水無月が何を考えているのかわからない。水無月は自分と同じ。そう思っていたのに。

 彼女の空虚な視線は、秋山が出て行った公園の出口へと向けられていた。

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