6.城址学園の包囲網 その2
照明に煌々と照らされる学生寮は、学舎に繋がった2階建ての長い建物だった。城跡の敷地を大きく使える利点だろう。窓の間隔から見て、部屋も広そうだ。見るからに年季が入っていて安普請に見えるところもあるのだが、壁にはひびが見当たらない。意外と質が良いのかもしれない。
「花壇、多いな」
まず目についたのはそこだった。桜並木があるのは頷ける。むしろ立地的にも性質的にもないとおかしい。しかし寮のぐるり、それどころか学舎の形に添って見渡す限りに花壇が並べられ、色とりどりの花が咲いているのが、夜の帳を透かして目に映える。イメージ戦略にしても、ちょっと多すぎじゃなかろうか。
「校長の娘の趣味らしい。紫露さんと交互に、水遣りをしている姿をよく見るな」
「紫露さんって?」
「寮母さんだよ。大丈夫、今は食堂にいるはずだから。大体の他の生徒もさ」
寮への秘密ルートは、何の事はない、安直にも裏口から入るだけだった。鍵もかかっていないし、見張っている者だっていない。淳軍事的な学校だから、もっと厳しいと思っていた。ただ、出るにせよ入るにせよ、あんな強面の――と言っても顔は見えなかったが――門番がいれば、脱走や侵入する気は薄れるだろう。
翔摩先導で、竜胆は廊下を歩きだした。夕食の時間だからなのか、誰の気配もないのはありがたい。正直言って、この学園の生徒は男女ともガラが悪いというか、いい評判は聞かない。蔑視する気はないが、使い捨て兵士になる将来と引き換えに給金を先払いしてもらえる学校なのだから、荒れていても仕方がないと言える。一度部屋に入ったら、籠っておくのが利口だろう。
そうして誰にも見咎められず、『109』と書かれた部屋に辿り着けたと思った途端だった――。
「あのッ……!」
背後からパタパタと駆け寄ってくる足音に気づいて、慌てて翔摩が中に入ろうとしたが、
「待って!……待ってください……!」と必死な感じの女声が追い縋ってきた。
すぐ傍まで来られては無視なんて出来ようがない。そして周囲に誰もいないので、用事があるのは竜胆たちだ。
やむなく振り返ると、そこには、ハァハァと息を荒らげて壁にもたれている、胸を押さえた大人の女性の姿があった。
彼女の重そうなぐらいたっぷりとした長い髪は、ばさっと前に落ち、見るからに息苦しそうに喘ぐたびに波打つように揺れている。長いロングスカートに、薄緑色のネックセーターと言った装いだが、竜胆はまず、喘ぐたびに揺れるその大きな胸の膨らみに目を惹かれた。足元は少女趣味を思わせるスリッパで、濃いめの色のストッキングがスカートの下から覗いでいた。
女性はようやく落ち着いたか頭を上げると、垂れ目がちで人の良さそうな顔立ちがあらわになった。年齢は20代半ば程度だろうか、人好きのするような、かなりの美人さんだ。おしゃれで大きな眼鏡もポイントが高い。
竜胆は小声で翔摩に訊いた。「……だれ?」
「だから……寮母の白詰紫露さんだよ」困ったな、といった小声で翔摩が応えた。「……おかしいな、この時間は厨房に入っているんだが……」
「すっごく走ってきたぞ、なんかお前に用があるんじゃないのか?」
「それを言うなら……」視線を揺らした翔摩だが、すぐに顎を引いて頷いた。「リンドー、俺の後ろに移ってくれ」
そして、ささ、と位置を変えると、翔摩はオーバーアクション気味に髪を掻きながら、寮母さんへと向き直った。
「あ、すみません、遅くなってしまって!ボランティアが長引いちゃったんです。もっと早く帰ろうとは思ったんですけど、その、ほっとけなくて……あ、今日の晩御飯は何でしょう」
「あの……えっと……」
紫露さんは、まだ息が整わないようだ。若そうなのに、体力が低い人だなと思ったが、そんな大きな胸とお尻では走るのも大変なんだろう。なのに腰も足首も細くて奇跡のようなナイスバディだ。
こんな体をした美女が、男子寮の寮母なんかをしていいのか?
「……は~!」
大きく深呼吸した紫露さんは、ようやく声を出せるまでに回復したらしい、くッと姿勢を正し(ふるんと大きな胸を揺らして)、翔摩の後ろ――竜胆へ、はっきりと視線を向けた。とはいえ、優しそうな垂れ目なので、どうにも緊迫感を感じられない。立場的には危うい状況のはずなのだが。
最初の第一声は、気がかりそうな声だった。
「あの……お具合悪そうですけど、どこを怪我をされてますか?」
「え?怪我?」
会話は翔摩に任せよう、と心に決めていた竜胆だったが、一言目で無理だった。気遣いを無視するのは難しい。
「あ、怪我、というより、その……体が弱いだけです。怪我なんてどこもしていませんから……」
「遠慮はなさらなくて結構です」そう真摯に言うと、紫露さんは手を伸ばして竜胆の片手を両手で握って包み込んだ。
ぎょっとして翔摩が眼を剥いている。目の色が、明らかに(ずるい!)と叫んでいた。
「だって!」そして目の奥を覗き込むように顔を近づけてきた。「だって、悪魔とお一人でやり合ったとお聞きしています」
「……は?」
今度は竜胆が驚きに目を丸くした。
――何で知ってる?
翔摩が食いついてきた。「おい何の話だよリンドー。悪魔と戦ったって……何の例えだ?」
「あ~……」まずい、翔摩に無茶をしたとバレるのはまずい。「……ナメクジをさ、退治しようとしたんだよ。いや、悪魔みたいにでっかい奴でさ……」
「……あ~あったな~そんなこと」翔摩はなぜかすんなり納得した。心当たりがあるのか?
そして、軽い口調で紫露さんに向き直った。「紫露さんてナメクジ苦手なんだ」
「あ、はい、お風呂場で壁に何匹も這ってるのを見ると、ぞわッてしちゃいますね」
「そうですよねッ!」
鼻の下を伸ばした翔摩が食い気味に迫って言った。風呂場、のキーワードに反応したな?
「え、あの……」竜胆の手を握ったままなので、紫露さんは後ろに引けない。離してくれても構わないのに。
「ご、ごめんね翔摩君、……私、この人とお話があるので」
「そんな冷たいことを言わないでくださいよ!」
翔摩がぐいぐい迫る。紫露さんは相変わらず竜胆の手を握りしめたままだ。
翔摩の攻勢は、竜胆をかばう為か、ただ迫りたいだけなのかよく分からないな。しかし、支えになっていた翔摩が動いてしまったせいで、足元がぐらりと揺らいでしまった。
(おっと)ただでさえ不自由な右手に猫を抱いているのだ。さりげなく、壁に右肩を当てて体を支える。
「あ、あのッ!」迫られながら、紫露さんは竜胆へと首を捻じ曲げてきた。
なんでそこまで懸命に?
「お名前を……訊いてもよろしいでしょうかッ?」
「……あ~こいつはですね」
「あ、ごめんなさい、翔摩君には聞いてないんです」
早口で紫露さんは拒絶した。どこか余裕がなさそうだ。
だが、竜胆こそ限界が近かった。あと一歩で横になれたはずなのにと思うと、焦燥も合わさって疲労感がいや増してしまう。こうなると分かっていれば、先輩の弟で~す、みたいなノリで偽名を打ち合わせておけたのに……。
「あ、偽名じゃなくて、本名でお願いします」若干テンパッた顔で、紫露さんはそう述べた。
「……え?」
竜胆は瞬きして、紫露さんの端正な顔を見つめた。
(いま、心を読まれた?)
「……あ~」紫露さんの目が、困ったように宙を泳ぐ。
(……いや、まさかな)
とはいえ、紫露さんの柔和な顔つきには、いい加減居たたまれず、
「……。あまくさ、りんどう」
戸惑いながらも、正直に本名を告げてしまった。もし偽学生だとバレても、無下にはされない気がしたのも、理由にある。
「……すぐ済みますから、質問をちょっとだけ、いいですか?」
あまくさりんどう、あまくさりんどう、と口の中で唱えて、紫露さんはにっこりと微笑んで訊いてきた。「あなたは何のためにここに?」
その質問は、明らかに生徒に対するものではなかった。
「あ、え~と……」
状況の変遷に、思考が追い付かない。だから疲労で限界なんだって!
く、なんて答えよう。疲れたから、と今さら答えていいものか。具合の悪い猫も安心できるところで休ませたい。だが、学生寮なんて当然ペットなんて禁止だろう。今はうまい具合に翔摩の背に猫が隠れているが、見咎められるとまずい。
と思っていたら、ふいに胸元を覗き込んできて、ばっちりと猫の姿を見られた。
「猫ちゃん、具合悪いんですかッ?」
「え?いや、そのッ」わたわたしたが、なんとなく素直に答えた方がいい気がする。
「……。傷はなかったのですが、しんどそうなので、休ませてあげたいなって」
「わかりましたッ」ぱんッと両手を重ね合わせる紫露さん。「じゃあミルクを持ってきてあげますねッ!」
そう言って手を離すと、どこかへ行こうと走って廊下を曲がっていった。
と思ったら、走って戻ってきた。
「そうじゃなくって、ですねッ」
また息が切れている。どれだけ体力がないんだ?
「聞きたいことが、まだ聞けてませんッ」
「あ、はい」
神妙に竜胆は頷いた。心をある衝動が渦巻き始めている。なんて名付けよう、この何もかも素直に答えたい気持ちのことを。
「え~っと……あなたは、ここで暴れたり、その、悪いことはするつもりありませんかッ?」
「もちろんです。オレはただ……疲れていて。……こいつも」
と猫を差す。「休憩したいだけなんです。すみません、ちょっと休ませてもらえれば、すぐに出ていきますから」
「あ、そんなに急がなくてもッ!部屋で一緒に横になってくださって結構です」
逆に両の手の平を広げて引き留めてきた。
「えッ?ここ、ペットは禁止では?」驚いて竜胆は尋ねた。
「あ、禁止なんですけれどもぉ」と困った笑顔。「でも、割とみんな隠れて飼ってるんですよね……」
「はぁ……」
「え~と、あと聞かなくちゃいけないことは……」両手を合わせながら、紫露さんの目が宙に泳いだ。なんだ、そんなマニュアルがあるのか?それとも、誰かの使い走りか?
「……」
なんとも処置に困る沈黙ののち、紫露さんは、大きく笑顔で頷いた。「これで、全部ですね!」
「はあ」
「じゃあ、すぐ戻ってきますねッ」
そう言うと、また紫露さんはパタパタと走っていき、再びどうにも手持無沙汰な、しばしの無為を経たのちに、大急ぎで戻ってきた。両手で包むようにマグカップを持っている。中にはなみなみと温かいミルクが揺れていた。
「これを猫ちゃんに」
「あ、ありがとうございます」
「では、私は失礼しますね」
そう言うと、自分の首元のリボンを上に引っ張り始めた。セーターの中がもそもそ動いて、大ぶりのスマホが出てくる。首から下げてたのか。
ん、あのスマホ、今紫露さんの胸に触れてたんだよな……。
とか思いながら、ぼんやり見つめていると、スマホを耳に当てた紫露さんは慌てふためいた。
「あ、その、ごめんなさいね、ちょっとここから離れますからッ……あ、アイカちゃん、あの、そのッ!」
竜胆たちと、電話口の向こうにも何やら弁解しながら、紫露さんは大慌てでパタパタと離れて行った。聞かれてはいけない話をするつもりだったらしい。
あの人、間違いなく悪い人じゃないな。
あっけなく正体がバレたことには唖然としたが、心のどこかではホッとしていた。
「あまり後ろめたいことはしたくないしな」
ぽつり、と竜胆は、はかなげな笑みを浮かべた。「良くて、ここに居れるのはせいぜい一晩ってところだろうしな……」
「……ま、とにかく入ってくれ」
翔摩は気を取り直すように咳払いすると、ノックの手間もかけずに竜胆を部屋に招き入れた。左右に二段ベッドが並び、ベッドの奥と手前とに机とクローゼットが1セットずつ、計4人分置かれている。
話の通り、一人分の荷物しかないようだ。机も3つが空。唯一使用されている机周りには、分厚い週刊漫画雑誌がタワー積みになっていた。あれで整理しているつもりなのか?机の上には教科書があったが、縦ではなく、平積みにされていた。やる気のなさが反映されて実に分かり易い。
そして、机の正面の壁には、何のデザインか、斜めに黒っぽい棒のポスターが貼られていた。……いや、違うな。先がとがっていて白い。握りが剥き出しの鉄のままで、目釘の穴が開いている、という造りを見ると、反りのない、まっすぐな片刃の日本刀のようだ。――だが、長すぎる。柄の部分を普通の刀と鑑みると、刃は2メートルを越えそうだ。下にはなにやら文字が記されているが、ベッドの影が落ちていて、読めなかった。
「いい部屋じゃないか。広いし、快適そうだ」ぐるりと見回した竜胆は素直に感嘆した。4人部屋に1人というのも素晴らしい。「こんな部屋なら猫の1匹ぐらい隠して飼えそうだな……。いや、10匹ぐらいいけるかも……」
「後ろめたいことはしたくないんじゃなかったのか?」
ため息をついた翔摩は、傍らのベッドを指さした。「そこのベッド、空いてるから座れよ」
「うん、そうさせてもらおっか」
疲れた笑みを見せて竜胆はベッドに腰を下ろし、そしてタオルを広げると、猫を抱き上げてそっと下ろした。
翔摩が皮肉に顔をゆがめた。「しかしお前、変わらないな~」
「何がだ?」横に寝かした猫の脇の下の体温を体感で測ったり、毛の中に見逃した怪我がないか確かめたりしながら竜胆は上の空で応えた。背中の平行にできた大きな傷は新しそうなのに、出血の心配はなさそうだ。こんな傷、一体どうやってついたのか。……ナメクジか?あのナメクジがやりやがったのか?だったら、次に出会ったら…………………………悪魔であろうが…………………………殺す!
「……顔、こえ~よ!どこか痛むのか?」
「ん、まぁ……」
だが、今はこの子の容体が重要だ。竜胆は、猫の体をそっと動かして、ベッドの端から頭が出るようにした。そしてマグカップのミルクを一口飲んで味と温度を確かめると、斜めにカップを近づけて飲みやすいようにする。
「どうだ~ミルクだぞ~飲めるか~」
そう囁いてやると、猫は目を閉じてぐったりしたまま、小さな舌をちろっと出してミルクをひと舐めした。
と、やにわに目をぱっちりと開けると、ぺろぺろと牛乳を舐め始めた。
「おお~!」
うれしそうな竜胆に、翔摩は頭を掻くとため息をついた。
「……ま、しゃあねぇよなぁ」
かつては、猫を拾っては、里親探しに協力させられ続けた翔摩だった。
「あ、古新聞とかないか?エサ上げたいんだけど、ベッドの上で、直じゃまずいだろ?」
「そりゃあな……あ、雑誌でいいか?」
「ばっちりだ……ちょっとコップをこのままの姿勢で持っててくれ。フードを買ってきたんだ」
そう言うと竜胆は、カバンから残金全てをはたいて買った、何種類かのキャットフードを取り出した。だが、右手は細かい動きができないので、左手で持って歯を使わないとパウチの封を開けれそうにない。
「俺が開けるって。お前は牛乳を上げてろよ」
「すまん……あ、カリカリはこのコップに入れてくれ」
受け取ったマグカップを、翔摩はためつすがめつした。「これ、お前用のマグじゃねーの?」
「オレ用だが猫用にする」
「……じゃあお前は?」
はたと気付いた翔摩が、竜胆の顔を覗き込んだ。「そういやお前、水分摂ってるのか?栄養摂ったのか?今日……何食べた?」
「今日は……」なぜか震える手でマグを固定しながら、竜胆は思い出そうとした。「……いや、今日は何も食べてないな」
忘れていた。だが、もっと大事なことがあったのだ。
「……ここにいろ」
押し殺した声で翔摩は立ち上がった。
「キャットフードを開けて行ってくれ」
「あとだ。待ってろ」
ぶっきらぼうにそう言うと、翔摩は扉を開けて出ていった。
「……しっかり飲めよ~……」
急に静かになった暗い部屋で、竜胆は慈愛を込めて囁いた。「いい子だな~……元気になるためには、まず栄養を摂らないとな~……。水分も摂って、あとは、しっかり寝て……」
その全てが自分には徹底的に不十分である、ということに思い至ることなく、竜胆は最後の一滴までコップを支えてミルクを飲ませた後、頭を撫でようとして――くらりと視界が黒くなった。
――ゴツッ、とベッドのヘリで頭を打って、目が覚めた。
気づくと、猫が可愛い舌で頬を舐めてくれていた。
「ごめん、ごめんな~ありがとうな~」
特に理由もなく謝って猫をワシワシしていると、ドアがノックされた。扉越しに翔摩の咳払いがくぐもって聞こえる。
「……」返事をしようとした竜胆は、怪訝に思って口を閉ざした。この部屋の持ち主は翔摩だ。そして、彼がさっきノックせずに部屋に入ったことは覚えている。
となると、扉の向こうは翔摩一人ではない。誰かままならぬ相手がいるのだ。紫露さん、でもきっとないだろう。
竜胆はそっと猫を抱き上げて自分の背に置き、カバンを移動させて猫を隠した。自分も隠れたかったが、そんな場所はない。2段ベッドの上に伏せてみようかと考えはしたが、高さが不十分だ。
ほどなくして、キィとゆっくり扉が開いた。入ってきた翔摩の顔は、どこか申し訳なさそうだった。手の中には栄養ゼリー飲料のパックの束。多いな!
そして、後ろからもう一人。
「あら、あなたはどちらさま?」
――さらりした長い髪をたなびかせ、どこか眠そうな目をした制服姿の美しい少女が、僅かに口元をほころばせてそこに佇んでいたのだった。