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8.怒れる妹


「……ア……」

 声が出ない。

 頬に生暖かいものが当たっている。目だけを動かすと、朝の光を浴びた猫が、一生懸命頬を舐めてくれていた。

 思わず喜びが心に湧いたが、それも一瞬だった。

 胸が苦しい。息が苦しい。いや、体中が苦しい。まるで全身の水分が抜けきったかのような限界の疲弊感。ここまで苦しいなんてことは、今までに一度だってないほどの――!

(ついに、死期が……)

 霞む瞳で猫の不安げに見つめる顔に焦点を合わせた。(でも、この子を残して……オレは……死ぬわけ、には……!)

 猫を飼うのが夢だった。市営住宅はペットが絶対禁止で、近所にペットで迷惑行為を行った一家が立ち退かされたこともあって、家族のためにもこっそり猫を飼うなんてこともできなかった。だから里親探しに必死になったし、捕まらない野良猫への餌やりも、知恵を振り絞って人目につかない方法で行ってきた。アルバイトはできなかったから、去勢の費用の募金をお願いし、獣医さんにも協力を取り付けた。近所の猫を飼っている家を余さずチェックし、柵越しに撫でてきたし、自分が世話をした里親の家にも、無理を言って家に上がらせても貰ってきた。

 そして人生最期の最期になったこの時、初めて――

(オレの、家族に……なってくれる、はずの、猫が……初めて……この腕の中に……いる……の、に……!)悔し涙が頬を伝う。

(いるというのに……ッ!)

「リンドー?」

 異変に気付いたらしい翔摩が近寄ってきた。「大丈夫か?おい、リンドー!」

「水……」かろうじて、その言葉だけ絞り出した。

「分かった!」と一声上げて翔摩が外へと駆け出した。

 すぐに戻ってきた。紫露さんも一緒だ。

「竜胆君!しっかりしてください!」

 そう言って、紫露さんは体を起こし、水を飲ませてくれた。知ってか知らずか、柔らかい胸を押し付けながらだ。多少なりともカンフル剤的な効果はあっただろう。だが、じっくりと感触を確かめる余裕もなく、竜胆は最初の数口を激しくむせた。

「……にゃん」

 それを膝の上から見上げるモエギちゃん。心配そうに右の前脚を浮かせている。くうッ!苦しいが、幸せだ!

「……なんで真っ白な顔で笑ってるんだよ……」泣き笑いっぽく、翔摩が言った。

「……何事かしら!」

 そう問いながら、ずかずかと部屋に入ってきたのは金銀蓮花だった。口調から緊張感が窺えるのが、何気に光栄だ。

 しかし、なぜここに?ここは男子寮だぞ?だが、校長の娘であることを除外しても、彼女なら多少の横暴はまかり通してしまう印象はあった。

「トロミ粉はある?……ない?蜂蜜は?……そう、急いで持ってきて!あと体温計と血圧計」

 寮母を顎で動かす金銀蓮花に、竜胆は自分のカバンをのろのろと指して、バイタルを測る機器の所在を教えた。

 彼女はさっそく体調を測ってくれた。

「……かなりの徐脈ね。不整脈だし……血中酸素濃度も80を切ってる」呟くように言って、彼女は唇を噛んだ。「油断してたわね、そうそう急変する病気じゃないのに……!」

 測定の早さに驚いた。少し気絶でもしていたのか。

「しんぱい、ない」やっと出せた声を震わせて竜胆は笑顔を浮かべてみせた。「朝は、こんな、もんだ」

 嘘だった。ここまで苦しかったことはない。だが、せめて安心させなければ。

 紫露さんが温めた蜂蜜と水を混ぜた飲み物を持ってきてくれて、なんとか喉が潤った。心配げに覗き込む3人もの視線に、不謹慎な喜びが湧く。なんとも作為症じみた感覚だった。

「あの~!」

 その時、遠くから誰かを呼ばわる声が響いた。

「誰かいませんか~!」

 甲高い少女の声。絞り出すように声量が大きく、無視できない切迫の気配を伴っている。こんなに女の子が男子寮に入ってきていいのか。だが、それを止めるべき寮母はここにいる。

「……あっ!」

 と一声叫んだのは、廊下に身を乗り出した翔摩だ。

 直後、それへ目指して、ドタドタドタ~!と足音が近づいてくる。

「……」

 待てよ、と竜胆は思い当たる節があった。翔摩は竜胆の実家に電話したし、金銀蓮花も電話番号を知っている。通じなくとも、留守電にメッセージを入れたかも知れない。

 そして、さっきの女の子の声には聞き覚えがあった。あのうるさい足音も――。

 果たして、ドンッ!と翔摩を押しのけて戸口に姿を現したのは――

「兄ちゃんッッッ?」

 ――覚えのある姿よりも、ほんのちょっとだけ大きくなった、彼の妹に違いなかった。

 天草(エンジュ)。一歳年下の、竜胆の妹。

 贔屓目もほんのりあるかもしれないが、エンジュの見た目はとんでもなく可愛い。絶世の美少女と言っていい。身長は相変わらず低くて華奢な体つきだが、いつだって躍動感に溢れ、目元の涼しい愛らしい顔は、花の咲くような華やかさを振りまいている。そちらを見た金銀蓮花が、おッ?とでもいう風な顔をしたのは、たぶんエンジュの可愛さに驚いたからではなかろうか。

 頭の左右に括った長いツインテールも昔のままだった。やはりすごく似合っている。もしエンジュの小さな頭に、もう少し脳みそが詰まっていたら、クラスの男子どもはきっと放ってはおかなかっただろう。

「兄……ちゃん……だよね」

 3人に囲まれる竜胆の姿を見て、懐かしき妹はふにゃりと表情を歪めた。

「にいちゃあんんん~~~ッッッ!」

 そして、なんて言おうか考えあぐねている竜胆に突進すると、彼の胸ぐらを掴んで激しく抱き着いたのだった。

「ぐふォおッ!」

「生きてたんだ!やっぱり生きてたんだ~~~~~~~~ッッッッッ!」

 全身涙顔になって胸に額をこすり付け、ギシッと胸を抱いて頬をこすり付けてくる。 

「ぐふッエ……え、エンジュ……」

 竜胆の視界が暗くなり始めた。だが、胸に顔を押し付けてむせび泣く少女の頬の感触が、意識をかろうじて繋ぎ止めた。そして思った――なんでこんないい奴を放って、逃げたりなんてしたんだと。

 ……それはそれとして、もう離して、横に戻してくれないかな……。

「もう、離さない!絶対に逃がさないから!」

 頬を掴んで、まるで口づけする距離で叫ばれると、すごく面映ゆい。うん、ありがたい。自分が今、死にそうじゃあなかったら。

「あ、ゴホッ、えんじゅ……あの……」

「ごめんね、妹さん」

 金銀蓮花が落ち着かせる声音で話しかけた。「天草君は、今ちょっと具合が悪くて、病院に連れて行かなくちゃならないの」

「兄ちゃん……!」咽び泣き続けるエンジュには聞こえてはいなかった。「良かった……!良かったよぉ……!」

「あの……」

 尚も言い募る金銀蓮花だったが、呼びかけた手をきゅっと握りしめた。しばらくは無駄と感じ取ったのか。

 翔摩も動揺しながら近づけないし、紫露はただ涙ぐんでいた。

 一番動きがあったのは猫だった。なにやら尻尾を立てながら竜胆の周囲をうろうろし、飛び掛かりそうな姿勢で身構えたり、やっぱり距離を離して一見無関心なように毛繕いを始めたかと思うと、思い出したように身構え、またうろうろしたりと困った様子ではあった。

 その間、どこかに電話していた金銀蓮花は、再びエンジュに声をかけた。

「妹さん?天草君は、いまとても体調が悪いの。病院に行かなくちゃいけないのよ」

 そして、静かに深く言い連ねた。「でないと――死ぬわ」

「えッ?」その言葉にショックを受けたか、きょとん、とした少女の涙目が、胸に抱いた竜胆を呆然と見詰めた。「留守電だと割と元気だって……」

「それはその……昨日までの話なんだ……」翔摩がたどたどしく説明した。留守電にそう吹き込んでしまったのだろう。

「ええ」金銀蓮花は安心させるようにエンジュに頷きかけた。「病院に病床を用意させたわ。今すぐ救急車を呼ぶから、今から入院してもらうわね」

「入、院?」苦しい息で、竜胆は尋ねた。「……入院だって」

「そうよ?こんな状態でここに寝かせていられるわけないでしょう?少なくとも、体調だけでも安定しないと。受診する話は昨日したわよね?」

「いや……入院は……困る」金銀蓮花も訝しげだ。「……昨日の話は覚えてるわよね、お金の心配は、もうないのよ」

「お金じゃないんだ」

 竜胆は、不安げな顔の猫を引き寄せた。胸に密着させると、不思議そうに顎を上げて顔を見上げてくれた。「入院するとこの子と暮らせない」

 そして、毅然と顔を上げて宣言した。「オレは決めたんだ、残りの人生、この子と一緒に過ごすって」

「は?」親友が素っ頓狂な声を上げた。エンジュも目を見開いて見上げてくる。言葉が理解できなかったかのように。

 全員唖然としていた。なぜだ、なぜこの気持ちが分からない。

「……冗談よね」

 金銀蓮花の瞳が険を帯び始めた。何だ?この迫力……。

「じょ、冗談じゃない。よく考えての事だ」竜胆は勇を鼓してきっぱりと言った。「オレはどうせもうすぐ死ぬ。だったら、好きなようにさせてもら……」

「なにが好きなようにだ!本気で言ってんなら全力で殴るぞリンドー!殴って無理やり病院に連れていく!」

 翔摩が激昂した。初めて見る表情だ。喧嘩しても、ここまで怒ったりはしなかった。

「だが、こいつは放ってはおけないよ!だって……こいつはもう、もう家族みたいな、ものなんだから!」竜胆は猫を抱きかかえたまま、必死の思いで叫んだ。

 それを聞いて、みんな固まった。金銀蓮花だって同様だ。そして、それらの視線は、示し合わせた風でもなく、エンジュへと収束していた。

「……」

 視線を集めるエンジュは、ただ呆然と兄の顔を見詰めていた。まるで人形のように、感情の欠落したような表情だ。

 裏切られた、なんて顔だった。ん。なんでそんな顔をする――?

 ――妹の頬から一筋、涙が零れ落ちた。

「兄ちゃんの……」突如、エンジュは鬼のように豹変した。こぶしを振りかぶり――

「兄ちゃんのアホーーーーーッッッ!」

 ズドッ!と正拳突きが竜胆のみぞおちに突き刺さる!

「~~~ッッッ!」

 病人だとか、そうでないとか無関係な、まったく遠慮のない一撃だった!竜胆は意味不明の叫びをあげて身を折って崩れ落ちた!

 その胸倉を掴み上げるエンジュの前に、猫が立ち塞がり、上体を落としてキラリと尖った歯を口の上下に煌めかせた。「ナァ~~~~~~~ッッッ!」と低く、そして甲高く威嚇の声を上げ始める。

 言葉は通じなくても、怒りの鳴き声だった。

 ――それへ、エンジュは激昂を冷え冷えと消し去り、泣き笑いのような表情で兄の胸倉を開放すると、小さな猫を見下ろした。

「あんたが……兄ちゃんの……家族って?」

 ――ひゅおッ!と空を切る音は、彼女の全力の蹴りの生みだしたものだ。

 蹴るフリなどではなく、明確に猫の体を、命を奪うための蹴りだった。エンジュが小柄と言ってもウェイトが違う。

 だが、素早く猫は飛び退り、竜胆の横で毛を逆立て、闘志も高く「シャアァァァ!」と威嚇をつづけた。

「やめろ!」這いずって猫を全身で覆うように竜胆は庇った。「モエギちゃんを傷つけるな!」

「……」「……」

(名前つけてたのか……)と翔摩は怒りながらも思い、

(名前つけてたのね……)と委員長も若干苛立ちながらも思ったが、2人とも何も言わないでおいた。

「なんで!なんでそんな野良猫が家族なのよ!」涙を散らしてエンジュは叫んだ。「そいつが家族なら!だったら、わたしはなんなのよ!わたしは家族じゃないのッ?兄ちゃんにとって大切な家族じゃないのッ!」

「そ、そう言われれば、そう、なんだが……」

「そう言われればッて、なによッ!」エンジュは泣き喚いた。「もっとわたしを判ってよ!構ってよ!わたしがどんなに兄ちゃんのこと想ってるか、心配したか知らないでしょ!ずっと探したんだよ!ずっとずっと探したんだよ!ずっとずっとずっと探して!学校が終わっても!休みの日もずっと探して……母ちゃんに高校に行けって言われたけど!兄ちゃんを探さないとって思ってどこも受験しなかったのに!」

「そ、それは……」心苦しさに胸が痛んだが、ふと我に返った。なんか納得できない。「それはお前が!単に勉強したくなかっただろーが!」

「違う!」

「だったら去年の成績表見せろ」

「……ぐ」痛いところを突かれたように、エンジュも急に我に返って、じり、とたじろいだ。「あ、あんなのは燃やしたわ!」

「中学校で再発行してもらえるからな!」

「あんな紙切れ!私の価値は紙切れなんかで決められるものじゃないんだから!」

「お前の価値を端的に示すのがその紙切れなんだよ!」

「もう!あーいえばこーいう!もとはと言えば兄ちゃんと姉ちゃんの成績が良すぎたから、わたしにプレッシャーがかかるのよ!」

「どうせ中一と中二と同じ体育以外オール1なんだろ!落ちるところまで落ちてプレッシャーかかってんじゃねーよ!」

 不思議だ。感情が高ぶっているうちに、なんだか体の調子が良くなっていくようだ!

 金銀蓮花が翔摩へささやく。「天草君って成績良かったの?」

「大体学年トップクラスでしたね……五段階評価でほぼオール5、体育を除けば」

「ふぅん……」

「中3の後半になって急に成績が上の下ぐらいにまで落ちこんだけど、あの時には病気が判ってたんだよな……」

「ち、違うもん!もうちょっとだけ良かったもん!」

「だ~ったら中学校に乗り込んで成績表をもらってきてやる!もし体育以外に2が付いていれば大人しく入院してやるよ!」

「ホント?」と目を輝かしたエンジュだが、しかし何かを思い出したようにさっと視線をそらした。

「どうした。オレが言った通りだったことを思い出したか」

「……フッ」エンジュは明らかに動揺しながら鼻で笑って見せた。なんだ?

「残念ね……兄ちゃんがいない間に!」

「ン?」

「中学校は爆発したわ!」

「爆発ッ?」

「そう!念入りに!木っ端みじんに!……アレよ!粉塵大爆発!」

「な~にが粉塵爆発だ!どんな原理か分かってんのか?それで校舎が吹っ飛ぶなんてありえね~んだよ!どうせテレビか何かの受け入りだろ~が!」

「そういえば、昨日そんな番組をやってたわね~」と空気も読まずに紫露さんが口を挟む。

「違うッ!本当に爆発したもん!木っ端みじんになっちゃったもんッ!」

「そんなことあるかッ!なぁ!」

 と竜胆は背後の翔摩を振り返るが、2年前の母校なのに親友は歯を光らせて親指を立てた。「ああ!ものの見事に吹っ飛んだぜ!」

 「不謹慎!え~と……ガガブ――」と言いかけたら睨まれたので慌てて言い直した。「ガガさんはどうだ!そんな大事件があったのならニュースになってるよな!」

「そうね……」面倒そうに少女は腕組みした。「そんな噂もあったかもね……」

(しまった!この2人はオレを入院させたいんだった!)

 そんな事件はなかった、と証明するのは困難だ。現場に今から行けはしないし、情報端末も持ってはいない。

他の誰かに聞いても、先日の悪魔災害の被害が念頭にあるだろう。そうだったかも、などと言われるのがオチだ。

「し、しかしッ!そんなことはッ!」

「もうッ!うるさい!うるさいうるさいうるさいぃぃぃ!」エンジュは肩を怒らせて逆上した。「わたしの成績なんか引き合いに出すのはおかしいでしょ!そんなんじゃないでしょ!

 兄ちゃんが!兄ちゃんがこのまま苦しんで、もっとつらい目にあって!もっと嫌な目に遭うなんて!そんなの嫌なの!絶対に嫌なのッ!もっと安らいでほしいの!楽しい思い出を持って欲しいのッ!それを邪魔するものは何もかも消し飛ばしてやるんだから!」

「くッ」熱いものが込み上げ、それでも憎まれ口は止まらない。「犯行声明かよ!」

「だからッ!」

 エンジュは兄を突き飛ばした。

「えッ?」

 普通のご家庭では、十代半ばになって1年下の妹とガチで喧嘩して、完敗してしまう兄というのは珍しい気がする。健康状態が良かった1年前でもそうだったのだから、今や抗しようもなく竜胆はあっさりすっ転がった。

 全身があらわになり、より警戒してぐっと上体を低くする猫のモエギ。縦に細まった瞳孔が、少女を鋭く見上げている。

 ザシュッ!

 その小さな体へ、エンジュのさらに鋭さを増した蹴りが襲い掛かっていた。

 ――いや、躱している。

 竜胆は瞬きした。確かに蹴りが当たったように見えたのに、次の瞬間には真横に移動している。動く姿を捉えられなかったのは、単に竜胆の集中が弱っているせいか?動体視力には自信があったのだが。

「もう!」ぶんっ!と首を振って萌黄が泣き叫んだ。「大人しく死ね!絶命しろ!」

「うおッ?」

エンジュの蹴りが、竜胆の顎をかすった。あまりに早すぎて、一瞬でエンジュのスカートの裾を眼前に拡げられたように思えたのだ。水色のショーツが間近に見えたが、それが何なのか理解できないくらいの速度だ!

 態度とは裏腹に、エンジュの蹴りは正確だった。猫の敏捷さがあったとしても、間違いなく蹴り殺されたと思わせたほどの、緻密で素早い、文字通りの必殺の一撃だった。

 なのに、猫はいつの間にか、二段ベッドの柱を蹴って宙を飛んでいる。

「あんたなんかぁッ!」蹴りあげられたエンジュの足が軌道を変えた。「ブッ殺す!」

 上段蹴りが猫を襲う!

 しかし、それさえも猫は躱し、いつのまにか二段ベッドの上にいて、威嚇の姿勢を取っていたのだった。

「やめろ!」

 心臓を鷲掴みにされる恐怖に、竜胆は妹に掴みかかろうと立ち上がった。

 とたん、竜胆自身が立ち眩みを起こして膝をついた。本当に心臓が痛む。恐怖の所為ばかりじゃなく。

(金銀蓮花……)

 内心助けを求めて、竜胆は必死な視線を黒髪の美少女へと向けた。

 だが、

「……」

 金銀蓮花がぞっと顔色を青くしていた。

(え……?)

 意外に思った。彼女からは、どこか女傑の気迫を感じていたのだ。こんな、ありきたりな暴力沙汰など収めてしまいそうなほどの。

(違ったのか……)

 そうだ、なぜ人の力を頼るのだ。所詮他人なんかに自分の苦しみなど分かりはしない。ここは、命を懸けて場を収めるのだ!

 と――猫と妹との喧嘩という状況らしからぬ覚悟を決めて、竜胆は今一度立ち上がろうとした。


 金銀蓮花は――

 エンジュの動きなど、特に気に止めてはいなかった。少女らしからぬ動きではあったものの、人間離れするほどではない。それなりの訓練を受けた軍人などにはまるで歯が立たないだろうし、取り押さえようと思えば、金銀蓮花には容易な話だった。

 なんといって、()()()()()()()()に、遅れを取りなどするわけがない。

 彼女が恐れたのは、女の子の方ではない――

(……あの猫)金銀蓮花は数歩下がってすっと重心を落として身構えた。

 彼女には、猫が移動する軌跡が見えなかった。それどころか、その瞬間に――

 ――魔力を感じていた。

 じっとりと不安と後悔が滲み出る。(……まさか、あの猫……『悪魔』だって言うの?)

 一瞬放った魔力は、移動の魔術の痕跡だろう。だが、すでに魔力の気配は欠片も残ってはいなかった。ここまで完璧に魔力の気配を隠蔽できる悪魔など、金銀蓮花の『戦績』には、ほとんど存在しない。いたとすれば――

(本来、地獄から出てこないレベルの高位悪魔か……)

 ――などと言う金銀蓮花の葛藤など、他のメンツは気づきもしなかった。なにしろ、魔力を感知するなんて、()()()()()()()からだ。


 エンジュは相変わらず戦意に目をぎらつかると、身を屈めてバネのように飛んだ。猫相手に殺意をむき出しにするなんて、まともな人間の所業とは思えない。だが、彼女は頓着なく、日本刀を思わせる右手刀を鋭く打ち振るい、半円の弧を描いて猫の位置を斜めに薙ぎ払った。

 只者の動きではなかった。エンジュの学ぶ武道の師は、天賦の才すら宣言したのだ。

 しかし、猫本来の敏捷性は、元より人の比較ではない。横っ飛びに跳躍して危なげなく躱す。

 それを、エンジュの左フックが捉えた。手刀は囮だったのだ。右手の派手な動きで、たわめた左手の動きをカムフラージュし、絶妙なタイミングで一撃を叩き込む。宙に浮いた状態では敏捷性は意味を失い、回避などままならない。相手が自分以上の速度を持っていようが無関係だ。なのに――。


 見事に連撃を避けて後方に降り立った猫を鋭く注視していた金銀蓮花は、ますます危機感を強くした。

(あの術式……確か『幻影跳躍(ディスプレイサー・テレポーテーション)』……)

 悪魔が技の解説をしたわけではない。だが、『悪魔』と戦い続けた『天使』のネットワークが、敵の行動パターンを個別化し、情報として共有されている。

 ――残像だけ本物さながらの気配を伴って残しつつ、肉体は空間転移で別の場所へと移動してしまう回避魔術式。残像は攻撃を受けないと消えずに残り続け、同じ術を使えば自身の幻影を無数に作り出すことが可能となる。安全に戦場を撤退するのに主として使われるが、笑みだけその場に残して消えるなど、人を喰った逃げ方をする悪魔もいて、基本的に相手をおちょくるのに使われる術と言える。術に引っ掛からないためには、本体の魔力の所在を把握しておく必要があった。だが、ここまで魔力を隠蔽してしまえるとなると、あの猫を追い詰めることなど未来永劫不可能に思える。

(『超感覚(ESP)』を全開にして直接触れていたら、ああいった魔法の発動は阻止できるけれど……)

 対処法を考える。(……でも、触れること自体が困難か……)

 だが、天草エンジュは、猫にしか見えない、その化け物の正体が見えていない。危険だ。あれほどの力量の悪魔が、相手を傷つける魔術を弁えていないはずなどないのだから。

「……天草君は!」

 意図的に、金銀蓮花は鋭い声を響き渡らせた。「すぐに病院に診てもらう必要があるわ!」

 傍の者は、エンジュに言ったと思っただろう。

 しかし、本心は悪魔の猫に語り掛けていた。正体がばれたと猫に気付かせるのはまずい。本性を現すかもしれないからだ。

 金銀蓮花は大きな声で続ける。

「天草君は、元より罹患すれば1年持たない妖物化病に1年半も苦しめられ、体中ボロボロ、その上今朝は動けるのが不思議なぐらいに体調が悪化している」

「……」それを聞いたとたん、猫は床に着くぐらい上半身を深く下げると、耳をペタンと倒した。あれは何の仕草だろう?攻撃準備でなければいいのだが。

「今入院させないと、彼は今日中に死ぬ、そう言い切ってもいいほどに体調は悪いわ!」

「そんなッ!」エンジュは戦闘マシーンの気配を消し去り、動揺しながら跪くと、竜胆の肩を壊れ物のように弱々しく抱いた。

「兄ちゃん、そんなに悪いんだ……そんなに……」

「いや、そこまでは……」竜胆はあいまいに否定した。

「ただし!病院に行っても助かる命ではないわ!」

「え?ちょっと!」

 金銀蓮花は僅かに日和った。エンジュが目を丸くして抗議の声を上げたが無視する。万が一、猫が竜胆に愛着を持っていた場合、入院して亡くなったあとに報復に来るかもしれないではないか。そんな悪魔はいないと思うが、とりあえず、あの悪魔猫には、ここにいても無駄だと思わせねばならない。

「……でも、今すぐ入院すればきっとまた元気になれるはずよ。だから天草君、病院に行きましょう?猫ちゃんはずいぶんと元気になったようだし……」

 正直言って、悪魔猫から視線を外すのは不安だ。『超感覚(ESP)』さえ使えば視線の外に視界を確保できるが、欺瞞される恐れがあるし、悪魔は自分に使われた一切の『ESP』を察知できる。金銀蓮花が『人間ではない』ということをバラすのは、できればぎりぎりまで避けておきたい。

 金銀蓮花は優しく微笑んで見せて、竜胆に手を差し伸べた。

 それでも悩まし気な竜胆に、彼女は猛烈にイラついた。しかし、グッとこらえて表面的には慈母の笑顔でじっと待ってやる。

 と――

「あッ!」竜胆が叫びをあげた。

 猫が素早くベッドから飛び降りると、一同の脇をすり抜け、廊下に走り出たのだ。

 そして、離れた場所でいったん足を止めて振り返り、悩み深いような、あるいは何かを宣言するかのような――「にゅあぁぁぁん」と物憂げな鳴き声を一声上げると、踵を返してタタッとどこかへ走り去っていったのだった。

「待って!どこへ行くんだモエギちゃん!」追いかけようとした竜胆だが、本当に体調が限界な彼に、動けるだけの力は最早なかった。「待ってくれ!オレを置いていかないでくれ~!」

「わたしも!」ガバッと倒れ伏す兄に抱き着くエンジュ。

「わたしも置いていかないで~!一緒にいてよ兄ちゃん!」

 兄妹は、まるで2匹の芋虫の絡み合った。

 

 そんな二人の痴態に、金銀蓮花は呆れ半分、あとは安堵のため息をついた。どうやら、状況は沈静に向かったらしい。

 もちろん、事態は予断を許さない。あの猫は追跡を要するが――

 だが、無駄だろう。すでに痕跡ともども気配を消し去っているはずだ。全力で追いかけて撃滅したい衝動に体が震えたが、すでに期は逸している。やろうと思えばやれたかもしれないが、周囲が被るであろう大きな被害は無視できなかったのだ。

 まあいい、対策は後で考える。今はしなくてはならないことをしよう。

 ――金銀蓮花はスマホのボタンを押して耳に当てた。

『はい、蛇ノ目町消防署です。火事ですか?救急ですか?』

「救急でお願いします。場所は――」


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