7.女帝の提案
(だれ?)
口の動きで訊くと、翔摩も口の動きだけで答えてきた。
(ん?……なになにの、む・す・め……こうちょうの、むすめ、校長の娘か!)
さっき話題に上がった気がする。しかし、まさか同年代だったとは。
「こういう時代なのかしら」
少女は、自室であるかのように悠然と入ってくると、持っていたバインダーを傍に置き、両肘を掴むような腕組みをしてベッドの柱にもたれた。「最近は、男が男を連れ込むのね」
「いや、誤解だって!俺は!女性が!大好きだ!」
と迫ってくる翔摩の視線をぞんざいにぶった切って、美少女は身を屈めると竜胆の顔を覗き込んだ。
切れ長の澄んだ瞳に間近から見据えられ、免疫がないに等しい竜胆は心臓が高鳴った。今の体調だと危険なレベルのドッキリ具合だ。
校長の娘と聞かされると、ふと権力を笠に着た傲慢なイメージが漠然と浮かんだが、彼女はそうは見えなかった。去年、世話になった港では漁師たちのトップみたいな方がいたが、それと同じような印象を受ける。柔和な笑顔を浮かべながら強く厳しく値踏みする瞳の色は、彼女が代行者ではなく、全ての責任をもって仕切るような権力者そのもののようだ。確かに見た目だけは竜胆と同世代なのかもしれないが、到底同じ年には見えない、不思議な重々しさを持っていた。
それでいて、容貌は西洋人形じみた澄み切った美少女なのだ。亜麻色の髪は艶やかで、長い髪を後頭部でくるりと輪を作り、金と銀、それと青い結晶をあしらった綺麗なバレッタで止めている。手足もすらりと長い。
「こんばんわ、天草竜胆さん。初めまして、かしらね」澄んだ美しい声だった。だが、どこか硬質で、冷たい。警戒心の表れなのかもしれないが。「お加減はどう?随分と顔色が悪いみたいだけど」
「……」翔摩を伺うと、焦った顔で小刻みに頷いた。どうやら逆らうのは得策ではない相手ようだ。
「うん、すっごく疲れてて、やむなくショーマの所に転がり込んだんだ……勝手なお願いだけど、ちょっとだけ休ませてくれないかな」
「でも、あなたは部外者だから。それは難しい相談かしらね」
即座に答えが返ってきて、竜胆は言葉を失った。にべもなく、とはこういうことか。
だが、少女は微笑みを絶やすことなく、意味ありげな沈黙の後、こう提案してきたのだった。「……この学園に入学するっていうなら、話は別だけど」
「え?……オレが?」
「あなた、年は?別の高校の生徒?どこかに就職したりしてるの?」
「16だ。学校には行ってないし、就職もしているわけでは……ないけれど……」
「そ、なら良かった」少女は硬質な声のまま、微笑みかけてくれた。「うちの学校はいつだって生徒を募集しているの。入学試験なんてあってないようなものだし」
もしかして、勧誘されているのか、ということに気づくのに少し時間がかかった。
え?なに?追い出す気じゃないのか?
「いや、入学とかは、その」竜胆は動揺した。「ありがたい申し出だけど……」
入学審査には、当然健康診断が必須だろう。竜胆の余命が幾ばくも無いことは、間違いなく速攻で明らかになる。
「何か別の予定があるのかしら?」
「そういうわけでも、ないんだけれども……」
どういうわけか、入学の方向で話が転がろうとしている。とはいえ、正直に自分の死病を話すと、即刻話が終わってそのまま追い出されそうな冷徹さが、この少女から感じ取れた。断っても同様だ。
冷静に考えて、ここは話を合わせておくべきだった。そして体力が少し戻れば、こっそりここを離れればいい。
――どうせもうすぐ死ぬんだ、多少騙しても構うまい。
だが、そんな心の悪魔のささやきに、氷のように反論する天使の冷厳な声があった。
――立つ鳥跡を汚さず。死ぬのならば美しく死ね。
「……オレは妖物化病を患ってるんだ……割と前から」まっすぐに少女の目を見上げて言った。
これで、竜胆は追い出される。だが、代わりに、出来うるならば、猫の支援をお願いしよう。正直に勝る気迫はない。命まで懸けたお願いを、ここでしてみせよう――。
「体はもう、ガタガタなんだ。歩くことすらままならない。入学を進めてもらえたのは嬉しかったけど、オレは……本当ならもう死んでたっておかしくない体なんだ」
「そのようね」
少女は笑みさえ浮かべて頷いた。
「……え?」
思っていたのと反応が違った。
「……今のオレの体では、絶対に入学審査は落ちてしまう、よな?」
馬鹿になった気分で確認すると、
「そうなるわね」
やはり少女は冷静に返してきた。
「……」ぽかんとした竜胆は、やがて猛然と怒りがわいてきた。この女には、入学させる気なんてハナからないんだ。ワザと嬲って期待させて、そして放り出すつもりなんだ――!
「君は――!」
「でも、抜け道は何かとあるものよ。コネと、頭と、抜け目なさを駆使さえすれば」激昂しかかる竜胆の表情など無視するかのように、少女は諭すように静かに言った。「ただ、代わりにモラルは投げ捨てることになる。悪事を働くって、そういうことだから。そしてこれは一生ついて回る。隠したって意味はない。故事で言うでしょ?天知る、地知る、我知る、君も知る……それだけの覚悟があれば、という話なのよ?……でも、あなたはどうかしらね。そんな覚悟が、あなたにできるかしら。……猫を助けるためだけに」
「できる!」脊椎反射で答えた。
「できるよ!オレはこの子を助けるためなら、悪魔にだって魂を売り渡せる!それだけの覚悟がある!オレは、それこそなんだってしてやれる!」
「そ……そこまでなの。想像した以上ね……」
初めて少女は目に動揺をにじませたが、何度か瞬きして平静を取り戻した。「そうね、じゃあ話を進めてもいいかしら」
「ん?」
「まずはこの書類にサインを」
差し出されたバインダーには書類は挟み込まれていた。差し出した指にはペンも挟んでいる。
「え?なに……入学申込書?……2枚目は、誓約書?これは……郷土警備隊入隊希望……4枚目は……」
「あとで偽造した健康診断書にもサインをしてもらうから。日付は去年の夏の――そうね、8月15日ぐらいにしてもらおうかな。その日にあなたが願書を提出し、受託したという形をとるわ」
「えっと……」
「協力病院にあとで連絡しておくから、明日中に偽造診断書が届くはずよ。制服も明日まで待ってもらえたら。クラスは――1-Dでいいか。生徒名簿にも明日中に記載しておくから。あなたは、今日明日中にボロの出ない物語を考えておいてね」
「待って!待ってくれ!」
たまらず竜胆は制止した。「言ったよな、聞いたよな、オレは、重病なんだ。学校なんかに行ってられる体じゃないんだぞ」
「……」少女は唇を尖らせた。「猫を助けたくないの?」
「助けたい!助けたいさ!でッ、でも!それとこれとは別だろッ?こんなことをしてもらって……その、何の意味があるんだよ!オレは明日にも死んだっておかしくないんだ!」
「学内で死なれるのは困るわね」少女は頷いた。「死なずに倒れたら、きちんと病院に運んであげる」
「え、いや、そういうことじゃないんだって!ほら、その……」なんだろう、この噛み合いなさ。「た、例えばさ……入院費だ!オレ、金を持ってないんだ。家族はいることはいるけど、貧乏だしさ!」
「妖物化病は重度難病指定だから。現物給付で医療費が出るわ」
それは、昨年の入院話が出た時に知った。
「でも、病室代と食費は実費だし。そっちが高いだろ」
「その分のお金も給付されるとしたらどう?」
「え?どこからだよ。保険には入っていない。我が家に保険料を払うだけの余裕はなかったし」
「うちに入学したら、傷病給付金が出るわ」
「へ?」
「うちは手厚いのよ、若者を確保するためにね」至極冷静に少女は告げた。
「……」
竜胆は沈黙して考え込んだ。
なぜここまで入学を勧めてくれる?入学金なし学費なしがこの教練学校だ。勧誘して入学させたら報奨金がある?いや、今のこの子の話なら、竜胆が自分の意志で申請したことになる。法の抜け穴か何かを利用して竜胆を入学させたとしても、この少女に得はない。
「そう……そうなんだ」竜胆は改めて少女の顔を見つめた。「オレを入学させて、君に何の得があるんだ?」
やっと違和感の正体に気づけた。もっと早くに気づくべきだったのに、成り行きが不可思議過ぎたのだ。
「得?」少女は小首を傾げて見せた。「そんなに私の善意が信用できない?」
「善意、なのか……」
竜胆はまじまじと少女を見つめた。
少女は相変わらず眠そうな瞳で竜胆の顔を見返している。首を傾げているため、うなじの白さが思った以上に色っぽく見えた――いや、いかん!死を目前にして色を感じるなどと!それとも、死が目前だからだろうか。
いやいや、思考を整えよう。
――この女の子から先ほどは権力者の威厳を感じはしたが、同時に仮面をかぶっているかのような欺瞞の感覚がする。人としての優しさを欠いた感覚だ。まるで、心の奥底に冷たい冷たい氷の結晶があって、気に食わない相手は容赦なく抹殺してしまいそうな――。
「覚悟……」にや、と皮肉に少女の唇が歪んだ。まるで、初めて仮面を脱いだかのように。「……したんじゃなかったの?」
「確かに、覚悟はいくらでもしているが……」
「あなた、街の人に馴染みの獣医の場所を聞いていたわね、でも、被災して、姿を消してしまっていた」
「うん……え?なんでそれを?」
「私なら、別の獣医を紹介してあげることができるわ。そうね、ポケットマネーで診療費も出してあげる」
「あ……その……」願ってもない理想の行為に、竜胆は言葉を失った。
「安心して。悪だくみなんかじゃないから」少女は口元だけ微笑んだ。「私は、ただね、勇者として遇してあげたいだけなんだから」
「勇者?」
「ええ、そんな体なのに、ほとんど素手で悪魔と戦った勇者には、ふさわしい待遇を受けるに値するわ」
「なんで……」知ってる、と言いかけて、さっきの紫露さんにも同じ感想を抱いたことを思い出した。いや――
「……そうか。紫露さんは、君の差し金か。オレが悪魔と戦ったと知って、名前と、どんな奴かを確かめさせたんだな?」
この子は生徒だが、校長の娘らしい。寮母の紫露さんは――本来の立場は下ではないはずだが、威厳を鑑みて、手下にされていそうな気がした。
少女は無表情に口を閉ざしたままだ。だが、否定しなかっただけで答えは見当がついた。
「……でも、どうやって知ったんだ?あの場所には、本当に誰もいなかったはずだぞ」
「さあ?」少女は肩を竦めて目を逸らした。「私は情報通だから」
「――おいおい、悪魔だなんて、何言ってんだ?」
ただ会話に加わりたいだけなのか、凍った空気に翔摩が乱入してきた。「さっきの紫露さんの話なのか?ナメクジを退治したとか、そういう――」
「ええ、体長3メートルで口から溶解液を吐く、巨大化もする悪魔のことだけど」
「……は?」
硬直する翔摩をよそに、少女は竜胆に視線を戻した。
「聞きずらい事を聞いていいかしら?」
「うん?」
「……あなたは、死ぬ気だったの?」
「いや、まさかそんな……」愛想笑いを浮かべたが、少女の真剣な顔に、真面目に答えなければと思い直した。「……死ぬ気はなかったさ。でも、逃げるわけにもいかなかったんだ」
不意に――
(ああ、知ってもらいたい!)と衝動的に、竜胆は感情が込み上げた。
(少しでも多くの人に、オレの、愛を……)
「オレは戦ったのは、この子を助けるためだったんだ!」
カバンを横にどけ、助け上げた美しい猫を紹介するように万感を込めて手を広げてみせた。「思ったんだ。死ぬとか勝つとかは関係なく、オレはこの子を守る為に戦いたいと。この子を助けるためなら、何でもできると」
ちらっと猫に目を遣って少女に視線を戻した竜胆は、猫がぱっちりを驚いたように目を開けているのに気づいて二度見した。
「……」疑然と目を見開き、猫は竜胆を見つめ続けている。
ふ、よせやい。照れるじゃねーか。
そんな思いで鼻の下を指でこする竜胆の前に、黒い影がさしかかった。「――ん?」
「リンドー……お前、家に帰るんじゃなかったのか?」
逆光気味に仁王立ちになる翔摩が、頭上でぽきぽきと指を鳴らしていた。「猫についていくなって言ったよな。それで?……悪魔と戦ったって?」
「ん。まぁ……」肩を怯えに竦め、不審気味に竜胆はキョロキョロと助けを求めた。「結果的にそうなったかもしんないけど……」
「……ちょっと聞いていい?」2人の少年に割って入ったのは、少し後悔の入った少女の声だった。「天草君って、なにか心の病を持っているの?」
「似たようなもんだ」「失敬な!」2人の少年の声が被った。
「君はこう感じたことはないかッ?」カッ!と竜胆は天に向かって手を広げる。
「ん?」
「世界は猫を中心に回っていると!」
「……」少女は膝の上に両肘を立て、組んだ指の上に顎を乗せて、思い悩むような眼をした。「ま、悪い人じゃあないみたいだけど」
そう呟くと、だるそうに、ポケットから何かを取り出した。どうやらスマホらしい。妙に重厚な感じだが。
「罹患したのはいつ?」
ため息一つ。それだけでさっきまでのやり取りはなかったかのように、少女は別の話題に移っていた。「受診状況は?」
「妖物化病の判明は……もう1年半前になるかな」なんだか吹っ切れた竜胆は、落ち着いた口調で正直に話した。「病院は――専門病院に入院しろと言われたけれど、いかなかった。それからは病院はどこにも行っていない」
「入院だけじゃなくて、家からも逃げたんだよな」翔摩が会話に割って入ってきた。いかん、まだちょっと怒ってる。
「1年半もその病気を抱えて、よく立っていられるわね。右手の手袋はその為ね?」
「ああ……」
体の状態を含め、翔摩に話したことをもう一度話す羽目になった。あと、翔摩に聞かせたくは無かったが、悪魔ナメクジと戦った詳細も口にした。隠す意味はもはや無い。と思いきや、
「……」
「ショーマ?」
「お前、イイ加減にしろよな!」頭痛がするように額を押さえた翔摩は、激昂して食って掛かった。「どこの世界にだ!猫の為に死にに行くやつがいるか!」
「いる!」竜胆は毅然と親指で自分の胸を力強く指さした。「いるぞ!ここにいる!そして猫のために死ねる奴なんていっぱいいるに決まってる!何馬鹿なことを言ってるんだ」
「馬鹿なことを言ってるのは!」ビシイッと鼻に指を突き付ける。「お前ッだ~~~~ッッッ!」
「その話は、後にしてもらっていいかしら」
「「お、おう」」
飲まれたように竜胆と翔摩は口をつぐんだ。なんだろう、この少女からは、一挙手一投足をないがしろにしてはならぬというか、従わざるを得ないカリスマを感じる。見た目、同じような年恰好なのに。
しかし、本当にどうやって悪魔と戦ったことを知ったのだろうか?ちょっとカマをかけてみよう。
「あのナメクジの入り込んだアパート、中に誰もいなかったんだろうか?」
「大丈夫、あそこは取り壊し予定だったから」スマホを操作しながら、少女は淡々と返した。「取り壊し費用が出なくってずっとそのままだったの。まさか旧軍のグレネード1発で倒壊するとは思わなかったけど」
ビンゴだ。まさに見てきたような返答だ。どうやって知ったかは依然気になるが、しかしなんだか聞ける雰囲気ではなかった。
「天草君の家族への連絡は?」
少女が問いかけたのを、翔摩が応える。
「電話してみたんだけど、留守だったんだ」
「そ」一つ頷いた少女は、竜胆に目を向けた。「天草君の自宅の電話番号を教えてくれる?それと、天草君の自身のも。私のも教えるから」
「オレはケータイを持っていないんだ」美少女とのメアド交換を喜ぶような甘酸っぱい情動を覚えることなく、竜胆は首を振った。そんな余裕は全てにおいて無かったのだ。「知る限り、妹も母も持ってない。家の電話番号は――……」
竜胆の自宅番号をスマホに登録している少女に、翔摩が切り出した。
「あ~……俺が代わりに委員長の番号を登録しておこうか?」
「ん、あなたにはクラスのチャットがあるでしょ?」少女は眼も合わせずに断った。
「……」翔摩が、ちらりと竜胆を見た。何でお前だけメアド交換できそうだったんだ?と言う思いだった。
「?」だが、竜胆はその視線の意味を理解できない。恋を考えるには、死があまりにも身近過ぎたのだ。抱く妄想は、厨二病じみた、いや厨二病そのものの自殺的なバトルシーンだ。幸せな将来なんて、夢にすら見ていない。鏡のような目で望むのは、ただ美しく死ぬことだけだったのだ。
「その猫は大丈夫なの?」
スマホに目を落としながら少女が訊いてきた。
「……。悪魔に襲われて、ぐったりしてる。おっと」食べ物を差し出すのを忘れていた。
パウチを歯で噛み切ろうとするのを、翔摩が取り上げて代わりに封を開けてくれた。
「そうだ、さっきの話だけど、いい獣医がいれば紹介して欲しいんだ」
「あなたの受診が先でいいかしら」少女は顔を上げた。「……舞代総合病院に話を通しておくから、明日受診してくれる?健康状態は知っておかないとね。ちなみに、そこがうちの協力病院。偽造診断書もそこで作るから。……ああ、あなたが入院する予定の病院でもあったわね」
今気づいたように少女は言ったが、どこかワザとらしかった。もしかしてだが――紫露さんが教えた竜胆の名前を検索し、この場に来るまで情報を揃えていたのかもしれない。竜胆の病気も、先に協力病院から得ていたからこそ、驚かなかったのではなかろうか。本来なら個人情報は厳重に管理されるものだろうが、なぜか、この少女なら取得も可能だろうと思えた。ワザとらしい言い方も、それを指し示すかのようだ。
だが、そこまでしてくれるほど自分に価値があるとは、竜胆には思えなかった。
そもそも、普段の竜胆なら、こんな提案を怪しんだだろう。そして冷静に考えれば、これはいわば公金流用の偽装入学だ。死を前にして美しくあれなどと念じている竜胆が本来受け入れるはずもない。なのに素直に従う気になったのは、この少女のカリスマ性のなせる業でもあったし、竜胆がこの猫にしか目が行っていないためでもあった。
――実のところ、この段階では竜胆という少年に対して、後ろ暗いたくらみが少女にはあったのだ。そのような気配など微塵も感じさせなかったが――。
「明日の受診時刻は追って連絡するわ」少女は立ち上がった。「今夜のところは、そのベッドで寝てて構わない。紫露には言っておくから。ただ、部屋からはあんまり出ないでね。トイレに行くときは、更科君が同伴で」
「判った。任せてくれ」サムアップする翔摩。カッコつけるところじゃあないような気がするけど。
「ありがたい……とは思うんだ」おずおずと竜胆は切り出した。「でも、どうしてこんなにしてくれるんだ?」
「あら?嫌なの?」少女はびっくりした振りをした。
「嫌じゃないけど、その、返すことが、何もできそうにない」
口ごもりながら話す竜胆に、少女は口元で笑顔を作った。「いいのよ……言ったでしょ?勇者には、それなりの厚遇があって然るべきだと思うから」
「勇者って……だから、オレはただ……」と照れ笑いを浮かべた竜胆は、半ば恥じらいを隠す気持ちで猫を振り返った。
不思議な色合いの猫は、丸くなって寝息を立てていた。表情は少し苦しそうに思えたが、呼吸は穏やかだ。時間も遅いし、獣医は後日にして、今日のところは一緒に寝よう。水も用意して……。
今後のことに頭を巡らせ始めた竜胆は、肝心なことを聞いていないのに気が付いた。少女に向き直る。
「ごめん、名前を訊いてなかった。教えて貰っていいかな?」
これから世話になるのなら、名前を聞いておかねばなるまい。
「……」
とたんに少女は顔色を曇らせた。だが、作り物めいた笑顔をちょっと浮かべて、それでも渋々と、といった呈で生徒手帳を取り出すと、一部を隠すようにして竜胆に見せた。
こう書かれている。
『金銀蓮花――』その後ろは、指が置かれていた。
「ががぶた……」
ぼそっと竜胆が読むと、少女が硬直した。
「お前、読めたのか?」翔摩が訝し気に訊いてくる。
「ん?え?4文字でこう読むんだろ?違った?」
スポーツは得意でないし、貧乏で娯楽も少なかったが、代わりに小学校中学校とよく図書館で過ごしてきた。その時に読んだ何かの本に記載があった気がする。
なるほど、名乗りたがらない理由が分かった。女子としては、あんまり好ましくないであろうフレーズが入っている。完全無欠な風に思えたこの少女にも、弱みのようなものはあるんだなぁ、と竜胆は変な感心の仕方をした。
「……初見で読める人がいようとは」どこかあきらめ顔で少女はため息をついた。指を開き、生徒手帳を全開にする。『金銀蓮花アイカ』これが本名か。……ん?名前はカタカナなんだ。
「あなた、なにかと只者じゃないわね」
「……あ~」竜胆は頬を掻いた。褒めているようだが、皮肉が混じっているのを感じ取れる。こういう時はなんて言ったらいいか。だが、迷ったのなら下手なことは言わない方がいい。うっかりあらぬことを口走った時、亡き姉に激しくどやしつけられた覚えがある。
(姉ちゃん、か……)
すごく久しぶりに姉のことを思い出した。性悪ですぐに手が出る狂暴な姉。どういうわけか、この金銀蓮花という少女に既視感を感じる……。
その後は、請われるままに書類にサインをした。特に不審なものはない。本当に善意だけなのだろうか。それ以外の理由は思いつかなかった。
「何かあったら、寮母の白詰さんを呼んだらいいわ。話は通しておくから」
そう言うと、少女は笑顔を残して部屋を出て行った。来た時同様、泰然とした動きだった。なんだか、すごく貫禄がある。本当に同じような年齢なのだろうか。
「じゃあ次だ。待たせたな」
翔摩が腕に抱えた栄養ゼリーをベッドの上に並べ始めた。
金銀蓮花アイカが男子寮の廊下を歩いていると、白詰紫露が待ち構えていた。
「事務所で待っていたらよかったのに」
冷たい、と言えるほど静かな声で、少女は告げた。「来なさい。話があるわ」
明らかに下に見た態度だが、紫露さんは疑問を感じないようだった。一声かけて平然と通り過ぎて行く少女に、小走りになって追いかける。
「アイカちゃん……あの男の子、どうするの?」
「……判り切っているでしょう?」少女は目も向けないし、足も止めなかった。「素質は十分だわ。変化に1年半永らえた魔力耐性、悪魔と張り合う精神力、性格も悪くない……異常なところはあるけれど」
そう言ってだるそうに髪を掻き上げた。「期待できそうだわ。4人目の『死霊兵』として」
「……」紫露さんは思い悩んだ顔だった。「……前みたいに、失敗しない?」
「したってかまわないでしょ?どうせ死ぬんだから」
「言い方!」
「成功したら、なんて名前を付けたらいいかしら?」ようやく振り返った少女の口元は、皮肉気に歪んでいた。「最後が蘆立水蓮だったから、次は……何とか土蓮って感じかしら?でも、ドレンって排水するみたい。いっそ、趣旨を変えて、土竜、でもいいかしらね。元の名前を残して。ああ、けど郷土警備隊に同じような名前の兵隊がいたんだっけ」
「アイカちゃん!」たまらず紫露さんは声を荒げた。
それへ、少女は嫌味っぽく、シーッ、と口元に指を立てる。「このことは内緒なんだから。大声を出しちゃ駄目よ」
「でも……」
「なるようにしかならないのよ」
少女は再び歩き出した。だが、紫露に背を向けるその表情は、そっと苦渋を含んでいた。「使えるものは、使わないといけないの。余裕なんて、いつだってないんだから……」
「……!」紫露さんは何か反論したそうに口を開けたが、しかし、悲しそうに胸の前でこぶしを握り締めて俯いた。
「……そうね」ぽつりとそうつぶやいた紫露さんは、とっくに視界から消え去ったあるじの背を求めて、小走りに後を追った。
――そして、やっぱり途中で力尽き、歩くよりも余計に時間がかかってしまった。一度完全に体力が回復し切ってしまわないと、紫露さんの体力はあっという間に底をついてしまうのだ。
(あ――)
ふと竜胆が目を覚ますと、既に照明は消えていた。カーテン越しに僅かな光が入ってきている。真夜中の頃合いだろうか。
猫の姿を探すと、なんのことはない、胸元で丸くなっていた。まさか猫の温かさを感じないとは。だが、仕方がない。竜胆の肌は、もう感覚もかなり鈍くなってしまっているのだった。
「君を助けることができて、本当に良かった……」
生まれてから市営住宅住まいで猫を飼うことはできなかったが、もし飼うことができれば、どんな名前を付けよう、などと言う候補は既に百以上に及んでいた。だが、すでにこの子の名前は決めてある――
「モエギちゃん……」
ふわふわの背中を撫でると、ピクッと『モエギ』ちゃんが震えた気がした。
「……オレの夢は、猫カフェを作ることだった」小声で話しかけた。「たくさんの猫に囲まれ、愛し愛されて生活したかった。でも、そんな夢は、もうかないそうにない……」
いざ経営するとなると、理想通りにはいかないだろうが、夢は美しいから夢なのだ。潰えた未来に夢を見て、何が悪いのか。
「……」
どういうわけか、モエギちゃんはじっと聞いてくれているような気がする。
「でも、もういいんだ……君がいるから、もう十分なんだ」ぽつりぽつりと語る。「君を助けて、オレの人生は報われた気がする……。ずっと一緒にいよう。命を懸けて。大切にするから。だから」
照れもなく、こう言えた。「……残りの人生、オレと一緒にいて欲しい」
ごそ、と向かいのベッドで物音がした。もしかして、翔摩か?起きていたのか?
もちろん、竜胆は気づけなかったのだ――親友が実は起きていて、声を押し殺して涙を流していたなんてことは。