変わらない彼女、変わった自分
静かな店内。二人掛けのテーブル席が二つとカウンター席しかない小さなバーには聞き慣れたBGMが流れている。すっかり慣れてしまった煙草の香りに深くため息を吐いた叶向は、カウンターに頬杖を突きながらグラスに残ったカクテルを飲み干した。
「お客さん、飲み過ぎじゃないですかー?」
からかい口調の声に叶向は眉を寄せ、カウンターの向こうでグラスを拭いている女に視線を向ける。
「うっさい」
「うわ、八つ当たり最悪」
彼女は嫌そうに顔をしかめると叶向に背を向けて「そもそもさぁ」とピカピカになったグラスを棚に戻した。
「今日って定休日なんだけど?」
「それが?」
「あんた、昼も来てたよね?」
「来いって言ったじゃん」
「あんたが出勤初日だから昼食作ってあげようとわざわざ開けてあげてたの!」
彼女は苛立った口調で言いながら振り返り、カウンターに両手を突く。反動で後ろに結んでいた茶髪が尻尾のように揺れた。彼女は叶向を睨むように見つめながら「それなのに」とため息を吐いた。
「あんたときたら、ありがとうの一言もないどころか完食もしないってさ。さすがにそれはどうかと思うわけ」
「ああ、ごめん。ありがとう」
「うっわ。苛つきが増すだけだわ、そのペラペラな謝罪と感謝の言葉」
「え、めんどくさ」
「めんどくさくないでしょ! 人として当然の気持ちだと思うんだけど!」
「なんか機嫌悪い?」
「……誰のせいだと?」
「あー、わたしか」
叶向は苦笑しながらグラスを彼女の方に移動させる。すると彼女は「まったく」とぼやきながらカクテルを作り始めた。
「なんなの、あんたのそのテンション。新しいところ、そんなにダメな感じ? 仕事合わない?」
「……別にそういうわけじゃないけど」
「けど?」
彼女が手を止めて見つめてくる。叶向は「ちょっと、ね」と微笑んだ。
「ふうん」
彼女は少し顎を上げると再び手を動かし始めた。叶向は頬杖を突いたまま目を閉じ、彼女がカクテルを作る音を聞く。しかし瞼の裏に蘇ってくるのは一花の顔だ。
今朝、朝礼で彼女を見たときは幻覚かと思った。だって、まさかこちらに戻って来て初めての職場で彼女と再会するなんて誰も予想できない。
――向こうもびっくりしてたな。
声もなく叶向は笑う。目を丸くして叶向のことを見ていた彼女は、あの頃と何も変わっていなかった。少し大人びたように見えるのは彼女が高校の制服を着ていないからだ。
十年経った今でも、如月一花はあの頃のまま。
「はい、できたよ」
その声に瞼を上げると、目の前には綺麗な色のカクテルが置かれていた。
「ん、ありがと」
礼を言いながら一口飲む。ミントが入っているのか、少し鼻がスンとする。
彼女が叶向に作るカクテルは毎回オリジナルでアルコールは弱め。その理由を聞くと彼女はいつも「余ってるものを使うから」と笑って答える。叶向がまともに代金を支払わないからジュースみたいなカクテルで充分だ、と。しかし叶向は知っている。これが彼女なりの優しさなのだということを。
アルコールに弱い叶向が酒に負けてしまわないようにわざと軽めのものを作ってくれる。なにより、叶向がここでカクテルを飲むときに求めているものがアルコールではないということを彼女だけは知っているのだ。
「それで?」
彼女は自分もグラスを手にしてカウンターから出てくると、叶向の隣に座った。
「ほんとに何があったわけ?」
その口調にからかいの雰囲気はない。叶向はもう一口カクテルを飲んでからテーブルを見つめる。そしてグラスの縁を撫でながら「如月に会った」と答えた。
「へえ……」
コトッと音がした。視線を向けると彼女がテーブルにグラスを置いたところだった。
「それはまた懐かしい名前。どこで?」
視線を彼女に向ける。その顔にはわずかに心配そうな表情が覗いていた。叶向は彼女にニッと笑みを向ける。
「職場。同じプロジェクトチームでわたしの教育係」
「マジ……?」
「マジ」
「たしか契約って」
「来年の三月まで」
すると彼女は額に手をあてると「それは……大丈夫なの?」と眉を寄せた。
「あんた、平気?」
「平気だよ。今日だって平気だったし」
「平気じゃなさそうだったけど? 昼間の様子だと」
「そんなことないでしょ」
叶向は笑ってカクテルを一口飲む。彼女は深くため息を吐いて「そんなことあるでしょ」と叶向の方に身体を向けた。
「わたしが作ったご飯、ほとんど残してたくせに」
「……それはだから、ごめんって」
叶向は顔を俯かせた。本当に悪いことをしたとは思う。しかし、どうしても食べることができなかったのだ。嬉しそうに料理を出してくれた彼女に、如月の笑顔を見てしまったから。初めて自分で作ったのだという弁当を一緒に食べたときの嬉しそうな笑顔を。
彼女と如月を重ねてしまった自分に嫌悪して、腹が立って動揺して、結局ほとんど食べることはできなかった。
「ほんと、ごめん……」
その謝罪は食事を残したことに対してなのか、それとも別のことに対してなのか叶向自身にもよくわからない。彼女はじっと叶向を見つめていたが、やがて「ま、いいけど」とため息を吐いた。
「理由はわかったから許してあげる。あんた、どうせ如月さんのこと意識してずっと気張ってたんでしょ? まともな会話もしてないとみたね」
「そんなことないよ。ちゃんと大人として最低限の会話はした」
「へえ、大人として?」
少し含みのある口調で彼女は言う。
「そう。大人として……」
叶向は微笑んでから「まあ」と首を傾げる。
「一回からかっちゃったけど。如月、わたしのこと別人なんじゃないかって疑ってたみたいだから」
ほんの少しだけいたずら心が出てしまった。彼女に自分のことを別人だと思われるのが嫌だったから。しかし、あの頃と同じ関係に戻ろうとは思わなかった。
そんな身勝手な言動に振り回される彼女の表情は見ていて面白く、懐かしく、そして申し訳なくなった。だからもうからかうのはやめようと心に誓った。
あの頃のように戻れないのなら、ただ悲しくなるだけだ。
「――やっぱ、戻って来ない方がよかったんじゃないの」
ポツリと呟いた彼女の表情は、どこか思いつめた様子だった。叶向は微笑むとテーブルに視線を落とす。
「かもね」
進学先の大学は県外を選んだ。気軽にこちらには戻って来られないように。そのまま向こうで就職して暮らすつもりだった。しかし、できなかった。
頑張ろうとはしたのだ。努力もした。それでも無理だった。一人でいることが辛かったから。
叶向は隣に座る彼女へ視線を向ける。彼女は思いつめたような表情のまま「叶向?」と首を傾げる。
「如月さ、変わってなかったんだ」
叶向の言葉に彼女は少し目を見開いた。しかしすぐ諦めたように「まあ、あの子は変わらなさそうだよね」と頷いて立ち上がった。そして背伸びをしてカウンターの向こうから煙草と灰皿を取ると再び腰を下ろす。
「たぶんあの子は変わらないよ。あんたと違ってさ」
叶向は頬杖をついて彼女を見つめた。煙草の煙が鼻先を掠めて消えていく。
「……わたしは変わった?」
彼女は叶向へ視線を向け、煙を吐き出す。
「少なくとも、高校時代のあんたと比べるとね」
「へえ、そうかな」
「そうでしょ」
だって、と彼女は煙草を灰皿の縁に掛けるとその手を叶向の頬に当てた。
「昔のあんたはそんな顔でわたしを見なかったよ」
無表情に彼女は言う。彼女は何も求めない。ただこうやって叶向のことを見てくれる。ありのままの姿を。手に入らないものを未だに求め続けている惨めな姿を。
叶向は頬に触れる彼女の手を取るとそのまま引き寄せる。抱きしめると折れてしまいそうな細い身体は心地良くて温かい。耳元でため息が聞こえた。
「今日はどうすんの?」
「泊まってく」
「あ、そ」
諦めたような声。しかし、叶向のことを拒絶したりはしない。
「あんた、本当にめんどくさいよね」
ーーなんかさ、水無月ってめんどくさいよね。
彼女の言葉に如月の声が重なる。忘れていたはずなのに、思い出してしまう。
叶向は彼女の背中に回した腕に力を込めた。
「……わたしはあの子じゃないよ」
ふわりと叶向の髪に彼女の指が触れた。少し掻き上げられた髪がパラパラと頬にかかるのを感じながら叶向は目を閉じて頷く。
「わかってるよ、そんなこと」
「煙草、吸いたいんだけど」
「もうちょっと」
――蘇った思い出をもう一度閉じ込めるまで、このまま。
ゆっくりと広がる苦い煙草の香りが叶向と彼女を包み込んでいく。この香りが、如月の笑顔から解放してくれる気がする。
「まったく……」
ポンポンと叶向の背中を叩きながら彼女は深くため息を吐いた。
「そんなんでやってけるの? 明日から」
「……大丈夫」
「どうだか」
「ダメだったら養ってもらう」
「は? 誰に」
「美守」
「やだよ、お断り。ぜったいに嫌。無理」
叶向は思わず吹き出してしまう。
「そこまで拒絶する?」
「わたしは一人がいいの」
「……だよね」
それでも彼女は優しく叶向の背中を叩いてくれる。励ますように、優しいながらも力強く。
「美守」
「なに」
「ありがとう」
「……いいよ」
ポンポンと温かな手が背中でリズムを刻む。静かな店内は聞き慣れたBGMと心を隠すような苦い煙草の香りに包まれていた。