怖いもの
聞き慣れたBGMと嗅ぎ慣れた煙草の香りがする狭い店内。叶向はカウンターの向こうで昼食を作ってくれる秋山を眺めていた。店内には煙草の香りに混じって香ばしいトーストの良い香りがする。
「秋山さんってなんで料理が上手なの? 習ったりした?」
隣の席でカウンターの向こうを覗き込みながら言う如月は、以前よりも秋山に対する態度が柔らかくなった気がする。
決して秋山への抵抗がなくなったわけではないだろう。それでもこうして普通に話すようになったのは彼女なりに納得してくれたからだろうか。秋山が叶向の大切な友達だということに。
対する秋山は「まあ、一応は」と素っ気ない態度だ。しかし如月のことを邪険にするようなことはない。客に対するような見せかけの愛想の良さもない。彼女は叶向と話しているときのように自然体の彼女のままだった。
「ね、中入って見てもいい?」
「ただのホットサンドだよ?」
「でも水無月が好きなんでしょ? 秋山さんが作るホットサンド」
如月の問いに水無月は笑って「好きだね。美味しいし」と答えた。すると彼女は嬉しそうに「だったら作り方知りたい!」と椅子から降りてカウンターの中に入って行ってしまった。
「え、邪魔なんだけど」
そう言いながらも秋山は如月に見えやすいよう、少し場所を移動する。
「見てもいいから、あんたのは自分で作ってね」
「お金を払うので作ってください」
素直に言った如月に秋山は「客なら仕方ない」と苦笑する。そんな二人のやりとりを叶向はカウンターに頬杖をつき、微笑みながら見ていた。
秋山が叶向以外とこんな風に会話する姿を見るのは初めてだ。大学時代も彼女はずっと叶向の面倒を見るばかりで友人の一人も作ってはいなかった。
人間なんて面倒なだけ。叶向一人の相手で手一杯。そんなことを言っていたが、実際のところはどうだったのだろう。寂しいと思っていたかもしれない。だって彼女が求めていたのは友達だったはずだから。
「叶向」
「ん?」
「ニヤついてないで、あんたも少しは如月さん見習ったら?」
「え、なんで」
目を丸くする叶向に秋山は「料理の一つくらい覚えろって言ってんの」とため息を吐いた。
「如月さんは、まあ、なんとなく料理できる感じあるけどさ。叶向は卵一つまともに割れないでしょ」
叶向は苦笑して「まあ、それでもこうして生きてるし」と肩を竦ませた。秋山はこれ以上何を言っても無駄だと思ったのか「如月さんの料理の腕が上がるばかりだね」と出来上がったホットサンドを皿に乗せた。
「それで水無月が喜ぶなら、わたしは嬉しいけど?」
秋山はなぜか呆れた目を如月にも向けてから残りのホットサンドも皿に乗せてカウンターに置く。
「これってメニューにしないの?」
如月が席に戻りながら言う。いつの間に取ったのか、すでにその手には食べかけのホットサンドがあった。
「すごく美味しいのに」
「……知ってる? うちってカフェじゃないの」
「売れると思うけどな」
「面倒だからやらない」
秋山はそう言うと立ったまま皿からホットサンドを取った。叶向も一つ取って口に運ぶ。食べ慣れた味。大学時代からよく彼女が作ってくれていた味だ。
「――あんたたちさ、いい加減うちに来るのやめたら? 昼休憩」
しばらく無言で食べていると、おもむろに秋山がそう言った。叶向は「あー、ごめん」と謝る。
「迷惑だった? わたしたちが来るの」
「ていうか、なんでわざわざわたしを挟もうとするわけ。あんたたち付き合ってるんでしょ? 今度はちゃんと」
「うん」
「付き合ってる」
如月と叶向が同時に答える。秋山は理解ができないとばかりに眉を寄せた。
「だったら昼休憩は二人だけで過ごすとかするもんじゃないの? 高校時代のあんたたち、そうだったでしょ」
「でも、如月が来たがってるから」
叶向が言うと秋山は驚いたように「なんで?」と如月に視線を向ける。
「え、だって知りたいから」
如月は迷いなくそう答えた。
「水無月のことを知りたいから、水無月のことよく知ってる秋山さんのことも知りたい」
「……あんた、わたしのこと嫌いでしょ?」
「好きじゃないけど、それはお互い様じゃない?」
如月の言葉に秋山は「別に、わたしは――」と言葉を濁した。如月は笑みを浮かべると「それに」と続ける。
「秋山さんは水無月が好きなものとか、きっとわたしよりもたくさん知ってるでしょ? だからそれもわたしは知りたくて」
「本人に直接聞けば?」
「ダメだよ。水無月が自覚してない水無月の好きなものが知りたいんだから」
如月はそう言ってまっすぐに叶向のことを見てきた。
ちゃんと付き合うようになってから彼女はよく叶向のことを見つめてくる。まっすぐに。何かを探すように。そのたびに叶向はどうしたらいいのかわからなくなって視線を逸らしてしまう。
「叶向が自覚してない好きなもの、ね」
そう呟くように言った秋山へ視線を向けると、彼女は何か言いたそうに叶向を見ていた。
「なに、美守?」
「別に」
なんとなく彼女の言いたいことはわかっている。
――あんたはあの子のことが好きなんじゃないの?
高校時代に彼女が言った言葉だ。それに叶向は未だにちゃんと答えていない。あれからずっと考えてはいるのだ。叶向の如月に対する気持ちが何なのか。
叶向は如月に視線を戻す。彼女は美味しそうに秋山が作ってくれたホットサンドを頬張っている。その様子は幼く、まるで高校時代に戻ったような錯覚を覚える。視線に気づいたのだろう、如月はきょとんとした表情を叶向に向けた。
「どうかした?」
「……いや。早く食べないと休憩終わるなと思って」
叶向は笑って誤魔化しながらそう答えた。
「あー、そうだね」
そのとき如月が少し表情を曇らせたのが分かった。最近、彼女はこういう表情も見せるようになった。その理由がよくわからず、叶向はただ気づかないふりを続けている。
「昼からはミーティングだっけ。部屋のセッティング担当、如月だったよね」
「うん。納品に向けてのスケジュール最終確認だって」
「今回は営業の松本さんも参加だってね」
「うん、そう」
「そっか……」
そのとき店のBGMに混じってため息が聞こえた。視線を向けると秋山が食べ終えた皿を手にカウンターの向こうへと入っていく。
「さっさと食べて戻りなよ」
叶向に背中を向けてそう言った彼女は、何かに怒っているように見えた。
昼休憩が終わるまであと十五分ほど。叶向は如月と並んで会社への道を歩いていた。いつもなら彼女が色々と話を振ってくれるのに今日は静かだ。秋山の店では楽しそうにお喋りをしていたというのに、どうしたのだろう。
不思議に思っていると彼女は「あのさ、水無月」と、どこか神妙な面持ちで口を開いた。しかしそれから次の言葉が出てこない。叶向は首を傾げる。
「なに?」
「いや、その……」
彼女は迷うように視線を泳がせる。叶向は歩きながらそんな彼女の顔を覗き込んだ。
「なに?」
すると彼女は「別に違うんだったらいいんだけど」と前置きをしてから続けた。
「もしかして松本のこと、まだ気にしてるのかなって」
叶向は少しだけ眉を寄せる。
「なんで?」
「だってさっき、なんか気にしてる感じだったから」
言われて思い出してみる。そして「ああ」と叶向は声を出して笑った。
「ミーティングのこと? 違うよ、あれは。ただそうだったなぁと思っただけ」
「そう?」
「そうだよ。それにもう分かってるし」
叶向が笑いながら前を向くと如月は「何を?」と怪訝そうに言った。
「如月が松本さんのこと何とも思ってないってこと」
「……何とも思ってないことはないけど。あいつ、良い奴だし」
「ああ、うん。訂正。ただの友達でしょ。如月の顔見てたらわかったよ」
「そう?」
「そう。如月が松本さんに向ける顔は友達に向ける顔だよ。昔と同じ」
叶向の言葉に彼女は納得していないような表情で自分の頬に手を当てた。そんな彼女を横目で見ながら「でも、向こうは違うと思うけどね」と続けた。如月は頬に手を当てたまま、叶向をまっすぐに見つめる。
「……言う」
「ん、何を?」
「わたしと水無月のこと。松本にちゃんと言う」
如月は手を下ろしてそう続けた。叶向は彼女から視線を逸らすと「やめときなよ」と軽く笑う。
「なんで?」
「仕事、やりにくくなるだけだって」
「いいよ、別に」
「ダメ」
「なんで?」
「わたしと違って如月はこれからもあそこで働くでしょ?」
すると如月は立ち止まった。それに気づいて叶向も立ち止まる。彼女はまっすぐに叶向を見つめたまま「働くから言っちゃダメなの?」と低い声で言った。
「だったら辞める」
その言葉に叶向は思わず目を見開く。
「……どうしたの、如月」
いつもと少し様子が違う如月に叶向は困惑してしまう。
「そんな簡単に辞めるなんて言ったらダメだよ。良い職場なのに」
「でも水無月はいなくなるんでしょ?」
「契約が終わればね」
「そしたらどうするの?」
「次を探す」
「わたしは?」
叶向は眉を寄せて首を傾げた。如月はなぜか泣きそうな表情をしながら叶向のことを見つめている。
「どうしたの、ほんとに。如月はそのまま働くでしょ? わたしはいなくなるけど、如月はあの職場でしっかり働くの」
「水無月がいなくなったら会えなくなる」
「そんなことないでしょ。休みの日とか会えるし、美守の店だってあるじゃん」
「家は?」
彼女は心細そうに言って叶向のコートの袖を引っ張った。
「家……?」
「仕事終わりに会いたいときは? わたし、水無月の家がどこか知らない」
「それは……。今までそういう話にはならなかったし」
「じゃあ、行ってもいい?」
訴えるような目で見てくる如月から叶向は視線を逸らした。そして袖を持つ彼女の手を片手で握る。
「また今度ね」
「……いつ?」
叶向は答えることができず、ただ微笑んだ。
「――早く戻ろう」
そっと手を放して言うと叶向は歩き出した。少し向こうに見える横断歩道の信号が点滅している。
「水無月」
すぐ後ろで如月の力ない声がする。視線だけを振り向かせると彼女は悲しそうな顔を叶向に向けていた。その表情に胸が痛む。
「なに?」
胸の痛みに気づかないふりをして叶向は微笑んだまま訊ねる。
「手、もう一回繋いでもいい?」
視線を前方に向けると横断歩道の信号は赤に変わっていた。信号を待っている人の中に職場の人間はいないようだ。叶向は彼女に左手を差し伸べる。
「横断歩道を渡るまで、ね」
すると如月は嬉しそうに叶向の手を握ってくる。温かくて柔らかな手は叶向を放すまいと力強い。
ちゃんと付き合い始めてから、この手を握るのは何度目だろう。
二人で出掛けるときはよく手を繋いでいる気がする。しかし、それ以上のことはしていない。抱きしめたりもキスも、何も。今の叶向には彼女の手以外に触れる勇気がない。
――何が怖いの?
秋山の声がずっと頭の片隅で問いかけてくる。叶向は手を握ったまま身体を寄せてくる如月の横顔を見つめた。
周囲に自分たちの関係が知られることを恐れない彼女の態度は高校時代とは違う。それは彼女が様々な経験を積んで大人になったからだろうか。それとも彼女の中で叶向へ向ける気持ちに変化があったからだろうか。
――嫌われるのが怖い。
最初はそう思っていた。如月に嫌われるのが怖い。そのはずだった。しかしそうではないのかもしれない。
じっと彼女を見ている叶向に気づいたのか、如月が微笑む。さっきまでの悲しそうな表情を押し込めて、叶向を安心させるように。
横断歩道の信号が青になり、如月が「行こ?」と歩き始める。しかしその歩幅は小さい。少しでも長く手を繋いでいようとしているのかもしれない。
そんな彼女の行動に叶向は微笑み、しかし同時に不安が沸き起こる。
――怖いのは如月に嫌われることじゃない。
如月の手を握りながら思う。怖いのは、彼女の気持ちが変わることだ。
もし彼女が本当に叶向のことを好きになったとき、その気持ちに応えられないのではないかと思うと怖い。それに応えられなかったとき、如月がいなくなってしまうのではないかと思うと怖かった。同時に如月を傷つけてしまうかもしれないという恐怖もある。
「……ごめん」
交差点を通り抜ける車のエンジン音に紛れるような小さな声で呟く。如月は不思議そうに首を傾げた。
「何か言った?」
「うん。手繋ぎタイムは終了って言ったの」
笑って叶向が手を放すと如月は「えー、あと二歩残ってたのに」と不満そうに頬を膨らませた。
「残念。如月の二歩はわたしの一歩」
「……それ、ちょっと傷つく」
彼女はそう言ったが、すぐに気を取り直したように「今日、やっぱり松本にはちゃんと言うからね」と強い瞳を叶向に向けた。
「え、わたしたちのこと?」
「ううん。松本と付き合う気はないってこと。まあ、勘違いだったら恥ずかしすぎるけど」
彼女はそう言って笑うと「じゃ、先に戻ってるね。会議室のセッティングしなくちゃ」と歩みを早めた。
「ミーティングの準備、あとで水無月も手伝ってよ?」
「了解」
叶向が手を振ると如月は急ぎ足で会社へと戻っていく。
「――ごめんね、臆病者で」
遠くなっていく背中に呟く。
如月は高校時代とは変わっていない。そう思っていたのに一番変わっているのは彼女かもしれない。
彼女は強くなった。とても。
対して自分は何も変わっていない。臆病者で自分のことしか考えられない、ダメな人間だ。
――如月は今、わたしをどう思っているんだろう。
如月と繋いでいた手に視線を落としながら思う。
彼女の叶向へ向ける気持ちは確実に付き合い始める前とは違う。そう思う。彼女は手に入れたんだろうか。ずっと欲しかったものを。
――わたしは、どうだろう。
吐いた息が白く宙へと消えていく。如月はもう建物に入ったようだ。叶向は彼女の温もりが残る手を握りしめ、会社へと足を進めた。




