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砕かれた期待

 どんよりとした空気。そう感じるのは梅雨の時期だからだろうか。

 空梅雨だと言われている今年だが、雨は降らずとも太陽は見えない。ここ一週間ほどはジメジメとした曇り空が続いていた。そんな空をカウンター席から見上げながら一花は深くため息を吐いた。

 水無月が職場に来てから一ヶ月。未だに彼女とは仕事以外の会話はない。会話の中で時に笑顔を見ることもあるが、それは一花の知る水無月の笑顔ではなかった。明らかな愛想笑い。彼女が昔のような表情を見せたのは、あの一度だけだ。


 ――忘れちゃったわけ?


 そう言って笑った彼女は、高校時代の彼女のままだった。そう思った。しかし今、一花と共に仕事をしている彼女はまるで別人だ。

 大人のような口調。

 大人のような受け答え。

 大人のような愛想笑い。


「……大人か」


 ドリンクをストローでかき混ぜながら一花は呟く。

 ガラガラとカップの中で氷が鳴る。一花は頬杖をついて周囲に視線を向けた。試験期間中なのか、高校生の姿が多い。楽しそうにハンバーガーを食べながら話をしている彼らの声はイヤホンから流れる音楽によって掻き消されている。


 ――わたしだけか。


 未だにランチですらこうして通い慣れたファストフードで済ませている。ここから離れることができない。高校時代から、ずっと。

 一花は空いている隣の席に視線を向けた。記憶の中でそこに座っているのは少し困ったような笑みを浮かべた高校生の水無月。

 ここは、初めて彼女とデートをした日に立ち寄った場所だった。

 同性とのデートなど初めてだった二人が行き先に困り、とりあえず入った店がここだった。遊びに行くこととデートをすることの何が違うのかわからず、途方に暮れていたことを思い出す。あのときの困った様子の水無月は新鮮で、きっとその表情を見たことがあるのは自分だけだと思うと優越感すらあった。

 彼女と初めて二人で出掛けて嬉しかった。あのときのあの気持ちは、もしかすると一花が求めていたものに近かったのかもしれない。

 一花はスマホで時間を確認する。あと十分で昼休憩が終わってしまう。


「……よし」


 小さく気合いを入れて席を立った一花は記憶の中の水無月に微笑み、店を出た。

 今の水無月が昔の水無月ではないことはこの一ヶ月でわかった。ならば今の彼女ともう一度仲良くなることを考えよう。そうすれば、またあのときのような気持ちを取り戻せるかもしれない。そしてその正体を知ることができるかもしれない。

 あのときには分からなかった感情の正体を。


 会社に戻ると、すでにデスクには水無月の姿があった。一花は深呼吸をすると「お疲れ様です。水無月さん」と声をかけながら自席に座る。


「お疲れ様です」


 ちらりと一花を見て答えた彼女の顔に笑みはない。いつもなら会話はここで終了してしまう。一花はグッと顎を引くと「いつもお昼は外で食べてるんですか?」と話を振ってみた。すると彼女は一瞬だけ驚いたように目を大きくした。しかし、すぐにいつもの表情に戻ると「ええ、そうですよ」と頷いた。


「お気に入りのお店があったり?」

「まあ、はい。そうですね」


 彼女は言葉を濁すように頷くと「如月さんも外で食べてますよね?」と続けた。初めて業務以外の会話が続いたことに嬉しくなり、一花はヘラッと笑みを浮かべる。


「そうなんですけどね。わたしってあまりお店を知らなくて。いつも同じところで」

「へえ、どちらで?」

「えっと……。その、この近くにあるファストフードのお店なんですけど」


 なんとなく店の名前を言い出すことができず、一花は誤魔化すように笑う。もし自分が未だに過去の思い出を忘れられず、あの店に通っていることが知られてしまったら水無月はどう思うだろう。気持ち悪いと思われるかもしれない。

 一瞬にしてそんな不安が襲ってきて笑顔が引きつる。


「ファストフード、ですか」


 水無月は無表情に呟くと「毎日それだとカロリー過多になりそうだから気をつけたほうがいいですよ」と視線をモニタに戻しながら言った。


「あー、ごもっともです」


 一花は安堵と共に、彼女の一花への関心の無さに落胆しながらパソコンを開く。


「――ちなみに、水無月さんの通ってるお店って?」

「一緒にお昼は食べませんよ」


 さりげなく誘ってみようと思ったのだが、どうやら一歩先を読まれてしまったらしい。一花は深くため息を吐きながら「そっか……」と呟く。こうも完全に拒絶されるとさすがに堪える。

 彼女と再会して初めて成立した雑談。しかし彼女は一花のことには興味がなく、それどころか拒絶している。まるで何かに怒っているかのような彼女の態度に一花の気持ちは次第に小さくなっていった。


 ――どうして。


 十年ぶりに会ったのだ。以前と同じようにとはいかないまでも、同級生であったくらいの素振りは見せてくれてもいいのに。


「……お店、昼は開いてないんです」


 ログイン画面をぼんやりと見つめていると水無月がぽつりとそう言った。一花は我に返って彼女へ視線を向ける。彼女はどこか気まずそうな表情で一花のことを見ていた。


「友達がやってるバーなので開店は夜から。お昼は彼女が自分の分を作るついでにわたしのも作ってくれて」


 言いながら彼女はモニタへ視線を戻した。


「そうなんですか。友達のお店……」

「はい。まあ、彼女にとっては朝ご飯ですけどね」


 そう言った水無月の横顔がわずかに和らいだように見えて、一花の胸がズキッと痛む。


「だからお昼は誰かと一緒にというわけにはいかないんです。すみません」

「――いえ」


 一花は水無月から視線を逸らすと端末にパスワードを入力していく。


「お友達って、大学時代の? あ、それとも以前の職場関係とか」

「いえ。高校の」

「え……」


 ――水無月の、高校時代の友達。


 エンターキーを押す。モニタにはログインに失敗したメッセージが表示された。それをぼんやりと見つめる。

 なぜだろう。胸が痛い。息が苦しい気がする。同時に微かな苛立ちも沸き上がってくる。


「――ちなみに、なんていうお店です?」


 ぼんやりとした意識の中、気づけばそんな言葉が零れ出ていた。しかし、返答はない。

 一花はそっと水無月に視線を向けた。彼女はキーボードの上に指を置いたまま、じっとモニタを見つめている。


「どうして?」


 しばらくして小さく彼女は言った。


「夜は開いてるんですよね? ちょっと行ってみようかなって」

「……如月さん、お酒呑むんですか?」

「まあ、ちょっとだけなら」

「へえ」


 彼女は頷くと少し考えるように黙り込んでしまった。気まずい空気が二人の席を包み込んでいく。それでも一花は彼女の横顔を見つめ続けた。すると水無月は小さく息を吐き、鞄の中から一枚のカードを取り出して一花のデスクに置いた。それはショップカードのようだ。


「すごく小さな店なので満席だったら入れませんけど」


 笑みもなく彼女は言う。視線すら一花に向けることはない。一花はそっとカードを引き寄せると「……ありがとう、ございます」と俯きながら声を絞り出した。

 昼の業務が始まって何分経っただろう。五分か、十分か。たったそれだけの時間で、この一ヶ月の間に期待していたことがことごとく打ち砕かれていく。

 水無月の笑顔を見ることもできない。楽しく雑談をすることもできない。一緒にランチをすることもできない。それどころか、彼女は職場以外で一花とは会いたくないようだ。勤務時間が終われば一緒に呑みに行くこともできるんじゃないか。そんな淡い期待すらも容赦なく彼女は砕いてしまう。それだけではない。


 ――高校の友達か。


 たしかに水無月には友人が多かった。それでも彼女の本当の友人は自分だけ。そう、信じていたのに。


「……誰なの」

「え?」


 思わず声に出てしまった言葉に、水無月は怪訝そうな表情を向けてきた。一花はハッとして笑みを浮かべる。


「なんでもないです。お店、ありがとうございます。今度ちょっと覗いてみますね」


 言って一花はカードを財布の中に収めると、今度こそパスワードを入力してエンターキーを叩きつけた。タンッと鋭く耳障りな音が響いたが、誰も一花を気にする者はいなかった。

 しかし、カードをもらってから一週間が過ぎても一花にはその店へ行く勇気が持てないでいた。場所も営業時間も確認している。しかし水無月が言う『高校の友人』が誰なのかということが引っかかって行くことができない。気になるのなら行って確かめてしまえばいいのに、なぜかそれができないのだ。

 理由もわからず、ただモヤモヤした気持ちと苛立ちを抱えて卒業アルバムを引っ張り出してはそれらしい人物を探し続ける。しかし、わからない。

 そもそも一花は水無月の友人関係をよく知らない。会うときはいつも二人だったし、教室で彼女が一緒に行動を共にしていた友人は日によって違っていた。会話も授業や教師の話はしたものの、友人について互いに話した記憶はない。

 水無月が友人と呼ぶ自分以外の誰か。彼女と言っていたから女性なのだろう。


「その子とは高校を出てからも連絡とってたんだ……」


 金曜日。仕事を終えて帰宅した一花は食事もそこそこに、軽くビールを飲みながらぼんやりと卒業アルバムを眺めていた。懐かしい高校時代。しかし思い出に残っているのは水無月と過ごした一年間の日々だけだ。


「なんで――」


 頬杖をつき、個人写真のページに写る澄ました顔の水無月を指でなぞりながら呟く。

 どうして離れてしまったのだろう。

 どうして水無月は行ってしまったのだろう。

 どうして彼女の一番になれなかったのだろう。


 ――その友達が、ずっと一番だったから?


 ふいに浮かんできた考えに一花の胸がズキズキと痛む。あの日からずっとそうだ。彼女のことを考えると胸が痛い。苦しい。イライラする。それなのに考えてしまう。期待をすべて打ち砕かれてもまだ期待してしまう。

 彼女は自分と同じであるはずだ、と。


「……わたし、キモいな」


 自嘲しながら部屋の時計に目を向ける。時刻は午後十時を過ぎたところ。バーの営業時間は深夜二時までだったはずだ。一花はふらりと立ち上がるとメイクを直すことすらせず、バッグを手にして家を出た。

 カードに書かれてあった住所は職場から徒歩十分程度。一花が暮らすアパートは職場の近くにあるので、バーまでも歩いて行ける距離だった。

 週末の夜の街は賑やかだ。二次会にでも行くのか、ほろ酔いの集団が歩道を広がって歩いている。一花は急ぎ足でその集団を追い抜くと、まっすぐに店がある細い路地へと向かった。

 地図は何度も見て覚えてしまった。普段なら酔っ払いが多くて薄暗いこの路地に足を踏み入れることはないだろう。それでも一花は周りを気にすることなく足を進めた。

 心臓がドクドク鳴っているのは緊張か、それとも別の感情か。湿気を帯びた重たい空気が気持ち悪くまとわりついてくる。


「……大丈夫。ちょっと覗くだけ」


 少し覗いて、すぐに帰ろう。相手の顔を見れば気持ちもスッキリするかもしれない。この胸のモヤモヤも痛みも消えるかもしれない。ああ、そうだったんだと納得できるかもしれない。

 一花は歩きながら胸元で片手を握る。そして前方に目的の店が見えてきたとき、思わず足を止めた。


「――水無月?」


 そこに彼女がいた。店の前で女性と一緒に立っている。いや、違う。立っているのではない。抱き合っている。一花は無意識に口から短く息を吐くと胸元で握った手に力を込めた。

 ここから見ると、まるで水無月が相手のことを抱きしめているように見える。しがみつくようにして身体を小さく丸め、相手の首元に顔を埋めている彼女の背中を相手の女性は困った様子で撫でていた。

 二人のすぐ近くに立つ街灯がスポットライトのようにその姿を照らし出している。


 ――なんで。


 声を出すこともできず、一歩後ずさる。そのとき相手の女性が一花へ視線を向けた。その瞬間、一花は元来た道へと駆け出していた。


「なんでっ……!」


 走りながら声を絞り出す。どうして彼女が水無月に抱きしめられている。どうして彼女が水無月を抱き留めている。その役は自分だったはずなのに。


「どうして!」


 訳が分からず、気づけば涙が溢れていた。路地から出た一花はゆっくりと足を止め、肩で息をしながら両手で涙を拭う。


「なんであの子が」


 一番思い出したくなかった相手が水無月のそばにいる。ずっと忘れていたはずの名前が否が応でも蘇ってくる。秋山(あきやま)美守(みもり)という名前が。


「なんでなの、水無月」


 止まることのない涙を押さえつけるように両手で顔を覆いながら、一花はその場に立ち尽くした。

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