好奇心
新しい学年、新しいクラス。しかし幸か不幸か、二年のときにいつも一緒にいたメンバーとは同じクラスだったので特に代わり映えもしない毎日が始まるのだと思っていた。
あの日、彼女の視線に気づくまでは。
春特有の怠くなるような生ぬるい空気に満たされた教室で感じた視線。目が合った瞬間、彼女は驚いたように顔を背けた。そして何事もなかったかのように友人たちと会話を続ける。その表情が妙に気になった。あの目が自分に似ている気がしたから。あれは、何かを渇望する目だ。
彼女のことはよく知らなかった。それこそ名前すらも。だから声をかけた。彼女とならわかり合えることができるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
「ねえ、水無月」
階段の一番高いところに座って踊り場の窓から雨模様の空を眺めていると、すっかり聞き慣れた声が叶向を呼んだ。
「なに」
叶向は彼女の方を見もせず、膝に頬杖をついて答える。
「なに見てんの?」
「外」
「なんで?」
「梅雨だなぁって」
「なにそれ」
困惑したような声に叶向は視線を向けた。少し距離を置いて隣に座った彼女は制服のスカートの上に乗せた弁当袋の紐を両手に握ったまま叶向のことを見ていた。叶向は思わず吹き出して笑う。
「いや、そっちこそ何やってんの。開けるの? 開けないの? その状態で何分経過した?」
「んー、だってさ」
「なに今さら恥ずかしがってんだか。特製弁当だって、さっきまではしゃいでたじゃん」
「だってさぁ」
如月は眉を寄せて不満そうに少し頬を膨らませる。
「水無月、ぜんぜん興味なさそうなんだもん」
叶向はため息を吐きながら「そんなことないって」と彼女の方へと身体を向ける。
「ほら。見せて見せて」
「いや、ていうか食べてほしいんだけど」
「とりあえず見た目で判断させて」
「なんでそんなこと言うかな! もー」
如月は怒りながらも弁当袋を開ける覚悟を決めたようだ。
彼女と初めて話したときは、まさかこうして一緒に昼休憩を過ごすことになるとは思いもしなかった。といっても、今日は特別だ。料理ができないと言っていた彼女が初めて作った弁当を試食する日なのだから。
「まさか全部冷凍じゃないよね」
袋から弁当を取り出す姿を眺めながらそんな言葉をかける。すると彼女は手を止めて「だから違うって!」と怒りの表情を水無月に向けてきた。
「ちゃんと作ったんだってば! ほら、見て!」
言葉と共に彼女は弁当箱を開ける。それは小さなおにぎり、卵焼き、唐揚げ、ポテトサラダにプチトマトなど、女子らしく可愛らしい彩りをした弁当だった。
「へー、ちゃんと弁当じゃん」
叶向は少し驚きながら弁当を見つめる。如月は「でしょ? すごいでしょ」とドヤ顔で顎を上げた。
「まあ、予行演習にしては上出来じゃない? 男子に作ってあげるときはもうちょっと量が必要かもね。そこは改善点」
「いや、なんでそういうことになってんの?」
「いつかそういうこともするんじゃないの?」
叶向はニヤリと笑って首を傾げる。すると即座に彼女は「しない!」と言い切った。
「そうなの?」
「たぶん。そもそもわたしは誰かにお弁当を作るなんてしないと思う」
「ふうん……。これは?」
「水無月、最近ぜんぜんお昼食べてる気配がなかったから特別」
「特別枠か」
「そう! 水無月の健康を想っての特製弁当! だからちゃんと食べるように」
「はいはい。ありがとうございます」
叶向は差し出された弁当を受け取ってから彼女の座っている場所に視線を向ける。そこにはお茶のボトル以外、何も置かれていない。
「如月の分は?」
「あー……」
「まさか忘れた?」
「違う」
「でも持ってないじゃん」
「……気づいたら水無月の分しか作ってなかった」
苦笑する如月の言葉に叶向は吹き出して笑う。
「バカじゃん」
「うるさいな! いいから食べろ!」
「はいはい」
叶向は笑いながら弁当を受け取るとそれを二人の間に置いた。
「じゃ、半分こってことで」
「え、いやいや。これは水無月の分で。それに箸だってこれしか――」
如月が言っている間に、叶向は手づかみでおにぎりを頬張った。瞬間、如月が目を丸くする。そしてすぐに心配そうな顔で「どう?」と聞いてきた。
「うん。普通に美味しい」
「普通……」
少し残念そうに如月は首を傾げる。どうやら言葉の選択を間違ったようだ。叶向は卵焼きも手で取ると口に放り込む。甘い出汁の味が口の中に程よく広がっていく。
「あ、これは美味しい」
自然と口からそんな言葉が零れた。すると如月は嬉しそうに「やった」と笑ってから箸を叶向に差しだす。
「行儀わるいから、ちゃんと箸で食べて」
「いいよ。もう手で食べてる。如月が使いなよ」
「……じゃあ」
言いながら彼女はなぜか緊張した面持ちで箸を持つと卵焼きを口に運んだ。そして安堵したような表情を浮かべる。もしかすると味見もしていなかったのかもしれない。
「明日からは自分用に作りなね」
「水無月のも作るよ?」
「じゃあ、たまにお願いする」
「毎日でもいいけど」
窺うような如月の言葉に叶向は首を横に振った。
「そっか……」
残念そうに呟きながら彼女はおにぎりを食べ始める。叶向は再び窓の向こうへ視線を向けた。
少し風が出てきたのか、細い雨粒が窓に当たって落ちていく。耳を澄ませば教室の賑やかな声が微かに聞こえてくる。それとは対照的に、この場所には静寂が広がっていた。それは心地良くもあり、逆に居心地悪くもある。
ちらりと横目で見た彼女は手を止め、無表情に弁当に視線を落としていた。
「――如月さ、いいの? 昼休憩にわたしなんかと一緒にいて」
唐揚げをつまんで食べながら訊ねる。彼女は「え、なに急に」と困惑したような笑みで首を傾げた。
「友達と一緒に食べてるじゃん。いつも」
「水無月こそ」
「わたしはたまに一人で時間潰してる」
「……もしかして、今日も一人が良かった?」
そう言って見つめてくる彼女の表情は不安そうだ。
「さあ、どうかな」
叶向は呟き、ペットボトルの水を一口飲んだ。
別に一人が好きというわけでもない。むしろ一人は嫌だ。一人でいると自分だけがこの世界に取り残されてしまうような気がする。
しかし誰かと一緒にいても自分が満たされることはない。自分がその世界に溶け込めるとも思えない。だから時々、学校でも一人で過ごすのだ。どうしようもない疎外感から抜け出すために。
叶向はペットボトルを置くと如月に視線を向けた。彼女は不安そうに水無月のことを見ている。その不安は何に対するものなのだろう。そもそも如月との関係は何だ。友達というほど仲が良いわけではなく、ただのクラスメイトというほど遠い存在でもない。そんな彼女が叶向に求めているものが何なのかわからない。
――違うのかな。
如月を見た時、まるで自分のような表情をする子だと思った。そんな彼女に好奇心を持って話しかけた。そしてこの二ヶ月の間に話してみてわかったことは彼女との共通点は何もないということだった。
趣味も、好きな食べ物も好きな芸能人も何もかもが違う。それなのに構えず自然な自分で会話ができるのは単純に波長が合うだけなのかもしれない。ただ、それだけ。
きっと彼女は他の人と同じで自分とは違う。彼女はきっと、向こう側の人間。
「水無月?」
不安そうに如月が叶向を見つめてくる。そんな彼女に叶向は微笑んだ。
期待などしないほうがいい。わかり合えるかもなんて思わない方が良い。わかり合えたとして何が変わるわけでもないのだから。別に傷の舐め合いがしたいわけでもない。
――だったら少し、試してみようか。
叶向は残っていた最後の唐揚げをつまんで食べながら「如月、彼氏は作らないの?」と訊ねた。瞬間、彼女の顔から表情が消えた。
「え、なに急に」
「じつはけっこうモテるんじゃないかなぁと思って」
「……それは水無月でしょ」
「まあね」
否定はしない。素直に自分はモテる方だと思う。告白された人数だって、もうよく覚えていない。そして相手から好意を告げられるたび、疑問に思う。こんなわたしのどこが好きなのか、と。
どうして好きだと思ったのか。
その気持ちはどこから沸いてきたのか。
しかし、そんなこと口に出して聞けるわけがない。だから適当に付き合ってみればその気持ちもわかるのではないかと思った。カシャッと如月が弁当箱に箸を置く。
「今は? 彼氏、いるの?」
探るような彼女の目は友人たちが叶向に向けるものと何も変わらない。しかし求めている答えは違うような気がする。叶向は「いないよ」と肩をすくめた。
「いてもすぐ別れるしね」
「それ、噂で聞いた。いつも二週間くらいで別れてるって……。なんで?」
何の悪意もなさそうな顔で彼女は叶向を見つめている。ただひたすらに純粋な瞳で。
――やっぱり、違うんだ。
そのとき自分に沸いてきた気持ちは安堵だったのか、それとも落胆だったのかよくわからない。それでも如月に対する興味は薄れることはなかった。彼女の反応は周りにいた誰とも違っていたから。
叶向はまっすぐな瞳をあえて見つめ返しながら「好きじゃないから」と答える。
「好きじゃないのに付き合うの?」
「そう」
「でも別れるんでしょ?」
「好きじゃないからね」
如月は眉間に皺を寄せて「よく、わかんない」と難しい表情を浮かべた。どうやら真剣に考え込んでいるようだ。
「如月は?」
彼女は眉を寄せたまま首を傾げる。
「付き合ったりしたことないの?」
「……ない」
そう答えた彼女の顔は、やはりどこか自分と似ているように思える。何かに怯えたような、困惑したような、そして何かを渇望しているような目。叶向は笑みを浮かべる。
「付き合ってみればいいじゃん」
「好きじゃないのに?」
「付き合ったら好きになるかもよ?」
――わたしはならなかったけど。
心の中で思いながら叶向は言う。如月は真剣な表情で「それは考えたことなかった」と呟く。
「じゃ、試しにやってみなよ。誰か適当な奴とさ。いるでしょ? 告られた相手の一人や二人」
「……それは相手に失礼じゃない?」
「真面目か」
「真面目です。水無月と違って」
如月は不満そうな口調で言った。叶向は彼女から視線を逸らし、顔を俯かせながら微笑む。
「わたしと違って、か……」
そうだろうと思う。きっと彼女が求めているものは叶向が求めているものとは違う。如月は叶向と違って純粋だ。そんな彼女が求めているものは何なのだろう。
「……水無月?」
呼ばれて叶向は顔を上げてニヤリと口角を上げた。
「じゃ、わたしと付き合ってみる?」
「――は?」
如月が大きく目を見開く。
「とりあえず土曜日、どっか行こっか。デートしよう」
「待って。展開が理解できない。なんでわたしが水無月と付き合うの」
「好きになるかどうか実験?」
「ならないでしょ。女同士だし」
「その言い方だと、わたしが男だったら好きになるかもしれなかった?」
「それは――」
如月は少し考えてから「わからないけど」と答えた。その真面目な反応が面白くて叶向は息を吐いて笑う。
「わかんないんだったら試してみようよ。とりあえず女のわたしで。わたしもちょっと興味あるし」
「興味? わたしに?」
「いや。同性と付き合ったらどうなのかなぁって」
「……二週間で捨てる気でしょ」
「それも含めて試してみよう。もしかしたら如月の方がわたしを捨てるかもしれないし」
「えー、なにそれ」
そう言いながらも彼女に拒否する気配はない。断れないだけなのか。それとも彼女が求めるものが叶向の提案の中にあるのか。
「それより、お弁当食べてよ」
彼女は見覚えのある誤魔化すような笑みを浮かべて叶向の方へと少し弁当を寄せた。叶向は首を横に振る。
「残りは如月が食べなよ。わたしはお腹いっぱい」
「ダメだよ。ちゃんと食べないと」
「また作ってくれたら食べる」
「……じゃあ、作ってくる」
「うん。よろしく。わたしの彼女さん」
「えー、わたしが彼女なの? 水無月が彼女してよ」
「いいよ」
膝の上に頬杖をついて微笑む。如月はまだ困惑しているのか、反応に困っている様子だ。その反応を見るのが面白かった。
この提案はただの好奇心。同性と付き合ったときに自分は今までと何か変わるのだろうかという好奇心。そして万が一にも同性となら欲しかったものを手に入れることができるかもしれないという、ごく僅かな期待。
きっと相手が如月でなければ、ただそれだけのことだった。叶向の世界が変わることもなかったはずだ。
どうして如月だったのだろう。
このときの遊び半分の言葉が、今でも叶向の心を縛りつけている。